仮初の日常

 哲人の家は、駅から少し離れた古い住宅街にあった。


「……えっと」


 玄関先で、憂は立ち止まる。


「どうした?」


「“家”に入るのが、少し……久しぶりで」


「久しぶり?」


「はい。……気がします」


 言い切らない。

 それが、彼女らしかった。


 玄関の電気を点けると、少しだけ明るさに目を細める。


「靴、そこに置いていいよ」


「……この向きで?」


「逆逆。あ、そうそう」


 些細なやり取り。

 だが、哲人は妙な既視感を覚えた。


(……初対面だよな、僕たち)


 居間は、工具と電子部品が散乱した、いかにも理系少年の部屋だった。


「すごい……」


 憂が目を輝かせる。


「これ、全部……作りかけ?」


「うん。ほとんど失敗作だけど」


「失敗……?」


 憂は、一つの歯車を手に取る。


「でも、動こうとしてる」


「え?」


「ここ。ほんの少し、噛み合えば……」


 指先で軽く押す。


 ――カチ。


 歯車が、回った。


「……え?」


「ほら」


「な、なんで分かるんだ?」


「分かりません。でも……知ってました」


 憂は不思議そうに首を傾げる。


「“こうすればいい”って」


 哲人は笑って誤魔化した。


「すごいな。天才か」


「そんな……」


 否定しながら、どこか寂しそうに微笑む。


「……昔は、もっと出来た気がします」


 哲人は、それ以上聞かなかった。


 代わりに、冷蔵庫を開ける。


「夕飯、どうする? カップ麺ならある」


「……それは、“料理”ですか?」


「料理だよ。現代日本の叡智」


「……神秘ですね」


 その言い方に、吹き出した。


「憂ってさ」


「はい?」


「変わってる」


「……よく、言われます」


「嫌?」


「いいえ」


 少し考えてから、答える。


「嫌では……ありません」


 湯気の立つカップ麺を前に、向かい合って座る。


「いただきます、って言うんだよ」


「いただきます……」


 小さく復唱する。


 一口食べて、目を丸くした。


「……温かい」


「当たり前だろ」


「いいえ」


 憂は、両手で器を包み込む。


「“守られている温度”です」


 その言葉に、哲人は胸の奥がきゅっと締め付けられた。


「……なあ、憂」


「はい」


「君って……何者なんだ?」


 憂は、少し困ったように笑った。


「分かりません」


 そして、正直に続ける。


「でも……あなたといると、怖くないです」


「それ、僕が言うセリフじゃない?」


「では、私が先に言いました」


 小さな勝ち誇った笑顔。


 哲人は、思わず見惚れた。


 夜。

 布団を二つ並べる。


「一応、男女だからさ」


「はい」


「何かあったら、呼んで」


「……はい」


 電気を消す。


 暗闇の中で、憂の声が聞こえた。


「哲人さん」


「ん?」


「……もし、私が“いなくなったら”」


「やめろよ」


 即座に遮る。


「縁起でもない」


 少し間があって、憂は小さく笑った。


「そう、ですね」


 それ以上、何も言わなかった。


 だが――

 その夜、哲人は眠れなかった。


 名前も、過去も、何も知らない少女。


 それでも。


(……守りたい)


 理由のない感情が、胸に根を下ろしていた。


 それが、

 いつか神の力すら超える“愛”になるとは、まだ誰も知らない。

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