Ⅲ
よく夢を見る。私は夜の海の上に浮かんでいて、ぼんやりと三日月を眺めている。地に足さえついていればそれはとても美しい眺めで、何も遮るものがなく、私を取り囲むように夜空が広がっている。
私は船から捨てられたのだという思いがある。もしくは自ら海に飛び込んだのかもしれない。どちらにせよ私は船に乗っていた。それは大きな船だった。私は映画のタイタニック号を思いだす。きっと私を捨てたあの船も映画のように──もしくは現実のように──氷山にぶつかって沈没してしまうのだと思うことにする。
しかしそんなことはどうでもよかった。その船が沈没しようがしまいが、私は海に放り出されてしまっているのだ。その沈没の知らせすら聞くことはできないだろう。
潮の流れによって、どこかへ流されている感覚がある。しかしそれが海岸なのか、それともさらに沖なのかわからない。
小舟でも流れてこないだろうか、と思う。しかし私は舟の操縦などできない。運よく舟に乗りこめたとしても、私は途方に暮れてしまうだろう。
潮の流れは穏やかで、いつまで経っても夜は終わらない。三日月も位置を変えることなく、私の真上に浮かんでいる。しかし先ほどまでとは何かが違う。変わりようがないはずの世界が変わっている。私は違和感の正体を探す。
月が大きくなっている。
いや、私が月に近づいているのだと気づく。私が浮かんでいる海面がどんどん上昇しているのだ。トリックアートの小屋のように。月がどんどん大きくなり、その分私は小さくなっていく。とてつもなく大きな恐怖を感じる。私の背後の海が、そこに潜む闇が膨れ上がるようにして大きくなっている。そして先ほどまで優しく私を見守るように微笑んでいた月は、意地の悪い魔女のように口角を上げて笑っている。
私の世界は閉じようとしている。大きな本のように。それならそれでいいと思った。世界が閉じればすべてが終わるのだ。この不安も恐怖も、希望も絶望も。
しかし本当にそうだろうか。世界が閉じればすべてが終わるというのは私の勝手な願望ではないだろうか。閉じられた本は、その中の物語は、どうなってしまうのだろう。
そこで夢は終わる。
夢の詳細は毎回違う。しかし大まかな内容は同じだった。私は孤独で、途方に暮れていて、最後は世界の永遠性に恐怖する。
この夢を見るたび私の人生は、この大きな世界の小さな存在にすぎないのだと思い知らされる。私の100年弱の寿命をすべて広げても、世界の大きさと比べれば点に等しいのだと。
昼過ぎだ、と直感的にわかる。昨日は何時に寝たのだろう。記憶がなかった。酔っていたわけではなく、時間というものが単純に意味をなさない世界を生きて、その後、眠ったのだ。
私は窓という窓がふさがれた暗い部屋のなかを常夜灯を頼りに歩いていく。
窓のカーテンをを開け、雨戸をガラガラと大きな音を立てながら持ち上げる。外は綺麗に晴れていた。
飛行機が飛ぶ音が聞こえ、空を見上げたがその姿は見られなかった。代わりに月が見えた。昼間の月だ。まるで遠い遠いむかしに滅びてしまった惑星のような天体。それは夜中、もしくは私の夢とは比べ物にならないくらい小さく、そして孤独だった。
今この瞬間、あの月を見ている人はどのくらいるだろうか。地球の反対側は夜なのだから、そこでは同じ月が見えているのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。地球は丸いのだから日本の反対側のブラジルやら、アルゼンチンのような場所からこちらで見えている月が見えるはずがない。もしくは見えていたとしてもそれは別の月だろう。
彼は、月を見ているだろうか? ふとそんなことを思う。私はスマホを持ってベランダに出た。そしてカメラで昼間の月を写真に撮った。しかしそれは小さくて、空を飛んでいる鳥や飛行機と見分けがつかなかった。何枚か取ってみたがどれもうまく月を映すことはできなかった。
