夢に触れる指
隔離室の照明は、夜間モードに切り替わっていた。
白すぎない光。
眠りを妨げないための、柔らかな色。
だが――
眠れる空気ではなかった。
憂はベッドに横になり、天井を見つめている。
目を閉じても、
静寂が思考を埋め尽くす。
(……静かすぎる)
心音だけが、やけに大きく響いた。
⸻
――コツン。
どこかで、音がした。
施設の軋みか、
空調の誤作動か。
だが、その音は――近い。
「……?」
憂は、ゆっくりと身を起こした。
ガラスの向こうには、誰もいない。
監視ランプも正常だ。
(気のせい……?)
そう思った瞬間。
――視界が、滲んだ。
⸻
景色が、ゆっくりと溶けていく。
白い壁が、黒に変わり、
床が、星空へと反転する。
「……っ」
立ち上がろうとして、足が動かない。
夢だ。
そう、直感的に理解した。
だが――
あまりにも、鮮明すぎる。
⸻
「こんばんは、神の残滓」
背後から、声。
低く、甘く、
耳の奥に直接流れ込むような声。
振り向くと、そこに――影が立っていた。
「……あなたは」
「名乗る必要はない」
影は、愉しげに肩をすくめる。
「君は、もう知っている」
⸻
ナイアラルホテップ。
その名が、
言葉になる前に理解として浮かぶ。
「……夢に、入ってきたの?」
「正確には」
影は、憂の周囲をゆっくりと歩く。
「君が“こちら側”に足を踏み入れた」
「隔離とは、実に便利だ」
⸻
「……出ていって」
震えない声で、そう言った。
影は、笑う。
「拒絶できるほど、
まだ“人”でいられると思っている?」
その言葉が、胸に刺さる。
「……私は」
「憂、だ」
即答。
「人間だよ」
⸻
影は、一瞬だけ動きを止めた。
「ほう」
興味を示した声。
「なら、なぜ――」
影の指が、
憂の胸元を指す。
「それが、反応している?」
⸻
レムリアが、淡く光っていた。
心臓の鼓動に合わせて、
碧い光が脈打つ。
「……っ」
胸を押さえる。
「やめて……」
「やめられない」
影は、優しく囁く。
「それは、君自身だから」
⸻
その瞬間。
――記憶が、弾けた。
焼け落ちる都市。
泣き叫ぶ声。
天を裂く、光。
「……ソドムと、ゴモラ……」
知らないはずの言葉が、
自然と口からこぼれる。
影は、満足そうに頷いた。
「そう」
「君が、消し飛ばした」
⸻
「違う……!」
頭を抱える。
「私は、そんなこと……!」
「覚えていないだけだ」
影は、冷酷だった。
「忘れたのではない」
「――封じた」
⸻
光が、視界を覆う。
その中心で、
誰かが、泣いている。
――自分だ。
神としての自分。
「……いや……」
「戻りたく、ない……」
その叫びに、影は耳を傾ける。
「なら、なぜ力は疼く?」
「なぜ、世界は君を放っておかない?」
⸻
その時。
夢の空間に、
ノイズが走った。
「……憂!」
遠くから、声。
「……哲人?」
名前を呼ばれた瞬間。
胸の奥が、強く締め付けられる。
影が、舌打ちした。
「チッ……」
「まだ、結びつきが強すぎるか」
⸻
影は、距離を取る。
「いいだろう」
「今日は、ここまでだ」
去り際、振り返る。
「だが、覚えておけ」
「君が完全に目覚めた時――」
その声が、低く沈む。
「彼は、一番最初に失うものになる」
⸻
光が、反転する。
白。
壁。
隔離室。
憂は、ベッドの上で息を荒げていた。
冷や汗が、背中を濡らす。
「……はぁ……」
夢。
そう、夢だ。
だが――
胸元のレムリアは、
まだ、微かに熱を帯びていた。
⸻
同じ頃。
監視室で、警報が鳴る。
「理事長!」
オペレーターの声。
「被験――いえ、対象Aの脳波が!」
シャーロットは、モニターを見る。
「……夢侵食レベル、上昇」
マックスが、歯噛みした。
「くそ……!」
「……始まったわね」
シャーロットの声は、静かだった。
「隔離は、正しかった」
「でも――」
視線を伏せる。
「間に合うとは、限らない」
⸻
その夜。
僕は、理由もなく目を覚ました。
胸が、痛い。
名前を呼びたくて、
呼べなくて。
「……憂」
誰もいない部屋で、呟く。
その瞬間。
どこか遠くで、
彼女が同じ名前を呼んだ気がした。
⸻
夢と現実の境界が、
静かに、確実に削れていく。
それが、
誰にも止められない流れだとは――
まだ、誰も知らない。
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