第1話 魔王覚醒 ~残業の始まりだ~
冷たい雨が、泥にまみれた少年の頬を叩いていた。
辺境の貧民街、その暗い路地裏。
少年――ノアは、壊れた人形のように転がっていた。肋骨が数本、確実に折れている。呼吸をするたびに、焼けるような痛みが肺を突き刺した。
「おいおい、もう終わりか? 『癒やしの聖者』なんて大層なあだ名があるわりには、脆いもんだな」
革靴でノアの頭を踏みつけているのは、この地を治める領主ガランド伯爵の息子、ボルゾイだ。肥え太った豚のような顔を、嗜虐の笑みで歪ませている。
周囲には、彼の取り巻きである私兵たちが、ゲラゲラと下卑た笑い声を上げていた。
「う、あ……」
「お前のその『治癒魔法』、気味が悪いんだよ。教会への上納金も払えねえ貧乏人の分際で、神の御業を真似しやがって」
ボルゾイが指をパチンと鳴らすと、兵士の一人が剣を抜き、ノアの心臓へと切っ先を向けた。
――死ぬ。
ノアの意識が遠のく。恐怖よりも、ようやくこの苦しみから解放されるという安堵が勝っていた。
だが。
その瞬間、少年の内側で『スイッチ』が切り替わった。
(……あーあ。またかよ。またこれか)
深淵の底からの呼び声。
理不尽への憤怒。
そして、圧倒的な――覇気。
ドクンッ!!
心臓が、早鐘を打った。
泥水に沈んでいた少年の瞳が、カッと見開かれる。
かつての弱々しい鳶色の瞳ではない。それは、血のように赤く、深淵のように暗い――暴虐の瞳だった。
全身の毛穴から、陽炎のような黒い魔力が噴き出す。降り注ぐ冷たい雨粒が、少年の体温に触れる前に「ジュッ」と音を立てて蒸発し、白い蒸気が立ち上った。
「ひっ!? な、なんだ!?」
剣を突き立てようとしていた兵士が、腰を抜かして後ずさる。
少年から溢れ出したのは、物理的な質量を持った、ドス黒い魔力の奔流だったからだ。
「……クックック。……アーッハッハッハ!!」
少年は――ヴォルグは、泥の中から糸に引かれるように、ゆらりと立ち上がった。
バキボキッ。
嫌な音が体内で響く。折れた肋骨? 潰れた内臓?
そんなものは、魔力による【
「よォ、豚ども。随分と楽しそうじゃねえか。俺も混ぜろよ」
ヴォルグは首をコキリと鳴らし、歪んだ笑みを浮かべる。
「な、何だ貴様!? ノアか!? 貴様、身体から出ているその黒い煙は……!」
「ノア? ああ、その泣き虫ならシフト上がりだ。ここからは……R指定だ」
ヴォルグは右手を掲げる。その指先には、400年前の世界を恐怖で支配した、漆黒の稲妻がパチパチと弾けていた。
(……おいおい、マジかよ。400年経って、人間の魔力レベルはここまで退化したのか? こんな連中が権力者ヅラしてんのか?)
呆れを通り越し、清々しさすら感じる。
今の自分を縛る法律も、会社も、勇者もいない。
つまり、やり放題だ。
「貴様ら、自分より弱い者をいたぶるのが好きらしいな。奇遇だ、俺も大好きなんだよ。特に――」
ヴォルグはニヤリと、凶悪かつ魅力的な笑みを浮かべた。
「自分を強者だと勘違いしている馬鹿を、絶望の底に叩き落とすのがな」
「こ、殺せ! 何だか知らんがやってしまえ!」
ボルゾイの悲鳴に近い命令で、十数人の兵士が一斉に襲いかかる。
槍が、剣が、ヴォルグの四肢を狙って突き出される。
だが、ヴォルグは鼻で笑った。
遅い。止まって見える。
現代の物理法則を適用すれば、影とは単なる光学現象ではない。そこに魔力を介在させることで、「非ニュートン流体」としての性質を与えることができる。
詠唱が、始まる。それは、この時代には失われたハイ・エンシェント。
という名の、ヴォルグ即興のヘヴィメタル歌詞。
「《深淵の顎よ開け 嘆きと絶望を糧に 愚者どもを無へと帰す宴の始まりだ》」
大気が振動する。兵士たちの足元の影が、まるで生き物のように粘度を増し、彼らの足を掴んだ。
「《死の舞踏 黒棺の葬列》! ――【影縛・
ズボボボボボッ!!
