夜の公園はがらんと寂れているが、それでも人はまばらにいた。犬の散歩やランニング、ダンスの練習なんかをしている人たちだった。この人たち全員にそれぞれ生活があるのだと思った。例えば夜の七時に呼び出されて、髭をそり、ワックスをつけ、電車に飛び乗るような生活。夜の十二時に呼び出される人だっているだろう。その人も僕のように文句も言わずバタバタと準備して、電車に飛び乗るのだろうか。おそらくそうだろうと思った。そうでなければいけないのだ。


 彼女を見つけるのは少し大変だった。かくれんぼでもしているかのように、彼女は目立たない木の陰のベンチに座っていた。そのせいで僕は公園の端から端まで歩くことになった。


「あなた一度、私の前を通り過ぎたわよ。すごくめんどくさそうに歩いてた」


「じゃあなんで声をかけてくれなかったの?」


「見つけてほしかったのよ。その寝ぼけたたぬきみたいな顔をして、私のことを探し回ってるんだなって思うとおもしろくて」


 彼女はくすくすと笑った。


「じゃあ、見つけたね。僕はもう帰る」


「ねえ、冗談だってば。怒らないでよ」


 僕が何も言わないでいると、彼女はそのくすくすと笑う顔を無表情にして少しうつむいた。数分前の自分の痕跡でも探すみたいに。


「泣いてたの。なんだか怖くって」


「夜中にこんなところにいるからだよ」


 僕は言った。それから彼女はゆっくりと自らの背後を振り返って確認した。そこには月明かりも差しこまない小さな林が広がっていた。


「でももう大丈夫」


「家まで送るよ。お風呂にでも入って、もう寝た方がいい」


「ううん、もう大丈夫なの。ほんとに。ね、だからもう少しだけここに居たい」


 僕は小さく息を吐きだして彼女の隣に座った。林を背後にした途端、ぞわっと悪寒が走った。指先や足の先がそわそわと緊張が溜まっていく。僕はそっと彼女を見た。よく知った安心を確認するために。彼女は顔を上げ、じっと月を見ていた。ほとんど満月のような欠けた月だった。夏だ。セミが鳴いている。悪寒はもうしなかった。


「ここにいると色んな人が目の前を通り過ぎていくの。でも誰も私に気づかない。ほら見て、あの仕事帰りの女の人。たぶんイヤホンをしてるのね、それにずっとうつむいてる」


 彼女は少し先を歩いている事務員風の女性を指さした。たしかし僕たちに気づいていないようだった。


「ねえ、私っているのかな?」


 ぽつりとつぶやくように言った。何か僕に対して言葉を求めているわけではなく、ただ口を開いて出てきた言葉がそれだったという感じだった。


「ときどきね、そんな風に思うの。私はいないことにされているって。もういい加減慣れたけど、それでもときどきね、こんなふうにやっと出会うことのできた自分と同じ人にフラれたりするとね、ときどきそう思ってしまうの」


 君は一人じゃないよとか、ここにたしかに存在しているじゃないかとか、そんな嘘みたいな言葉ばかりが浮かんでは消えた。結局僕には何を言う権利がないのだ。


「ねえ、私に振り回されてるって思ってるでしょ」


 そう言って彼女は僕の方に身体を向けた。彼女は本当にさっきまで泣いていたのだなと思った。夜の生ぬるい風を伝って涙の匂いとか、熱を感じた。


「ねえ、もう少し振り回されてくれないかしら?」


「……いいよ。海に行こう」


***


 電車で僕のアパートに帰り、そこに停めてある車に乗った。通学用にと中古で父に買ってもらったものだが、結局ほとんど使ってない。この車を見るたびに僕は自分の甘やかされているこの環境に対して憂鬱になった。


「君の家にも寄る? 何か必要なものとか」


「大丈夫、別に海水浴に行くわけじゃないもの」


 僕は念のため部屋に戻り、何か必要そうなものを探した。しかし何も見つからなかった。


「他人の部屋ってこうして見ると面白いものね。ねえ、今度入れてよ」


 玄関先で僕の部屋を覗き込んでいる彼女が言った。


「また今度ね」


 僕はそう言ってドアを閉めた。


「さて、海に行くといっても、この国には海がたくさんある。都内から鎌倉、千葉、北海道、沖縄。挙げていったらキリがないね。どこがいい?」


「千葉。ディズニーランドでも見ていきましょう」


 僕はナビに適当な千葉の海沿いを目的地に設定して車を出した。


 それからしばらくの間、僕らは無言だった。夜中とはいえまだ交通量の多い都内の道を僕は慎重に運転していたし、彼女は窓に額をつけ去り行く景色を眺めていた。車のヘッドライトや外灯、ビルの明かりで外はきらきらとまぶしいくらいに明るかった。しかし昼間の熱を帯びた色のある明るさとは違う。夜の明るさは白と黒の単純な明度の違いだった。