私はあきらめて、その下手くそな写真を彼に送ろうかと思ったがバカらしくなってやめた。それからぼんやりと月を眺めた。打ち捨てられた宇宙船のような天体。自らは決して輝くことのない天体。
言わなかったこと、言えなかったことが私を作るのだ。私は部屋に戻り、遅めの朝食を作り始める。
彼とはあれから連絡を取っていない。ふたりで海へ行ったことが何かの過ちであったかのように、私たちは互いを避けている。彼の方から連絡が来ることはない。いつもラインなり、彼のバイト先に顔を出したりするのは私だった。私から連絡を断てば、もう二度と会うことはないだろう。それは予感でも悲観でもなく、私たちの関係の常だった。彼はきっと心のどこかで私ともう二度と会えなくなることを望んでいる。読み終え完結した小説をそっと本棚にしまうように。
なら私はどうだろう。自分のことになると途端にいろんなことがわからなくなる。
朝食を食べ終え、またベッドの上で横たわる。ここ数日、こんなふうに身体が動かない日が続いている。頭が痛い。吐き気がする。関節がきしむ。下腹部がだるい。腰が痛い。寒い。
今日は何月何日だろう。最後に家から出たのはいつだろう。アパートの前の道路を車がひっきりなしに通る。目を閉じるとその音は海の波に変わる。月の隠れた真っ暗な世界のなか波だけが絶えず私に押し寄せてくる。
通知が鳴り、スマホを開く。美沙からだった。
──今日どこかで会えませんか。
どうしていまさら連絡なんて寄こすのだろう。会いたくなどなかった。
スマホを放り投げ、また目を閉じた。涙が溢れて、止まらなかった。どうして色んなものが壊れていくのだろう。どうしてそのままの形でいてくれないのだろう。目を閉じても耳を澄ましてもそこに海はなかった。明るいのにどこか薄暗い部屋の隅で私は独りでに泣いた。
***
恋人同士だったころ、「私がこんな明るい世界を歩いていることに違和感がある」と彼女が言った。その感覚があまりにも同じだったことを覚えている。自らを卑下しているわけでもなく、私は夜がふさわしいと妄想する中学生のように思っているわけでもない。ただ単純に不思議とそう思うことがときどきある。私がここにいるのは正しいんだっけ。過去も未来もすべてがパッと視界から消えて、今この瞬間の正誤を問われるような感覚。
指定された喫茶店に向かと、彼女は窓際のソファー席に一人座っていた。「美沙」と私が声をかけると彼女は顔をあげた。
変わらないな、と思う。最後に会ってからどれだけ経っただろう。時間の感覚は薄く引き伸ばされて、紐のように絡まっている。
最近どう? なんて私から話をふる。彼女は半分ほど減ったコーヒーカップに口をつける。彼女の手から離れたカップには黒いコーヒーの跡ができていた。
もうなにも話さないのかもしれない。そんな数秒の沈黙の後で、就活とかバイトとかいろいろ大変だよ、と言った。
そっか、そうだよね。
うん、そう。
ふと、窓の外を見た。世界は夕暮れで、空には夕日で陰になった鳥が二羽飛んでいた。私はいったいどこへ行くのだろう。
「私が手をつないだとき、いつもそうやって空を飛ぶ鳥を目で追ってた」
彼女にそう言われてもなお、私は夕暮れのなかを飛んでいく鳥たちから目を離せなかった。
「話したいこと、色々と考えてきたけど、案外言いたかったことって、そんなことなのかもしれない。ごめんね。私はあなたの重荷だった?」
そうじゃない。私の重荷は私自身の内にあるのだと言いたかった。ただそれをいまさら明かして何になるというのだろう。彼女が抱えているものと、私が抱えているものはまるで別のものだというのに。
「初めは騙されたって思ったの。私の思いを何かのアピールに使われたような気分だった。でもそうじゃなくてあなたもよくわかっていなかったんだよね。結局最後まで話してくれなかったけど、そう思いたいほどの、そう思い込むほどの何かが、あなたのなかにあるんだよね。それが今ならわかる。今更だけど」