「ぎゃああああああ!?」
無数の影が鋭利な槍となって地面から垂直に突き出し、兵士たちを遥か上空へと突き上げた。
串刺しにされた兵士たちが、空中で踊る。一瞬の静寂の後、バラバラと降ってくる鉄屑と肉塊。
ヴォルグは降り注ぐ血の雨を、あえて避けずに全身で浴びる。
鉄錆の匂い。ああ、この感覚だ。ライブの実感だ。生の実感だ。
「ひ、ひぃぃぃ! あ、あ、悪魔……!」
腰を抜かし、這いずって逃げようとするボルゾイ。股間からは情けない液体が漏れ、泥と混ざり合っている。
ヴォルグはその背中を革靴で踏みつけ――先ほどの意趣返しのように、グリグリと全体重をかけた。
「がぁッ!?」
「悪魔? 違うな。俺はヴォルグ。……この腐った世界を犯し尽くす、お前たちの新しい『王』の名だ。地獄で宣伝しとけ」
ヴォルグの指先に、超高密度の熱量が収束する。
イメージするのは「電子レンジ」。対象に含まれる水分子を極超短波で振動させ、内部から爆発的に加熱する。
「消えろ。《マイクロ・ウェーブ》」
ボッ!!
ボルゾイの身体が内側から赤熱し、断末魔を上げる暇もなく、一瞬にして灰へと変わった。
圧倒的な暴力。圧倒的な解決。
ヴォルグは天を仰ぎ、雨雲を睨みつける。その視線の先には、かつて自分を封印した「神」がいるはずだ。
「……見てるか、運営。俺は帰ってきたぞ」
ヴォルグは高らかに宣言する。
「三度目の正直だ。今度こそ、この世界のすべて――女も、国も、神の座も、全部俺が頂く!」
雨は小降りになっていたが、路地裏の空気は依然として重苦しい血の臭いに満ちていた。
ヴォルグは、足元に広がる「かつてボルゾイだったもの」の残骸を見下ろし、小さく息を吐いた。
肩で息をしている。魔力の残滓が指先から黒い煙となって立ち上っているが、膝が笑っていた。
(……チッ。貧弱なからだだ)
ヴォルグは自身の胸に手を当てる。心臓は早鐘を打ち、先ほどの魔法の反動で全身の筋肉が悲鳴を上げている。
この身体の持ち主――ノアは、潜在的な魔力量こそ桁外れだが、それを運用するための肉体が未完成すぎる。軽自動車のエンジンルームに、F1のエンジンを無理やり突っ込んだようなものだ。
(まあいい。メンテナンスはこれから嫌というほどやってやる。まずは……)
ヴォルグは濡れた前髪をかき上げ、周囲を見渡した。
目撃者はいない。いや、いたとしても、今のド派手な「影の魔法」を見て逃げ出しただろう。
ここはこの国、サンク・ロワール王国の辺境。400年前に俺が支配していた時代とは、地図も国名も変わっている。情報が必要だ。そして何より、この不快な雨に濡れた服を着替え、極上のワインでも……。
「……そこにいるのは、誰だ?」
ヴォルグの思考が中断される。
殺気ではない。だが、無視できない強烈なプレッシャーが、路地裏の入り口から漂ってきたのだ。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
質素な灰色の修道服。泥跳ねで裾は汚れているが、そこから覗く足首は白く華奢だ。濡れた亜麻色の髪が頬に張り付いている。
整った顔立ちだが、その瞳――深い湖のような青い瞳は、今のヴォルグと同様、あるいはそれ以上に異様な光を宿していた。
リリア。
ノアの記憶にある名前だ。幼馴染であり、教会の見習いシスター。いつもノアを庇い、世話を焼いていた、お節介な少女。
(……見られたか)
ヴォルグは目を細める。足元には貴族と兵士たちの死体。普通なら悲鳴を上げて逃げ出すか、腰を抜かす場面だ。
だが、リリアは動かない。ただ静かに、ヴォルグを見つめている。
(クックッ……いい度胸だ。だが、今の俺はノアじゃねえ。甘ったれた幼馴染ごっこは終わりだ)
ヴォルグは、あえて残忍な笑みを浮かべた。恐怖で支配する。それが手っ取り早い。俺は魔王だ。パンピーの小娘一人、追い払うなど造作もない。
「よォ、女。見物料は高くつくぜ?」
ヴォルグは芝居がかった仕草で両手を広げた。
「ノアなら死んだ。ここにはもういねえ。俺様の名はヴォルグ。地獄の底から舞い戻った、正真正銘の『魔王』だ。テメェも肉塊になりたくなきゃ……」
「失せろ」と言おうとした、その時だった。
――ダンッ!!
