昼間の月

小さな炭酸

「私だって愛せるなら、愛してるわよ」と彼女は言った。


 僕はウーロン茶の入ったグラスを置いて目線をあげた。彼女はお通しで来たサラダのたまねぎを箸でつまんで皿の端に避けている。とても器用にマヨネーズと一体化した爪ほどの玉ねぎまで取り除いていた。そうすることで自らに降り注ぐ災難が幾分か軽減されるかのように。


「でも愛せなかったんだから仕方ないでしょう? そんなこと言われたって、どうすることもできないわよ」


「具体的に何がいけなかったの? その、君と恋人が喧嘩することになった原因は?」


 僕が尋ねると、彼女は半ば反射的に「知らないわよ」と言った。それから玉ねぎを除き終わったサラダのマカロニを血色の悪い唇に運んだ。ちらりと覗いた舌がやけに赤く見えた。


「たぶん私が彼女の想像と違かったのね。彼女はたぶん私のことをもっと……わからないけど、素敵な人だと思ってたんじゃないかしら」


「恋人を綺麗すっかり愛せるような」


「そうね、きっとそんなとこ」


 彼女はそう言って、知り合いでも探すみたいにがやがやと騒がしい店内を見渡した。僕もつられて目線を向けたが、特に変わったものはなかった。どこにでもあるような狭い居酒屋だ。隣では大学生くらいの女の子が三人で飲んでいる。少し耳を傾けたが何の話をしているのかまでは聞き取れなかった。


「私だってさびしかったのよ」と彼女は言った。


「ひょっとして浮気でもしたの?」


「そんなんじゃないわ。ただ孤独でさびしかったの」


「恋人がいるのに? 恋人なんて孤独とさびしさを紛らわすためにいるんでしょ」


「あなたにはわからないわよ。あなたレズビアンじゃないもの」


 僕は何も言わずに、最後のひとつになった唐揚げを食べた。さっさと料理を片づけて会計を済ませてしまおうと思った。酔いすぎだ。これ以上一緒にいたってろくなことにならない。僕には彼女のさびしさとやらを埋めてやることはできないのだ。


「でもただの喧嘩だろう?」と僕は言った。


 喧嘩なんて最後にしたのはいつだっただろう。そもそも僕は喧嘩なんてしたことがあっただろうか。弟とだって年が離れていたせいで喧嘩をした記憶がない。喧嘩をする相手がいるだけ幸せじゃないか、と僕は思った。


「でもさびしいのよ」と彼女は言った。


***


 朝起きて、真っ暗な部屋の雨戸を開ける。身体は寝ぼけていてふらつきながら、でも頭は澄んでいてやるべきことを身体に命令する。引き上げられる雨戸から徐々に差し込む朝日にめまいがして、またふらつく。目が慣れてきて空を見上げた。ここ最近ずっと雨予報だったが、空は綺麗に晴れていた。どこまでも続くように果てしなく青く、清潔な朝日が薄汚れた住宅地を洗っている。セミが鳴いていた。夏が来たのだと思った。


 もう梅雨は開けたのだろうか、と調べてみるとどうやらまだのようで、今週の日曜日に梅雨明け予定ということだった。夏を待ち望んでいるわけではないが、ようやく雨と湿気の憂鬱が終わるのかと思うと、それだけで気分が晴れた。


 冷蔵庫を開けコップにミネラルウォーターを入れ飲み干した。少し散歩にでも行こうと思い立ち、暑くなる前に支度を済ませ家を出た。


 白川愛菜とは小学校時代の同級生だった。中学でも同じ学校に通っていたとは思うが、彼女を見かけた記憶はない。僕らは田舎の一クラスしかない教室で数年間一緒に過ごした。正確には彼女は四年生辺りで転校してきて、それから六年生の後半に母親を亡くしそこから学校にあまり来なくなったので三年弱。


 そして去年の秋に僕がバイトをしているコンビニで僕らは偶然の再会を果たした。地元から離れた東京の片隅でこんなふうに同級生と会うなんて思ってもみないことだった。僕は過去を捨て、独りで生きていくためにこの街へ来たのだ。出来ることなら会いたくはなかった。


 再開したとき、彼女は僕に向かって「変わらないね」と言った。僕も彼女も十九歳だった。彼女はまっとうな人生を歩み樹木の年輪のようにその変遷が見て取れた。そして僕は何ひとつ変わらずここまで来た。


 散歩から帰り朝食を済ませ、ノートパソコンを開く。授業で使われた数学のレジュメを見た。今日は午後から数学と選択の哲学のテストがあった。複素数平面、微分積分。大学のテストなんて、単位さえ取れればいいのだ。そんなに根を詰めて勉強する必要はない。スマホを確認するとLINEが来ていた。


──記憶ない。私昨日どうやって帰った?

──歩いて帰ってたよ。

──お金は? 払ってくれたん?

