薄暗く狭い路地を歩く。周囲を高いビルに囲まれて、何かに追い詰められていると錯覚する。この街にはもっと暗い場所がある。そういう場所への入り口がいたる所にあるのだと、私に知らしめる。頼りない外灯の明かり。何度も背後を振り返りながら、私はその路地を抜ける。


 彼は日当たりの悪く、蹴破ればドアなど簡単に開いてしまいそうなアパートの一階に住んでいる。そこは住宅地になっていて、その二階建てのアパートのすぐ横には、覆いかぶさるように四階建ての小綺麗な別のアパートがある。


 一度来ただけなのに、どうしてか迷わずにここまで来ることができた。まるで何かに吸い寄せられるように、恐怖に背中を押されるように、私は彼のアパートに辿りつく。アパートの前にある駐車場には彼の車がある。もう何年もそこを動いていないかのようにそれは停止している。もしくは世界そのものが停止してしまっているのかもしれない。


 表札の書かれていないドアの部屋番号を一つずつ目でなぞり、103と書かれた部屋の前で立ち止まる。ここが以前訪れた彼の部屋で間違いないことをもう一度確認して、私は部屋のチャイムを押した。


 遠くで車が通る音がする。とても静かな夜だった。音という音を夜の闇が吸い込んでしまっているかのように。部屋のなかに人がいる気配はない。留守なのだろうか。閉め切られた台所前の窓からは一筋の光すら漏れていない。もう一度チャイムを鳴らす。私は以前ドアの隙間から見た、小さな洞穴のようなこの部屋にチャイムの音が響いていく様子を想像する。


 私はドアノブに触れ、力を入れる。ドアノブは何ごともないかのように回った。


 ドアを開け、そのままの状態でなかの様子をうかがう。居間へと続くドアは開けられているが、カーテンは完全に閉め切られていて、その部屋のなかの様子を知ることはできなかった。私は体を部屋の内側にいれ、音をたてないようにそっとドアを閉めた。そのまま私はドアに鍵をかける。何ものも入っては来れないように。


 冷蔵庫の唸る音だけが響く暗闇のなか、私はまたしばらくの間その場で立ち尽くしていた。部屋の奥で何かが生きる気配がする。 


 生きることは苦しむことだ。苦しいときほど死を願い、それがかえって生を際立たせる。逆もそうだ。楽しいときほど生きたいと願い、自らが死に向かって進んでいることを実感する。


 あの夜の海で死んでおけばよかったのだとよく思う。ずっと何かが私を蝕みつづけている。幸せになどなれないと、それは私の影を踏む。誰のことも、何も好きになれないのだ。嵐にでも巻き込まれたかのように、あの日、あの人に私が壊されたあの日から、私の心は空虚ですべてがガラクタとなった。


 私は暗闇のなかを歩く。彼がいるであろうところへ。眠っているのだろうか。目が慣れると床にうずくまった、黒い塊が浮かび上がる。その塊は呼吸に合わせて形を膨らませ、そしてしぼむ。


 溶けている。氷塊が熱で溶けて水溜りを作るように、黒い液体が塊を中心に広がっている。目を凝らし、私はそれが何かをすぐに理解した。布だ。黒いフレアスカートが円状に広がり、長い髪が溶けだして流動性を失った液体のように垂れ下がっている。


 彼が私の存在に気づく。ゆっくりと垂れさがった髪と頭を持ち上げる。もう何年もそのままの状態で固まっていたかのように。彼は目を開けて私の足もとを見る。それからまたゆっくりと視線をあげる。彼の視線と私の視線がかち合ったとき、私の知らない彼の姿が私の瞳に映った。


 私が昼間の月が好きだというと、彼はそれにうなずいた。何でもない、昼下がりだった。遠くに浮かぶ小さな月を見て、私はふと思いついたように言った。


 昼間の月も、夜の月も同じ月なのにね。それにどちらも裏側を見せない。そう言ったのは私だったか、彼だったか。


 地球から観測できる月の表面は全体の約59%ほどだという。残りの41%はずっと陰に隠されている。


 私が彼の何を知っているというのだろう。見えている面ですら私は目を逸らしてきたというのに。私はいま、彼の何を知ろうとしているのだろう。


 カーテンの隙間から月明かりが差し込む。それは彼の横で立ちすくむ私だけを照らす。まるで二人の世界を分かつかのように。


 私は隙間からのぞく月を見る。よく見知った丸い月だ。若干、欠けているように見える。私たちは昼間の月だ。あんなに輝いてなどいないし、夜に生きることもできない。


 私は彼の何を知っているのだろう。もう一度、私は自分に問う。何も知らない、何も知らなかった。それはこれからも変わらないだろう。私が月を理解できないことと同じように。


 そして彼も私について何も知らない。私がどうしてここにいるのか。私がこれまで何をしてきたか。これから何をしようとしているか。何を思っているか。彼は何も知らない。誰かを理解しているなどと思うのは傲慢だ。私たちは一生、自分一人の理解のなかだけで生きていくしかない。


 月がゆっくりと傾き、その光が床についた彼の指先を照らす。その分だけ私は背後に闇を背負う。爪が丁寧切られた細くて骨ばった指だ、と私は思う。袖からのぞく手首はぞっとするくらい細い。そう、私は何も知らない。


