第3話 最初の住人と、禁断の味

【闇を裂く「光」】

 アビス・ダンジョンの深淵。そこは数千年の間、静寂と捕食者の吐息だけが支配する、神に見捨てられた墓標であった。  だが今、その絶対的な闇の一角に、異質な空間が打ち込まれている。

(……温かい。いえ、違う。これは、なにかしら?)

 シルバーグレーの耳をぴくりと動かし、少女――ルルは、岩陰からその光景を覗き見ていた。  魔法の灯火(ライト)のような揺らめきはない。それは、太陽の欠片を切り取って閉じ込めたような、どこまでも真っ白で、残酷なほどに透き通った光だった。  その光は、湿った岩肌を、本来あり得ないほどの鮮やかさで照らし出している。

 ルルの金のオッドアイが、その光源に吸い寄せられる。  震える指先。彼女の身体の中に眠る、本人さえ自覚のない「なにか」が、その光に対して、狂おしいほどの既視感を訴えていた。

【神域の異常光景】

「お、お嬢様……。やっぱりこれ、もったいなさすぎますよ。俺の不運が浄化されるどころか、罰が当たって異次元に飛ばされそうです……」

 光の中心で、情けない声を上げている男がいた。  ルルは、その男が手にしている「水」を見た瞬間、危うく叫び声を上げそうになった。

(そんな、バカな……。あれは、伝説に聞く聖域の雫……?)

 男が桶の中に湛えているのは、神話の中でしか語られない霊水(アンブロシア)だ。一口飲めば死者すら蘇ると謳われるその奇跡が、無造作に、あろうことか「布切れ」を浸すために使われている。

「カイル。何度言わせるつもり? その布は、私の居住空間を構成する一部なのよ。不浄な状態で放置することは、私の美意識という名の『法』に対する反逆だと知りなさい」

 光の中に座る、紫銀の髪の令嬢。  彼女の纏う空気は、この陰惨なダンジョンにあって、一分の乱れもない。  ルルは、その圧倒的な存在感に息を呑んだ。

「は、はい……。でも、一国を買収できる水で俺の靴下を洗うなんて、王様だってやらないですよぉ……」

 ジャブジャブと。  奇跡の雫が、ただの泥を落とすためだけに消費されていく。  そのあまりの価値観の崩壊に、ルルの細い身体から力が抜けた。

「あ……ぅ……」

 空腹と衝撃。限界を迎えたルルの意識は、白い光の中に溶けていった。

【ジェネシスの謎の反応】

『――……警告。外部生命体の接近を確認。  バイタルサイン、低下。生体適合率の精査を開始します』

 不意に、アリシアの傍らに浮かぶ黒水晶のモノリスが、鋭いデジタルの火花を散らした。

(あら、お客様かしら。この状況で私に面会を申し込むなんて、よほどの命知らずか、あるいは……)

 アリシアが視線を向けると、そこには倒れたケモミミの少女がいた。  ジェネシスの表面に、一瞬、激しいノイズと共に幾何学的な紋様が奔る。それは、これまでのアリシアへの全肯定とは異なる、不可解で不気味な明滅だった。

『………………。  イレギュラーを検知。マスター、この個体は「既存のリソース」とは異なる波長を有しています。  管理上の有用性が認められます。マスターの「所有物」としての登録を強く推奨します』

「ジェネシス、貴方がそこまで特定の個体に固執するなんて珍しいわね。……いいわ、まずはこの『遭難者』に、適切な投資を行ってあげましょう」

【禁断の味「コンソメスープ」】

 鼻腔をくすぐる、暴力的なまでの香り。  それは、ルルがこれまでの人生で嗅いできた「食べ物」の概念を、根底から覆すものだった。

「目が覚めたかしら? 栄養状態の不良による、一時的な昏倒(こんとう)ね。これを飲みなさい。今の貴方には、最も効率的な滋養(じよう)よ」

 差し出されたのは、白い陶器のカップ。  中には、琥珀色に輝く透き通ったスープが満たされていた。

(いい匂い……。でも、なんだか、とっても……悲しいくらいに、懐かしい)

 ルルは震える手でカップを取り、一口啜った。  瞬間、複雑に絡み合った肉と野菜の旨味が、舌の上で爆発した。現代的な調味技術によって極限まで洗練された「コンソメ」の衝撃。

「……っ!? おいし……おいしいです……!」

 そして、不思議なことが起きた。  初めて口にするはずのその味。なのに、ルルの細胞の一つ一つが、歓喜の産声を上げている。   (知ってる……私、この味を知ってる……。もっとずっと、温かくて、光に満ちていた場所で……)

 気づけば、ルルの大きな瞳から大粒の涙が溢れ、スープの中に落ちていた。  理由のわからない懐かしさ。胸の奥が締め付けられるような、遠い記憶の残滓。

「あら、塩分濃度が変わってしまうわ。私の提供した食事に、不純物(なみだ)を混ぜるのは感心しないわね」

 アリシアは冷たく言い放つが、そのアメジストの瞳は、ルルの金の瞳の奥に宿る「回路のような紋様」を、鋭く観察していた。

【一人目の住民】

「……ありがとうございます。助けてくれて。私、ルルって言います。あの、私、なんでもします! 狩りも、穴掘りも……だから、ここに居させてください!」

 ルルは、力強く動く尻尾を必死に丸め、頭を下げた。  アリシアは、ティーカップを優雅に置き、ルルを見据える。

「いいわ。私の楽園に、最初の住民を歓迎するわ。ただし、ルル。私の下で暮らすということは、貴方の人生、その一分一秒に至るまで、私の管理下に置かれるということよ。それでも構わないかしら?」

「はい! どこまでも、ついていきます!」

 アリシアは、満足げに口角を上げた。


「決まりね。……カイル、下がりなさい。ここからは私の仕事よ」 「えぇっ!? お嬢様、またガチャを回すんですか!? さっき浄水器を出したばかりなのに、リソースがもったいないですよ!」 「黙りなさい。……これは投資よ。泥だらけの住民を放置することは、私の楽園の景観を損ねる重罪だわ。……いいわね、これはあくまで、管理上の必要経費よ」

 アリシアはそう言い放つが、その指先はわずかに震え、アメジストの瞳には不自然なほどの熱が宿っていた。 (……来たわ。新規キャラ加入直後の初等引き。このタイミング、この空気……ジェネシスの乱数は、今間違いなく私の指先に収束している……!)

 漆黒のモノリスが、主(あるじ)の昂ぶりを察したかのように、不気味に、そして荘厳に、虹色の火花を散らし始める。 「さあ、ジェネシス。見せなさい、貴方の真価を……っ!」


 最果ての洞窟が、銀河のような光に飲み込まれていく。  一人目の「管理対象」が加わった夜、アリシアの理性を焼き切る禁断の儀式が、幕を開けようとしていた。

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