第9話:天使の零落


 地の底へと穿たれた巨大な裂け目は、まるで天界から堕ちた神の怒りが地を引き裂いたかのような凄絶さを湛えていた。岩肌は焼け焦げたように黒ずみ、縁には禍々しい赤黒い苔がこびりついている。その裂け目の奥底に、ぽっかりと口を開けているのが、「天使の零落」と呼ばれるダンジョンである。


 入口は、かつて神に仕えた者たちの祈りの場——朽ち果てた聖堂の奥に、まるで口を噤んだ亡者のように沈黙を保っていた。石壁には、遥か昔の祈りの残響が染みついているのか、足を踏み入れた瞬間、耳元で誰かが囁くような幻聴が微かに響く。言葉は判然としないが、胸の奥をざわつかせるその声は、まるで罪を悔いる者の呻きのようだった。


 天井から垂れ下がる蔦は、まるで堕天した天使の羽根が朽ち果てた残骸のように、風もないのに微かに揺れている。足元には砕けた聖像の破片が無造作に散らばり、誰かが踏みつけたのか、粉々になった顔の一部がこちらを見上げていた。


 第一層は、神殿の面影をかすかに残していた。白亜の大理石の柱は時の重みに耐えかねてひび割れ、苔に覆われている。柱の根元には、血のように赤い花が咲き乱れ、まるでかつての聖域が流した血の涙を吸い上げて咲いたかのようだった。湿り気を帯びた空気は肺に重くのしかかり、遠くからは水滴が石に落ちる音が、まるで時を刻む鐘のように響いていた。その音に混じって、時折、誰かがすすり泣くような声が聞こえるという。実際に聞こえたのか、それとも心の奥底が作り出した幻なのか——誰にも分からない。


 階層を下るごとに、光は徐々に失われ、空気は冷たく、まるで目に見えぬ手が喉元を締めつけるように重くなる。


 第二層では、天井から逆さに生えた黒い結晶が、訪れた者の心を映し出すという。結晶の中に映るのは、過去の過ち、隠された欲望、あるいは忘れたはずの罪。それを見た者の中には、己の心に耐えきれず、狂気に呑まれた者も少なくない。その場に立つだけで、心の奥底を覗かれるような感覚に、誰もが背筋を凍らせる。


 さらに深く、第三層では重力が狂い、天と地の境界が曖昧になる。石畳は空に浮かび、足元がどこにあるのかも分からない。階段は螺旋を描きながら虚空へと続き、登っているのか、落ちているのかさえ判別がつかない。ここでは時間の流れすら歪み、数分が数年にも感じられるという。冒険者たちは、己の存在すら疑い始め、やがて帰るべき場所を忘れてしまう。


 そして、誰も到達したことのない最下層——そこには、堕ちた天使が封じられているという伝承がある。


 かつて神の寵愛を一身に受けながらも、禁忌を犯し、天より追放された存在。彼が流した一滴の涙がこのダンジョンを生み出し、彼の果てなき嘆きが空間を歪め、今もなお、訪れる者の心を蝕んでいるという。


 だが、それはあくまで伝説に過ぎない。なぜなら、そこに辿り着いた者は、未だ一人として帰還していないのだから——


* * *


「……なんで、こ、こんな、ところに……龍がいると思ったんでしょうか?」


 その疑問は、まるで心の奥底から浮かび上がった泡のように、アニーの唇から零れ落ちた。飛空艇の窓から見下ろす巨大な裂け目は、まるで世界の終わりを告げるかのように、地を深く抉っていた。眼下に広がる闇は、底知れぬ恐怖を孕み、見ているだけで吸い込まれそうになる。


「ふむ。確かに妙ではあるな。だが、その理由は……機密事項だ。我にも知らされておらん」


 隣に立つミリアリアの声は、いつも通り落ち着いていたが、その眉間には深い皺が刻まれていた。金色の髪が風に舞い、蒼い瞳が裂け目の奥を見据えている。彼女の横顔には、覚悟と諦観が同居していた。


 アニーの胸の奥に、じわりと不安が広がっていく。これから挑むのは、世界最難関と名高いダンジョン。入り組んだ地形、狩猟指定級の魔物、希薄なマナ——どれを取っても、命を賭けるに値する危険が潜んでいる。


 飛空艇がゆっくりと降下を始める。裂け目の中腹に設けられた船着き場が近づくにつれ、アニーの心臓は高鳴り、手のひらがじっとりと汗ばむ。教会関係者のみが使用を許されたその場所には、すでに係員たちが整然と並び、無言のまま彼女たちを迎え入れていた。


「アニーさん、メグーをお願いね」


 着陸の衝撃が収まると同時に、フェイが柔らかく微笑みながら言った。その隣には、いつの間にか銀髪の少女——メグーが立っていた。


「おかあさん!」


 メグーは勢いよくアニーに抱きついてきた。その小さな体の温もりが、アニーの胸にじんわりと広がる。だが、その温もりは、同時に重たい現実を突きつけてくる。


「あの……私、お留守番ですか?」


 戸惑いと不安が入り混じった声で尋ねると、フェイはきょとんとした顔をした。


「え?いやいや、お留守番するのは俺のほうだよ」

「えっ?」

「ん?」

「……まさか、メグーちゃんを天使の零落に連れて行くつもりですか?」

「うん」


 あまりにもあっさりと頷かれて、アニーは言葉を失った。世界最高難度のダンジョンに、たった9歳の少女を連れて行くなんて——常識では考えられない。胸の奥がざわめき、足元がぐらりと揺れるような感覚に襲われる。


 その様子を見ていたミリアリアが、静かに口を開いた。


「アニー、すまないが理解してほしい。天使の零落の攻略には、メグーの力が不可欠なのだ。そして……君の力も、だ」

「わ、私の……?」


 アニーの心に、冷たい水が注がれたような感覚が走る。自分が必要だと言われて、嬉しいはずなのに、胸の奥がざわついて、呼吸が浅くなる。


「おかあさん、行かないの?」


 メグーちゃんが、どこか寂しげな声で私を見上げる。

 その瞳には、不安と期待が入り混じっていた。


「天使の零落内で、メグーが食べられるものを確保するのは困難だ。だからこそ、君のスキルが必要になる」

「あ、そ、それは……確かに」


 私のスキルは、何もないところからポーションの材料となるリンゴなどの作物を生成できる。

 メグーちゃんが具体的に何を食べられるのかは分からないが、リンゴは嬉しそうに食べてくれることは判明している。


「安心してほしい。我も心得はある。この身、この命に代えても、二人のことは守ると誓おう」


 ミリアリアさんはそう言って、胸に手を当て、騎士のように一礼した。

 その姿に、言葉以上の説得力があった。


「……わ、わかりました」


 考えるよりも先に、私はミリアリアさんの言葉に頷いていた。

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