──カバンから勝手に取った。

──人のカバンを勝手にあさるな

──たしかに減ってる気がする

──ま、いいやありがと


 僕はそこまで確認してからスマホを閉じた。今日は数学のテストがある。


 早めに昼食を済ませ家を出る。初夏の暑さのなか駅まで歩いていき、電車に乗った。いつものように車内は混んでいて、冷房が効いている。広告を眺めて、それにも飽きたら目を閉じる。吊革に掴まり、前後左右に人の気配を感じながら揺られながら、僕は何をやっているんだろうなと思う。スマホを開くと彼女からLINEの続きが送られていた。


──海行きたいね

──恋人と行けば。


 既読がつかないまま、電車は大学の最寄り駅についた。


 この大学に通って三年になる。このまま友人という友人は一人もできずに卒業していくのだろうか。僕はここになにをしに来たのだろう。家を出て一人で暮らせば、何かが変わるのだと思っていた。バイトをして、多少なりとも自立すれば変化の兆しくらいは見えるのだと。しかし結果は何も変わらなかった。僕はいつまでも臆病な人間のままだし、孤独だった。


 人でにぎわうキャンパスを抜けて、試験会場となっている教室へと向かう。十分前だが人はまばらだった。僕は席に着き、スマホを見た。彼女からの返信はまだなかった。黒板の前にいる教授からスマホの電源を落とすのを忘れないようにというアナウンスがあった。僕はもう一度LINEを開き、既読がついていないことを確認してそのままスマホの電源を完全に落とした。


 試験の結果は散々だった。ぎりぎり単位を落とすことを免れるかどうかの瀬戸際だろうと思った。


 大学に用はないので、教室を出てそのまま駅まで歩いた。騒がしく蒸し暑いホームで電車を待った。向かいのホームにはおそらく僕と同じ大学の男子学生がふたりいて、片方のスマホをもう片方が覗いていた。その横には制服を着た女子中学生が独りで特に何もせずに立っている。どこかに電話をするサラリーマン、これから遊びに出かける主婦たち、キャリーケース引く家族。駅のホームには多種多様な人々が行きかっていた。


 僕はいったい何をしているのだろうか? 故郷を離れて、私立の大学に通い始めてもう三年になるというのに友人の一人もできず、孤独にキャンパスと家とバイト先を往復する生活。僕はいったいこれからどこへ行くというのだろう。


 電車が来た。吸い寄せられるように僕はそれに乗り込んだ。


 電車に揺られ窓の外を見ながら、ここにいる人たちの誰も僕の試験の結果を知らないのだと思った。これだけ多くの人がいるのに。大学に居たってそうだ。知っているのは教授だけで、その教授だって僕の顔と名前は一致していないだろう。きっと点数をただの数字だとしか思っていない。

孤独というのはそういうことだ。誰も僕を知らない。知ろうとしない。そしてこの孤独を誰かに伝えることもできない。


 家に帰りスマホの電源を入れると彼女からLINEが入っていた。


──彼女とは別れた


 だからなんだ、それがどうした。と返信してやりたかった。僕には関係ない。そんなことよりも目先の単位の方が大切だ。勝手に付き合って勝手に別れればいい。それでまた僕に失った自尊心やらさびしさやらを埋めさせようとするのか。そんなバカげたことに付き合ってられるか。海でも山でも一人で言ってろ。どうせどこにも行けやしないんだ。


 本当にそう打ち込んでやろうかと思った。しかしやめた。そんなことをしたって意味がない。僕が抱えているものも、彼女が抱えているものも、互いにどうにかできる問題じゃないのだ。


──海には行かないよ。


 とだけ返信を入れて、スマホを放り投げた。それから同じようにベッドに身体を投げ出した。


 なんにせよ、もう終わったのだ。と思った。大学の授業も、テストも。しばらくは夏休みで、バイトに行くだけの通りいっぺんの生活が始まる。悪くない。単位だってもし落としたらまた来年取ればいい。それだけのことだ。


 買い物に行かなければいけないと思った。家の冷蔵庫には食料と呼べそうなものは何もない。しかし僕は眠りたかった。このまま永遠に眠り込んでしまいたいとさえ思った。こんな世界で、こんな肉体を持って生きていても仕方がない。


***


 電話のコール音で目が覚める。電話? 僕に? 間違い電話か、何かの勧誘だろうと思った。現に数日前にもそういった電話がかかってきた。しかしそれはしばらく経っても切れることがなかった。つまり彼女が電話をかけてきているということだ。


「もしもし」


「やっと出た。何回LINEしたと思ってるの」


「寝てた。何か用?」


「ねえ、私、電話ってあまり好きじゃないのよ」


「うん」


「だから会って直接話したいんだけど、今から会える?」


「……会えるよ。どこに行けばいい?」


 彼女は一駅先の公園の名前を言った。


「どうしてそんなところなの」


「そんなの私の方が訊きたいわよ。ねえ、私、電話ってすごく苦手なの」


「さっき聞いた」


「もうなんだか変に緊張しちゃって、後ろに誰かいるんじゃないかとか気にしちゃうし、どこ見ていいかわからないから、ずっときょろきょろしてるし、完全に不審者みたいになの」


「うん」


「それで来てくれるの? それともあなたも来ないの?」


「……わかった。行くよ。三十分くらい待ってて」


「待ってる」


 僕は電話を切ってため息をついた。時計を見ると夜の七時半だった。辺りはすっかり暗くなっている。僕は洗面所に行き、顔を洗い、軽く髭をそった。寝ぐせのついた髪をブラシとワックスで整えた。それからもう一度鏡を見る。くすんだ肌、青い髭、伸びっぱなしの眉。瞳の奥に映る自分と目が合い、とっさに目を逸らした。一体いつまでこうして生き続けるのか? 彼はそう問いかけてきた。


 家を出て、駅に行く。退勤する人々で埋め尽くされた反対側のホームを眺めた。数分もしないうちに電車が来て、僕はそれに乗った。

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