「ねえ、さっき私が北海道って言ったら、北海道までドライブしてくれたの?」


「そんなに振り回されるつもりはないよ」


「残念」


 そう言って彼女は笑った。僕もつられて笑う。


「でも悪くないよ」


「え?」


「このまま北海道までドライブするのは悪くない」


「うん、そうね。ほんとうにそう。どうして千葉なんて言っちゃったんだろう」


「悪いけど、あのとき北海道なんて言われても冗談だと思って聞き流してたよ。行先はお台場海浜公園になってただろうね」


「わかってる。冗談でしょう。これもただの冗談。でも私たち行こうと思えば北海道に行けたのよ。それってなんだかすごいことのように思えない?」


「そうだね」


 車は首都高速道路を走っていた。ずっと無言で車のエンジン音だけが車内を満たしていた。代り映えのない環境に飽きが来たのだろう。ラジオでもつけようかと迷ったがやめた。


 北海道、と思った。このまま北海道まで車を走らせることができたらどんなに良いだろうと思った。でも結局そんなことはできない。せいぜい千葉までドライブするのが関の山だ。そんな関係にどんな名前が付けられるだろうと僕は単調な代わり映えのない道をひたすら走りながら思った。

 

「本当はね、あなたの前に彼女を呼んだのよ。そんなことを言ったら気を悪くする?」


 彼女はじっと僕を見つめた。祈るような、縋るような視線だった。僕はその視線から逃げるように、窓の外にちらりと目を向けた。東京湾が見える。工場やコンテナターミナルの明かりが夜の海を照らしていた。しかしそんな幻想的な風景もどんどん後ろへと過ぎ去っていく。


「話したいなら話せばいいよ。まだ時間があるようだし」


 僕がそう言うと、彼女は少しの間黙りこんだ。何か考えごとをしているようだった。


「少し距離を取ろうって、彼女に言われたの。あなたと一緒に居ると、色んなことがわからなくなるって。あなたは私を愛してないってまた言われたの。前に同じことを言われてからずっとそのことについて考えていたわ。でも何も言い返せなかった。彼女を愛してるってどうしても言えなかったのよ」


 話ながら彼女はずっと窓の外を見ていた。時速100kmで走る鉄の塊に閉じ込められた少女のように。


「私は本当の意味でのレズビアンではないの。彼女はきっとそのことを言っていたのね。でも私にはどうしてもそのことを彼女打ち明けることができなかった。それは光も届かないような、私の心の奥底に何重にも重たい鎖を巻いて深く深くに沈めてあるものだから。どうしても言葉にすることはできないのよ。でもそれは別にして、私は彼女のことを愛そうと必死にがんばったわ。でもダメだったのね。きっと私のなかのどこかで、そういった愛情とかそういう大切なものを作ったり感じたりする器官みたいなものがねじれて、ダメになってしまっているのね」


 僕は何も言わずに、慣性に身を任せるようにただ車を走らせた。この鉄の塊が僕らをどこかに運ぼうとしている、もしくは僕が彼女をどこかに運ぼうとしている。行き着く先はどこなのだろう。


「きっと私は、もう、どこかがダメになっているのね。だって、いまも、こんなにも、さびしいなんて」


 彼女はそう言って眠りについた。車内は再び静かになった。聞こえるのは唸るようなエンジンの音だけだった。遠くにぽっかりと月が浮かんでいる。さっき公園で彼女と見たものと同じだろうか。そんなふうには見えなかった。きっと偽物の月だと思った。僕は何かの拍子で偽物の世界に迷い込んでしまったのだろう。もしくは本物の世界に。