 私は指先から彼の身体をなぞるように視線をあげ、もう一度、彼の顔を見る。闇のなかでもわかるほど濃い目に引かれた影、不自然なほどに白い頬、それと対照的なまでに赤い唇、余りにも鋭利に切りそろえられた髪、サイズの合っていない服。


 彼は泣いているように見えたが、泣いてなどいなかった。私はそんな彼の目に塗られた影を親指で拭った。


***


 彼女が触れた瞬間、互いに触れあったのがこれが初めてだと気づく。半年ほど一緒にいて、手と手が触れ合うどころか、布越しの身体の接触すらなかった。互いが互いに対して透明で膜のような壁を作っていた。触れ合えば何か大切なものが壊れてしまうのではないかと恐れていた。


 それは男女の友情などとチープな言葉で語られるような、くだらないものの類であることは知っていた。壊れるのものなら、壊してしまった方がいい。しかしどんなものであれ、何かを壊せるほどの強さはなかった。


 彼女に触れられ、瞳から押し出されるように涙が一筋零れる。自分でも信じられないように彼は戸惑う。自らの肉体が初めて他者との境界の意味を果たしていると思った。自分がずっと内側しかない世界で生きていたことに気づく。擦られたマッチ箱のようにじんわりと熱を持つまぶたを持ち上げ、彼女を見上げた。まるでこの世界に二人だけしかいないように感じた。果てしなく続く広いこの世界で、二人だけが肉体という世界との境界を持っている。


 彼女は膝を曲げ彼の隣に座り込む。これからどこへ行けばいいのだろう。それでも少なくとも今この瞬間は、彼の隣を自らの居場所と決めた。

彼女は二人で海へと向かったドライブのことを思いだす。あのとき私たちはどこまでも行けたのだと思うと、不思議と心が救われた。結局はここに留まることになったのだとしても。


 彼の身体は床に縫いつけられてしまったかのように動かなかった。彼女がもう一度彼の頬に触れようとしている。彼はそれを拒絶することも受け入れることもできなかった。ただ目の前に映し出される映像を眺めるかのように、暗闇のなかでゆっくりと彼女の手が持ち上がり、自らの顔へと近づいてくるのを見ていることしかできない。


 彼女の体温を頬で感じた瞬間、体の内側で何かが沸き上がるような、全身の血が逆流していくような、そんな疼きを感じた。頬から流れ込むように押し寄せる体温に抵抗するかのように自分の内側で何かが生成されている。それは大きな海のようなものに感じた。抗いがたい大きな虚脱感。


 彼女は手のひらのなかにある、自分のものよりも少し大きな頬骨や、小さく呼吸を繰り返す鼻、少し湿った唇、その奥にある歯、それらの形や質感、温度、彼を構成する様々なものの情報が脳内に流れ込んでくるような錯覚に陥った。理解できるわけじゃない。すべてを記憶することもできない。ただ否応なしに流れ込んでくる。しかし不思議と不快ではない。


 彼は自らの頬に張りついたような、その手に触れ、壊れ物でも掴むようにそっと握った。細くて、強く握れば折れてしまうだろうと思った。しかしそれに抵抗するだけの意思と力がある。そして彼女には彼女の体温があり、彼には彼の体温があることを知った。彼女は生きていて、彼自身も生きているのだと知った。


 彼は握った手を下ろし、彼女の頬に触れた。そしてこの先にあるものを、その先にある出口のような光を探した。


 ねえ、行ってみようよ、とどちらかが言った。


 でも怖いよ、とどちらかが言った。


 怖がることなんてない。身体の力を抜くんだよ。海の上に浮かんでいるみたいに。邪魔なものはぜんぶ捨てて。そうしないと沈んでいってしまう。一度沈んでしまったら、きっともう浮き上がってこれない。生きているということ、証明しよう。


 服をゆっくり丁寧に脱がしていく。親が幼い我が子にするように。子供が年老いた親にするように。

季節はもうすぐ秋になろうとしていた。しかしまだ夏の残暑が残っている。体が震えた。寒くて仕方がないかのように。体の奥底から全身へ震えが伝播する。


 何がそんなに怖いのだろう。この先にいったいなにがあるというのだろう。夜の海とは違う。自らの内側から恐怖が際限なく震えとなって湧きあがった。もうこれ以上は行けない、と思う。いったいなにがそんなに怖いのだろう。肉体に触れるということが、肉体に触れられるということが。


 やっぱりあのとき死んでおくべきだったのかもしれないね。そうすればこんな思いをすることなどなかったのに。少なくともあのときは、あのときだけは死ぬことができた。でももういまは死ぬことすらできない。ここから先はどこへ行っても壊れるだけだ。ただし壊れるものが違う。


 私だって愛せるなら、愛してるわよ。


 いったい誰を? いったい何を? そう問いかけるべきだった。もしくはすべてを曖昧にして愛しているよと言うべきだった。


 薄い膜を破り体に触れる。熱を持った体と冷えた指先が混ざりあう。体の内で熱が渦を巻く。その渦が凍っていた指先や背骨を溶かした。触覚がそれ以上の情報を神経に伝え脳を揺らす。めまいの果てには安らかな眠りがあった。目を閉じて、力を抜いて、まるで肉体が境界の役割を捨て、世界と一体化したかのように溶けていく呪いを許した。


 目を開けると世界はなぜか昼間のように明るくて、月だけがぽっかりと空に浮かんでいた。

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昼間の月 小さな炭酸 @niko2_5_

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