第2話 最果ての地は、意外と快適でした
【絶望の「最果て」】
そこは、光という概念が神話の彼方に忘れ去られたような場所だった。
アビス・ダンジョン最深部。 頭上には巨大な岩壁が天を突き、足元には湿り、腐敗した大気が澱んでいる。時折、闇の奥で「なにか」が這いずる嫌な音が響き、それは静寂を切り裂く刃のように鼓膜をなぞった。幽玄な闇が、侵入者の生命をじりじりと削り取っていく。
「……ひっ、ひぃ……。お嬢様、やはりここは、死の土地です……。魔石の気配すらなく、ただ魔物が私たちの命を待っているだけの……」
カイル・ヴァンクロフトが、泥と返り血に汚れた銀の鎧を鳴らして震えていた。 断罪の夜会から命からがらアリシアについてきた彼は、その「不幸」属性ゆえか、道中何度も魔物に襲われ、その体は傷だらけだ。今も、暗闇に対する恐怖でその端正な顔は見る影もなく歪んでいる。
「カイル、静かにしなさい。その騒がしい声は、余計な魔物を呼び寄せる『招待状』にしかならないわ」
わずかに眉をひそめ、アメジストの瞳で周囲を射抜く。確かに空気は澱み、埃っぽい。けれど、ここが『絶望の地』だなどと嘆くつもりは毛頭なかった。アリシアにとってここは、まだ誰の手にも触れられていない、未開発のリソース・プールに過ぎないのだから。
「でも、お嬢様! 水も食料もなく、このままでは一晩と持ちません! ああ、俺の不運がお嬢様にまで……!」
「黙りなさい。……ジェネシス、準備は?」
【SSRアイテム展開】
『――……マスター。周辺環境の解析完了。生存適正率:〇.〇三%。極めて不愉快な環境です。これより、管理者様の快適な空間を確保するため、リソースを投入します』
アリシアの前に、漆黒のモノリスが浮上する。 石版の表面でスロットのような光彩が高速回転し、次の瞬間、虚空から重厚な金属音が響いた。
――ドォォォン!
暗い洞窟の中に、不釣り合いなほど洗練された巨大な機械が鎮座した。 鈍い銀色の輝きを放つ筐体、現代的なLEDのインジケーターが青白く発光し、不気味な闇を冷徹に押し返していく。
【SSR:超高度魔導浄水システム・フィルター】
「な、なんですか、この光る巨大な箱は……!?」
「私の資産よ。カイル、その辺の泥水を汲んできなさい」
呆然とするカイルを顎で使い、私は機械を起動させる。 カイルが恐る恐る注いだ、魔物の体液すら混じっていそうな濁った泥水。それが機械の中を通過した瞬間、フィルターが神々しい黄金の輝きを放った。
チョロチョロと、受け皿に満たされていく液体。 それは、ただの「水」ではなかった。 水面に真珠のような輝きを湛え、周囲に立ち込める霧さえもが、嗅ぐだけで魂が洗われるような芳香を放っている。
【無知な受益者と、冷徹な解析】
「飲んでいいわよ、カイル」
「は、はい……。毒見なら俺の役目……ごくっ、ごくごくごくっ!」
カイルは必死にその水を喉に流し込んだ。 その瞬間、彼の喉から光が溢れ出したように見えた。
「――ぷはぁぁぁぁ! お嬢様、これ、ただの美味い水じゃないです! 喉越し最高、なんだか肩こりも治ったし、腰の痛みも消えた気がします! いやぁ、空気がいいからかな?」
能天気なカイルの言葉とは裏腹に、彼の傷だらけだった体は、見る間に再生していた。 抉れていた腕の傷は跡形もなく消え、枯渇していたはずの魔力は、体外に溢れ出すほどに充填されている。
だが、本人は「気のせい」で片付けているようだ。
『――個体名:カイル。知能指数に重大な欠陥を検知。 【解析結果:排出された液体】 名称:天上の甘露(アンブロシア) 等級:神話級 効果:全状態異常解除、HP・MP完全回復、寿命延長。 市場価値:王国予算の三倍(一国を三度買収可能)』
「……あら、三度だけ? 思ったより安いのね」
ジェネシスの冷徹な文字を読み、私は小さくため息をついた。 王国という組織の資産価値がいかに低いかを再認識させられる。
【禁断の「聖水洗濯」】
「お嬢様! 元気が出ました! これなら、あと三日は寝ずに守れます!」
「そんな非効率なことはさせないわ。それより、カイル。その『水』を桶に汲みなさい」
「え? 飲む分はもう十分ですが……」
「洗濯をするのよ。あなたの靴下、泥だらけで不潔だわ。私の視界に入るなら、最低限の清潔さを保ちなさい」
カイルの顔が引き攣った。
「な、なんてもったいないことを! こんなに美味い水で洗濯なんて! 罰が当たりますよ!」
「……それとも、そのままの汚い姿で私の視界を汚し続けるつもり? 不運(デバフ)が靴下にまで染み付いているようだけど」
「うぐっ、分かりましたよ……。お嬢様の命令なら……うわぁぁん、ごめんなさい神様、俺、こんな贅沢な洗濯、初めてです……!」
カイルは泣きながら、一国を買収できる霊水の中に、泥まみれの靴下を突っ込んだ。 ジャブジャブと洗うたび、靴下の汚れと共に、彼にこびり付いていた不吉なオーラさえもが浄化されていく。
ふと、カイルが私の隣に浮かぶジェネシスの文字に目を止めた。
「……ん? お嬢様、その板に出てる『イチコクをサンド』ってなんですか? あ、もしかして……」
一秒、二秒。 カイルの顔が、紙のように真っ白になった。
「一国を三度……!? これ、一口で城が建つレベルの霊水……!? 俺、今、国家予算の三倍の価値がある水で、自分のパンツ洗ってるんですかぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
カイルはあまりの衝撃に、派手に足を滑らせて空の桶を頭から被り、そのまま後ろへズッコケた。
「うるさいわね。資源は使ってこそ価値があるのよ」
【拠点の基礎完成】
仕上げに、アリシアはガチャで引いた別のアイテムを周囲に配置した。
【R:超広角魔導LEDランタン】
カチリ、とスイッチを入れた瞬間。 数千年間、闇に支配されていたアビスの空間が、現代的な昼光色の白い光に塗りつぶされた。
闇を吸い込んでいた岩壁は、光を反射して白銀に輝き、浄水器から漂う清涼な空気によって、腐敗臭は完全に消え去った。
アリシアは、ガチャ産の折り畳み式高級ラウンジチェアに腰を下ろし、これまたガチャ産の『極上アールグレイ』を満たしたティーカップを傾ける。
「ようやく、私の楽園らしくなったわ」
白い光の下で、優雅に茶を啜る公爵令嬢。 その足元で、国家予算並みの水に浸かったパンツを抱えて呆然とする騎士。
「最果ての地を世界の中心へと書き換える。――アリシアによる『世界の再定義(管理)』は、まだ始まったばかりだ」
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