***


「ついたよ」


 僕は肩を揺すり、彼女を起こす。彼女は焦点の合わない目を開いて、しばらく辺りを眺めていた。


「どこ?」


「海水浴場の駐車場」


 彼女はもう一度辺りを見回してから、手を頭の上で組み体を伸ばした。


「体痛い。私どのくらい寝てた?」


「一時間くらいだよ。狭い座席に器用に丸くなって寝てた」


 僕の言葉を理解しているのか、していないのか、彼女は曖昧に返事をしてうなずいた。


「ねえ、ここはどこ? もう降りていいんでしょう?」


「降りて大丈夫だよ。さっきも言ったけど、海水浴場の駐車場だから。首都高のど真ん中とかではない」


 彼女はまた曖昧に返事をしてから車のドアを開けた。僕も同じように外へ出る。夏の夜の蒸し暑さが一気に体を包んだ。しかし不快感はない。生ぬるい空気のなかに潮の匂いがする。波の音が聞こえる。


「あっち?」


 彼女はそう言って海へと続くであろう道を指でさす。僕はうなずく。辺りは松林に囲まれていて、堤防があり、その部分が高くなっているのか海はまだ見えない。恐ろしく静かだと思った。セミとその他小さな虫たちと波の音しか聞こえなかった。空を見上げると星が綺麗に光っていて、その中心に月が浮かんでいる。やっぱりここは偽物の世界なのだと思った。もしくは死後の世界。


 気がつくと彼女はずいぶんと先にいて、まるで何かに引き寄せられるかのように歩いている。僕は小走りで彼女の後を追う。広い駐車場とそれを取り囲む松林を抜け、スロープになっている道を歩いた。彼女はもうスロープの頂上の先にいて姿が見えない。


 アスファルトを踏んでいた足音に、いつの間にか細かな砂が混じっている。視界の先に月が見える。耳をすませば彼らの声さえ聞こえそうな静けさだ。


 スロープの頂上につき、開けた視界の端から端まで弓状に砂浜が続き、その弧の内側には果てしなく真っ暗な海が広がっていた。外灯と月明かりを頼りに彼女の姿を探す。彼女は波打ち際と僕のいる位置のちょうど中間あたりに立っていた。


「ねえ……ごく怖いわ……くらで何も……ないもの」


 僕が横に並ぶと彼女は言った。


 その声は波音と海風にかき消されて上手く聞き取れなかった。とてつもなく大きなものが暗闇から僕らめがけて押し寄せてくるようなそんな感じがした。例えばこの瞬間、どこかで地震が起きて津波が押し寄せてきたら、僕らはその巨大すぎる何かの全貌もつかめずに飲み込まれてしまうだろうと思った。


 僕らの目の前に広がるこの大きな闇は、僕らの味方ではない。


 ふいに横を見ると彼女はそこにはいなくて、僕の少し先を海に向かって歩いていた。僕はとっさに彼女の手を取った。


「ねえ、帰ろう。危険だよ。暗すぎて何も見えない」


 彼女は驚いたように振り向いた。僕の声が聞こえたのか、聞こえていないのか、首を振って、何かを言った後にまた前を向いて歩き始めた。


 僕はスマホを取り出し、ライトをつけ足もとを照らした。そして彼女の隣へと駆け寄る。


「ねえ、すごく怖いわ。真っ暗で、もうほとんど目も使い物にならなくて、耳もなんだかおかしいし、頭はくらくらする。全身が恐怖でぶるぶる震えてるの」


「そうだよ、だから帰ろうって。こんな夜に海なんか来るべきじゃなかったんだ。自殺行為だよ」


「でも行かなくちゃ。どうしても行きたいの。たしかめなくちゃいけないの」


 僕の制止を振り切って彼女はどんどん進んでいく。


 波音は進むごとに大きくなり、僕らを取り囲むようになる。その波から身を守るように、体を寄せ合った。徐々に方向感覚がなくなり、もうすでにここは海のなか歩いているのかもしれないという錯覚に陥る。そのたびに浅くなった呼吸を一度止め、深く息を吸いなおす。そしてしっかりと足の裏に感じる砂浜の感触を取り戻した。


「どこまで行くの!」


 僕は叫ぶように隣にいる彼女に行った。


「行けるところまで!」


「危険だよ!」


「大丈夫! 波打ち際までだから!」


 次第に僕らは彼岸を歩いているのではないかと思うようになった。いつまで歩いていも波打ち際には辿りつかず、延々とこの闇のなかを歩き続けるのではないかと。しかしそんなことはなく足もとにぬかるみを感じ、次の瞬間、小さな波が僕のスニーカーを濡らした。