私は何か彼女にしてあげられたことがあっただろうか。ずっとずっと不安だった。彼女のさびしさを私の体温で埋めるとき、私の空虚さが隙間風となって彼女の身体を冷やさないか。何をしても埋まらないこの心を彼女のせいにしてしまわないか。いつか彼女が私の知らない私を知って、私から離れていってしまわないか、いつも泣いていた。
どうして色んなものが壊れていくんだろうね。どうしてそのままの形でいてくれないんだろう。
帰り際、彼女がそう言った。ぜんぶ私が悪いよという言葉は飲み込んだ。
***
逃げるように実家を出て、初めて住んだところは一階の部屋だった。お金も知識も知り合いもおらず、ただ遠くへ行きたい、あの人たちと離れられるならどこでもいいという一心だった。
ある日、私は夜中に金属と金属をこすり合わせるような音を聞いて目が覚めた。普段生活している中では聞いたことのない音だった。音の出所を探ろうと窓まで歩いていき、私は無意識的にカーテンを開けた。そこには私と対面するように真っ黒な影が立っていた。そしてその影はばっと驚いたようにのけぞり、そのまま私の部屋のベランダから立ち去った。
初めは夢だと思った。しかし私は現実と区別がつかないようなリアルな夢を見るタイプではなかった。幽霊や、もしくは私の影がメタファーのように暗示的に投影されたものなのかもしれないとも思った。
ほとんど止まっているかのように穏やかだった鼓動が激しく動き出すのを感じる。呼吸が浅くなり、足元が揺らぐようなめまいがした。
影は人間だった。
そのことに気づいた瞬間、私は恐怖でピクリとも身体を動かすことができなくなった。足は床に張りついたように動かない。それなのに体は地震の最中かのように揺れている。私は倒れないように、倒れても守られるように、自らの腕で自らの身体を抱いた。しかし目だけはどんなにめまいがしても、窓から離すことができなかった。
背後にある玄関が気になった。深い闇のなかでひっそりと冷たくたたずむドアを想像する。私は今日の昼間、鍵をかけただろうか。玄関横にある物置となっている部屋の小窓は? もしかしたらもうすでにそれは部屋のなかに入っているのかもしれない。そう思うと怖くて仕方がなかった。恐怖で呼吸が早くなり、めまいと合わさって視界がだんだんと霞んだ。息が苦しい、喉が熱い、恐怖のあまり私は涙を流していた。しかし窓から目を離すことはできなかった。今この瞬間にも引き返して、私を殺しにくるかもしれない。そう思うと振り返ることも、まばたきすらできなかった。
結局私は朝日が昇るまでじっと窓を見つめ続けた。そしてその朝日が窓から入り込み、その熱で私の身体を溶かすまで私は動けなかった。私は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。そしてまたしばらくしてから、私は立ち上がり窓を確認した。ガラスには鍵の位置とあわせるようにして、コンパスで引かれたような綺麗な円状の傷がついていた。
当時頼れる人もいなかった私は警察に相談することもできず、そのことを自らの心の内側にしまいこんだ。誰にも言わず、隠し続ければ、いつかそのことはなかったことになると信じているかのように。
それ以来、私は暗闇がトラウマになった。二階の部屋に引っ越してからも眠るときは雨戸が閉め切ることが習慣になっていた。そして常夜灯をつけること。
引っ越しのとき、業者の人が窓ガラスについて傷について触れた。
窓に傷がついてますよ。気づいてましたか?
いえ。知りませんでした。
そうですか。最近は物騒ですからね。女性の一人暮らしは気をつけるに越したことはないですよ。次は二階以上の部屋にした方がいいですよ。少し家賃は上がりますけど。ご引っ越し先は二階ですか?
いえ。実家に帰ろうと思います。
そうですか、それがいいです。
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