世界一ついてない俺が、深夜のレストランで「魂の会計」を迫られた話 〜不運はすべて、最高級の通貨になります〜
いぬがみとうま
不運な男の「払い戻し」レストラン
天を恨みたくなるような夜だった。
九月の終わり。台風の余波を孕んだ雨は、容赦なく地上のすべてを叩きつけている。
二十八歳の会社員、佐藤陽介は、アスファルトを跳ねる泥水の中に膝をついていた。
「……最悪だ」
絞り出すような声は、叩きつける雨音にかき消される。
プレゼンの直前、上司にぶつかられて資料はコーヒーに染まった。怒鳴り散らされた挙句、企画は白紙。追い打ちをかけるように、帰りの電車内で財布をすられたことに気づいた。スマホの充電は、無情にも「1%」の表示を残して、真っ黒な沈黙に沈んでいる。
タクシーを拾う金もなく、歩いて帰ろうとした矢先に、この水溜まりへの転倒だ。
おろしたてのスーツは無残な泥模様に染まり、革靴の中には不快な湿り気が浸食してくる。
空腹はすでに痛みへと変わっていた。胃袋が自身の壁を削っているような感覚に、陽介は嗚咽を漏らす。
俺は、神様が作った失敗作なのか。
誰かの幸福の帳尻を合わせるための、ただの生贄なのか。
這々の体で立ち上がり、視界を塞ぐ前髪をかき上げた。
逃げるように迷い込んだのは、新宿の喧騒から数本外れた、街灯さえ疎らな路地裏だった。
湿った空気とコンクリートの匂い。その奥から、場違いなほど甘美な香りが漂ってきた。
バターの濃厚な芳香、そして、醤油を焦がしたような香ばしい、懐かしい匂い。
誘われるままに角を曲がると、そこには不自然なほど静かに、一軒のビストロが佇んでいた。
看板はない。ただ、厚いガラス扉越しに、オレンジ色の柔らかな光が漏れている。
陽介は吸い寄せられるように、その扉の取っ手に手をかけた。
カウベルの乾いた音が響く。
店内は、外の地獄が嘘のような静寂と温もりに満ちていた。
カウンターが六席。奥の厨房から、一人の老紳士が姿を現した。
白銀の髪を完璧に整え、糊のきいた白いコックコートを纏っている。その眼光は、獲物を狙う鷹のように鋭く、深淵のような静けさを湛えていた。
「いらっしゃいませ。酷い雨ですね」
老紳士の声は低く、心地よいバリトンだった。
陽介は我に返り、ずぶ濡れの自分の姿を顧みた。
「あの、すみません。……財布を、落としてしまって。お支払いができる状況じゃないんです。雨宿りだけさせていただければ……」
踵を返そうとした陽介を、老人の静かな言葉が止めた。
「お金は結構ですよ。当店のシステムは少し特殊でして。『量り売り』なのです」
「量り売り……?」
「ええ。お客様が現在お持ちの『荷物の重さ』。それを対価として頂戴しております」
陽介は当惑した。荷物。手元にあるのは、泥に汚れたビジネスバッグと、自分自身の情けない肉体だけだ。
老紳士はそれ以上の説明をせず、陽介をカウンターの中央へと促した。
促されるまま椅子に腰を下ろすと、冷え切った身体に、店内の暖房がジンジンと突き刺さるような痛痒さを伝えてくる。
「温かいものからお出ししましょう」
店主は流れるような所作で、一杯のスープを目の前に置いた。
オニオングラタンスープ。
飴色になるまで炒められた玉ねぎが、琥珀色のスープの中で深い呼吸をしている。その上には、たっぷりと溶けたグリュイエールチーズと、スープを吸って重厚になったバゲット。
一口含んだ瞬間、陽介の目から熱いものが溢れ出した。
熱気が喉を通り、胃へ落ち、末端の指先まで血が巡るのがわかる。
美味い。
今まで食べてきたどんな高級料理よりも、この一杯は命の味がした。
続いて供されたのは、厚切りのローストビーフだった。
低温でじっくりと火を通された肉は、薔薇色の断面を見せ、特製のグレービーソースを纏っている。添えられたマッシュポテトは雪のように白く、口の中で儚く溶けた。
陽介は、明日が来る絶望も忘れ、夢中で食らいついた。
だが、満腹感が訪れるとともに、別の感情が芽生え始める。
……恐怖だ。
ふと壁に目をやると、古びた真鍮の額縁に、手書きの文字が躍っていた。
『本日のレート:泥ハネ=金貨1枚/上司の叱責=ダイヤモンド相当/孤独の夜=プラチナ3g』
脈絡のない、不気味な相場表。
店主は黙々と、カウンターの上に奇妙な装置を設置し始めた。
それは、古美術品のような真鍮の天秤だったが、皿の上には何も載っていない。
「さて。お腹は満たされましたか」
老紳士の目が、陽介の背後を見通すように細められた。
その眼光は慈愛に満ちているようにも、残酷な選別を行っているようにも見えた。
「お支払いの時間です。あなたの『荷物』を量らせていただきましょう」
陽介の背筋に、冷たい汗が伝った。
荷物の重さ。
その言葉が、今になって重く響く。
やはり、この店はまともじゃない。
自分自身の寿命、あるいは魂の重さを抜き取られるのではないか。
そうでなければ、こんな場違いなご馳走を、一文無しの男に振る舞うはずがないのだ。
逃げ出そうにも、足がすくんで動かない。
老紳士はカウンターを回り込み、陽介のすぐ後ろに立った。
冷たい指が首筋に触れる。
