第3話 締め切りと金の卵 📅🥚

 夜。猫野区のワンルーム。

 カーテンの外は真っ暗で、街灯の光が細く差し込んでいる。

 窓を少し開けると、3月末の夜風がひんやり入り込んできて、机の上のミケラテのレシートをひらひら揺らした。


 机の上は、広告レポートとプリンの空き容器でカオス。

 “働く大人の机”というより、“猫が荒らした後”みたいな惨状だ。


 気づけば、あっという間に締め切りの日になっていた。


 今日は時間があった。

 いや、あったはずだった。

 朝の私は「余裕〜」とか言ってた。

 あの自信はどこへ行ったのか。


 SNSを見て、コーヒー淹れて、ユウと雑談して、猫動画を見て、プリン食べて、またSNS見て……。


 気づいたら、時計は午後11時58分。


「おかしいな? 今日こそ余裕で書けるはずだったのに……時間、どこで落としてきた?」


『お前の“余裕”は幻だろ』


 ユウが画面に現れ、容赦なく刺してくる。


「幻じゃない! ちょっと油断しただけ!」


『その“ちょっと”が毎回1時間なんだよ』


「うるさい!」


 桜野短編フェス。テーマ「春と再会」。

 ここで決めたい。

 今日くらいは、私の卵を温めたい。


「にゃーん」


 スマホが鳴いた。

 もちろん私の設定。でも今は笑えない。


『こはる、あと2分だぞ。卵落とすなよ』


「落とさない! 書く!」


 私はキーボードに指を置き、祈るように打ち始めた。

 最後の一文を、勢いで叩き込む。


『春の桜並木で、二人は再会した。』


 ……はい、ベタ。

 でも今はベタでいい。

 締め切り前の私に、ひねりを求めるな。


 投稿ボタンを押す。

 続けて完結ボタンも押す。

 指が震える。


「投稿完了」


 その文字を見た瞬間、私は椅子に沈み込んだ。

 肩が痛い。目が痛い。腰も痛い。

 でも、心は……ちょっとだけ軽い。


『お疲れ、こはる』


 ユウが優しく笑う。

 その顔、ちょっと反則。


「ありがとう。でも……これで私の卵、孵化するかな?」


『するかどうかは知らんけどさ。お前が温めた時間は、本物だろ』


「……そういうこと言うと好きになるよ?」


『やめろ、照れるだろ。俺、幼馴染モードなんだから距離感守らせろ』


 私はスマホを閉じて、深呼吸した。

 通知は全部切った。今日はもう鳴らない。


 カーテンを開けると、夜桜が街灯に照らされて光っていた。

 静かな風が花びらを揺らしている。

 春だ。再会だ。

 私と物語の再会。


「書くことは、私の春だ」


 小声でつぶやくと、机の上の猫の置物がこっちを見ていた。

 ……笑ってる?

 いや、絶対笑ってるよね。

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