 僕らはしばらくそこに立ち尽くしていた。彼女もこれ以上は進もうとはしなかった。恐怖で震えていた足を撫でるかのように、一定の間隔で波が足もとに寄り返す。不思議ともう怖くはなかった。


「戻ろう」


「うん」

 

 海を背に歩きながら、彼女は僕に「ありがとう」と言った。一人じゃどこにも行けなかった。


 僕らは堤防の階段まで行き、そこに腰をかけた。海で泳いできたかのように体は緊張で疲弊していた。おまけに足は靴下までぐっしょり濡れていて、できればもう歩きたくなかった。


「ねえ、私、あなたのこと好きよ。正直こんなわがままに付き合ってくれるとは思ってなかった」


「付き合うつもりはなかったよ。付き合わされたんだ。こんなことはもうごめんだね」


 彼女は小さく笑った。遠くの星が瞬くみたいに。


「あなたも私のことが好きでしょう?」


 茶化すわけでも、意地の悪いわけでもなく、彼女はそうであることが当然であるかのように言った。僕は少し迷ってから、うなずいた。


「私もね、あなたのこと好き。本当よ。嘘じゃない」


「別に疑ってないよ。ただ少し驚いただけ」


「うん」と彼女はうなずいた。それから空を見上げて、ゆっくりとこちらを向いた。


「あなたが抱えているものをぜんぶ引き受けたって構わないくらい好き」


「うん」


「ねえ、あなたが抱えているものと私が抱えているものを宝箱みたいに持ち寄って一緒に開け合うの。プレゼント交換みたいに。そこに良いものも悪いものも全部詰め込むの」


「ずいぶん素敵だね」


「そうでしょう。それから箱を開けてね、ああこれは大丈夫。これは素敵ね、私にもちょうだい。これはくだらないわ。これは私の方でなんとかできるかも、だからこっちはお願いできる? って分類するの」


「うん、それで?」


「それでも最後まで残ったものはふたりで分け合って、次の機会まで心の奥底に沈めておくの」


「次の機会?」


「そう、それを何回、何十回、何百回って続けていくのが愛よ」


「なるほど」


 僕はそう言ってうなずいた。ゆったりとした波の音が聞こえる。空を見上げるとそこにはやはり偽物のような月があって、太陽から反射した光を僕らに分け与えていた。


「私は今日、恋人にフラれたわ。もう一度話がしたいって言ったら、ムリだって言われたの。インターンの面接があるんだって。私とインターンどっちが大切なのよって言ったわ。そしたら『あなたはわたしと自分どっちが大切だったのよ』だって。何にも言い返せなかった。だってその通りだもの。でもだから、だからこそもう一度話がしたいって私は言ったの。そしたら『大切だった』だって。もう彼女のなかでは終わってたみたいね」


 僕は彼女がまくしたてるようにしゃべるのを聞き終えてから「それは災難だったね」と感想を述べた。


「それは災難だったね、じゃないわよ。そんなことしか言えないわけ?」


 彼女は大きくため息をついた。そして何かを求めるように僕を見た。


「なに?」


「あなたは?」


「あなたは?」


 僕は首を傾げる。


「私の話聞いてなかったの?」


「聞いてたよ。だから災難だったねって」


「そうじゃないわよ。抱えているものを持ち寄って交換しましょうって言ったじゃない」


「ああ、なるほど。でも僕は何も持ち合わせてないよ」


「そんなのなんだっていいわよ。別に。少しくらいはあるでしょう?」


 僕はしばらく考えた末に、数学のテストの結果が散々だったことを話した。


「なによそれ、くだらない」


「ひどい。これでも真剣に落ち込んでたんだ」


 僕がそう言うと、彼女はつまらなそうに相づちを打った。それから両手で膝を抱えてその中に口を埋めた。


「くだらないわ。私も、あなたも」


 彼女はしばらくそうして海を眺めていた。月明かりにぼんやり照らされているだけで、それは大きな暗闇と変わりなく見えた。ここが世界の果てなのだろう。


 どちらからというわけでもなく僕らは立ち上がり、海を後にした。互いになにも話さず、車に乗り込む。


「ねえ、少し眠ってもいいかな」


 僕は言った。自らの内側に引き寄せられるかのような睡魔だった。


「そうね、眠るといいわ。朝になったら起こしてあげる」


 そんなに眠るつもりはないよ。と僕は言った。そして眠りについた。それは現実が引き潮のように沖へ沖へと遠のいていくような眠りだった。

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