「ずいぶん、重いですね……。今日は。これだけのものを背負って、よくここまで辿り着かれました」
老人は、陽介の背負っている「何か」を、空気ごと掴むような仕草をした。
そのまま、何もないはずの手を天秤の皿の上へ、そっと置く。
瞬間。
ガチャン、という重厚な音を立てて、天秤の片方が激しく沈んだ。
陽介は、その瞬間、信じられないほど体が軽くなるのを感じた。
肩を締め付けていた見えない重石、胃の奥に溜まっていた泥のような不快感。それらが、嘘のように消え去っていく。
老人は満足げに頷き、年代物のレジスターのレバーを引いた。
チン、という軽やかな音が静寂を破る。
吐き出されたのは、異様に長いレシートだった。
「お待たせいたしました。こちらが本日の明細でございます」
震える手で、陽介はその紙片を受け取った。
そこには、今日の彼の惨めな記録が、数字となって並んでいた。
【明細:不運の払い戻し】
・上司による理不尽な叱責と人格否定 3,000 pt
・財布の紛失(厄落とし係数:特大) 15,000 pt
・水溜まりへの転倒(自尊心ダメージ含)5,000 pt
・終電逃しおよび冷雨への曝露 8,000 pt
合計所持ポイント: 31,000 pt
今回のお食事代: 5,000 pt
差引残高(払い戻し金):26,000 pt
陽介は、目を見開いたまま固まった。
「……これは、何ですか?」
「当店は、『不運の払い戻し窓口』でございます」
老紳士は、穏やかな微笑を浮かべて説明を始めた。
「お客様が外の世界で背負わされた理不尽、悲しみ、やりきれないストレス。世の中には、不運を押し付けられる側の人々が必ず存在します。それらは負のエネルギーですが、同時に非常に純度の高い、貴重な『通貨』でもあるのです」
店主はカウンターの下から、一つの封筒を差し出した。
「今日は、実に良質な不運を溜め込まれていました。おかげで、最高級のフルコースを召し上がっても、これだけの余剰が出ます。……これは、本来お客様のポケットに戻るべき『価値』です」
封筒の中には、新札の現金が二万六千円分、入っていた。
驚くべきことに、その金額は、今日盗まれた財布に入っていた額と、彼が今日失った「何か」を補填するのに十分な数字だった。
「そんな。受け取れません。俺はただ、食事を……」
「いいえ。あなたは支払ったのです。その泥だらけのスーツで。冷えた体で。挫けそうな心で。……不運という名の重い荷物をここに置いて、身軽になってお帰りください。それが、この店のルールなのです」
陽介は封筒を握りしめた。
今まで、自分が世界の「余計なモノ」だと思っていた。
自分だけが損をしている、無意味な人生だと思っていた。
ところが、この老紳士は、その惨めさすべてに明確な価値を付けてくれた。
今日の俺は、ただの不幸な男じゃない。
これほど高価な不運を支払い、幸福を手に入れた客なのだ。
老紳士は最後に、カウンターの下から見覚えのあるものを差し出した。
泥にまみれ、中身が空になった陽介の財布だった。
「これは道端に落ちていたのを、先ほど馴染みの客が届けてくれたものです。現金はすでにありませんでしたが、中身の身分証などはそのままです。お返ししましょう」
すべては繋がっていた。
偶然などではなく、この場所は最初から、彼を待っていたのだ。
店を出ると、激しかった雨は嘘のように上がり、雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。
空気は澄み渡り、濡れたアスファルトが月光を反射して、銀色の絨毯のように輝いている。
陽介は、深く呼吸をした。
不思議なほど、足取りは軽い。
お腹は満たされ、懐には払い戻された現金。
そして何より、心の中にあった黒い澱みが、すべて消えていた。
ふと振り返ると、今しがた出てきたはずの路地裏には、もうオレンジ色の光は見えなかった。
看板のない扉も、バターの香りも。
幻だったかのように、そこには錆びたシャッターが降りているだけだった。
陽介はポケットの中のレシートを、指先で確かめた。
指に触れる感触は、確かに現実のものだ。
明日になれば、また嫌な上司に顔を合わせなければならないだろう。
また何かのトラブルに見舞われるかもしれない。
だが、今の陽介は、その恐怖に怯えてはいない。
不運が来れば、それは貯金になる。
最悪なことが起きれば、それは次のご馳走のチケットになる。
人生というレストランの、お得なポイントカードを持っているようなものだ。
「……さて。明日はどんな『稼ぎ』があるかな」
彼は、小さく笑った。
陽介は、軽やかな足取りで、明日へと歩き出した。
(完)
率直なご評価をいただければ幸いです。
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世界一ついてない俺が、深夜のレストランで「魂の会計」を迫られた話 〜不運はすべて、最高級の通貨になります〜 いぬがみとうま @tomainugami
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