地面が爆ぜた。魔法ではない。純粋な脚力による踏み込みで、石畳が砕けた音だ。リリアの姿がブレる。
(――ッ!? はえぇ!?)
ヴォルグの動体視力が、かろうじて彼女の動きを捉える。一瞬で距離を詰めたリリアは、ヴォルグの胸ぐらを鷲掴みにした。
「あんた……」
至近距離。リリアの顔が目の前にある。その青い瞳が、ゆらりと燃え上がっていた。
「……何、大怪我して雨の中に突っ立ってんのよォォォォッ!!」
鼓膜が破れそうな怒鳴り声。ヴォルグは思わずたじろいだ。
「は……?」
「肋骨が左3本、右2本折れてる! 内臓出血の兆候あり! ガス欠で顔色は真っ青! こんなボロボロの状態で『俺様は魔王だ』なんてイキってんじゃないわよこの馬鹿ノアあああ!!」
「い、いや、だから俺はノアじゃなくてヴォルグ……」
「黙りなさい! 口答えする患者にはこうです!」
リリアが右手の拳を振りかぶった。その拳が、黄金色の燐光を放つ。
(なッ、
前世の、そして400年前の知識を持つヴォルグですら見たことのない運用法。回復魔法を打撃に乗せて叩き込む、矛盾した荒技。
「歯ァ食いしばりなさい! 【
ドゴォッ!!
重低音が響き、ヴォルグの鳩尾に小さなクレーターができたような衝撃が走った。
「が、はッ……!? ぐゥッ……!」
激痛。死ぬほどの衝撃。だが、その直後に襲ってきたのは、全身の細胞が強制的に活性化し、折れた骨がバキバキと音を立てて繋がっていく、気持ち悪いほどの「快復感」だった。
「げ、ほ……ッ! き、貴様……回復魔法で人を殴る奴があるか……ッ!」
「回復したでしょう? まだ足りない?」
リリアは二発目の拳を構える。その背後には、慈愛の女神ではなく、鬼神のオーラが見えた気がした。
(こ、この女……ヤバい……!)
ヴォルグの本能が警鐘を鳴らす。魔王である俺が、ただのシスターにビビっているだと? あり得ない。だが、この身体が条件反射で「逆らうな」と訴えている。これは、長年のトラウマか?
「……ち、治療は十分だ。余計なマネを……」
「ならよろしい」
リリアは拳を下ろすと、先ほどの鬼の形相が嘘のように、ニッコリと花が咲くような笑みを浮かべた。そのギャップに、ヴォルグは妙な居心地の悪さを感じる。
「それじゃ、帰りましょうか。温かいスープを作ってあるの」
「……帰る? どこへだ」
「教会によ。あと、これ着て」
リリアは自分のショールを外し、乱暴にヴォルグの頭から被せた。
「俺は帰らねえぞ。この村を出て、世界に喧嘩を売りに行くんだ」
「はいはい、中二病は風邪が治ってからね」
リリアはヴォルグの手首を掴むと、問答無用で歩き出した。その腕力は、ゴリラかオーガ並みだった。抵抗すれば、今度は関節を外されてから治療されそうだ。
「おい離せ! 俺は魔王だぞ! 貴族どもを殺した俺を匿えば、テメェも同罪だぞ!」
「あんなクズ、死んで当然でしょ」
リリアは振り返りもせず、あっさりと言い放った。
「え?」
「あいつら、ノアのことずっといじめてたじゃない。いつか私が半殺しにしてやろうと思ってたけど、ノアが先にやっちゃうんだもん。……ちょっとスッキリしたわ」
少女は歩きながら、ボソリと呟く。
「……もう、泣き寝入りなんてさせないから」
その言葉に、ヴォルグの胸の奥――ノアの魂が、小さく震えた気がした。
ヴォルグはため息をつき、抵抗をやめた。
(……やれやれ。とんでもねえ「飼い主」がついちまったもんだ)
雨上がりの空。
最強の魔王ヴォルグの覇道は、暴力聖女に引きずられて帰宅するという、屈辱的な第一歩から始まった。
三度目の人生は「物理」で殴る。~元社畜で伝説の魔導師だった俺、辺境の最弱少年に転生して世界をシステムごと破壊する~ 葦原 蒼紫 @ash1a0
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