第9話:断絶という名の鏡


 渓谷の復興作業は、数日前の惨状が嘘のように、組織的な熱気を帯び始めていた。

 カズヤが引き起こした崩落。その瓦礫の山を前に、王都から到着した「特別派遣チーム」が、次々と魔導重機を連結させていく。その中心に立つ男の姿を、カズヤは泥にまみれた背負い籠を担いだまま、遠くから凝視していた。


「――一条(いちじょう)」


 その名は、カズヤの胸の奥で鋭い棘となって刺さっている。

 あの日。数週間前、王都の役所で、自分と全く同じ日にこの世界に降り立った男だ。自分は「適職なし」と突き放され、ドブさららいの現場に送られた。対して彼は「特別顧問」として、華々しく迎えられた。


(……運が良かっただけだ。ギフトが医療系だったから。現代医学の知識があったから。……それだけの差だろ)


 カズヤはそう自分に言い聞かせ、重い石を地面に下ろした。だが、視界に入る一条の動きは、カズヤの抱く「エリート像」とはあまりにかけ離れていた。一条は白衣のような実務服の裾を泥に浸し、自ら膝をついて、崩落した支柱の断面を指でなぞっている。その傍らには、カズヤが「古臭い迷信」と切り捨てた魔石の輝きがあった。



 休憩時間、一条が資材置き場の近くを通りかかる。カズヤは、逃げるように背を向けることもできたが、肥大化した自尊心がそれを許さなかった。彼はあえて、泥で汚れたタオルを首に巻き、一条の進路を塞ぐように立った。


「……へぇ、大層なご身分だね、一条『先生』。王都でふんぞり返ってればいいのに、わざわざこんなドブの臭いがする村まで、慈悲のパフォーマンスですか?」


 カズヤは精一杯の冷笑を浮かべた。一条が嫌悪感を露わにするか、あるいは哀れみの目を向けることを期待して。そうすれば、自分は「やっぱりエリートは鼻持ちならない」と、再び安全な被害者の椅子に座れるからだ。


 だが、一条は足を止めると、驚いたように目を見開き、そして――心底懐かしそうな顔で笑った。


「ああ、佐藤くん! また会えて嬉しいよ。……君もこの現場に入っていたんだね。ここの地脈は本当に複雑だ。……君がいなければ、もっと酷いことになっていたかもしれない。本当にお疲れ様」


「……は?」


 毒気が抜かれた。一条の瞳には、カズヤに対する軽蔑も、優越感もなかった。ただ、過酷な現場を共有する「戦友」に向けるような、等身大の敬意だけがあった。


「君の設計図、見たよ。トラス構造……懐かしかったな。……実は僕もね、こっちに来て最初の三日間、その理論だけで橋を直そうとして大失敗したんだ」


「……三日間? あんた、あの時期にもうそんなことを……」


「そう。がむしゃらだったよ。僕たちの現代知識がここでは『毒』になることもあると、その時に思い知らされた。……その失敗のせいで、一緒にいた職人が大怪我をしてね。僕は医者だったのに、この世界の治癒魔法の理屈がわからなくて、目の前で出血を止めることすらできなかった」


 一条はそう言って、自らの実務服の袖を少し捲り上げた。そこには、魔法の共振による痛々しいケロイド状の傷跡が、肘から手首までびっしりと刻まれていた。


「……っ」


「この傷は、その時に負ったものだ。僕はそこから、寝る間を惜しんで石を磨き、魔法陣を模写した。君が下水道で現状に不満を漏らしていたかもしれない時間、僕は一秒でも早く、この世界の理を『血肉』にする必要があったんだ。……佐藤くん。僕たちがこの世界に来てから、今日でまだ二十日(はつか)そこらだ。でも、僕にとっては、人生で一番濃い二十日間だったよ」


 一条の声には、説教臭さなど微塵もなかった。ただ、淡々と「同じ二十日間」をどう使ってきたかという密度の差を、残酷なほど誠実に突きつけていた。


「君の理論は正しい。あとは、この世界の『呼吸』を混ぜるだけだ。……君なら、僕が遠回りした場所に、もっと早く辿り着けるはずだよ。あの日、役所で君の理論を聞いたとき、正直に言って僕は……君の頭の良さが羨ましかったんだ」


 一条はそう言うと、カズヤの肩をポンと叩いた。その手の平は、かつての外科医のものとは思えないほど硬く、石運びで潰れたマメと、無数の擦り傷で覆われていた。


「……あ、いけない。村長を待たせているんだ。……佐藤くん、さっき君が仕分けてくれた石材、あれは地脈の安定化に最適だ。おかげで僕の仕事が一つ減ったよ。ありがとう」


 一条は、本当に心からの感謝を述べて、小走りに去っていった。


 カズヤは、自分の手がガタガタと震えていることに気づいた。


 一条は、カズヤの皮肉に気づいていなかったわけではない。彼は、カズヤの攻撃的な態度すらも「同じ日に絶望の淵に立たされた、同郷の仲間の苦しみ」として、あまりに大きな器で包み込んでしまったのだ。


 同じ二十日間。同じスタートライン。

 なのに一条は、失敗から学び、傷を負い、その痛みすらも糧にして、すでにこの世界の一部になっていた。

 一条の手のタコは、彼がどれだけ「現実」と握手してきたかの証明だった。


 それに対して、自分はどうだ。

 SNSの陰に隠れるように「本質」を語り、スマホのない世界を呪い、自分の知識を認めない周囲を「無知なバカ」だと切り捨てて、逃げ回っていただけだ。


「……っ、ああ……」


 皮肉も、毒舌も、歪んだプライドも。

 一条の「労働者の手」と、曇りのない笑顔の前では、すべてが恥ずべきガラクタに思えた。


 勝てない。

 それはギフトの性能の差でも、ましてや運の差でもない。

 「自分の至らなさを飲み込み、泥の中で這いつくばる覚悟」があるかどうか。ただそれ一点において、自分は一条の足元にも及んでいなかった。


 カズヤは、一条に「ありがとう」と言われた石材の山を見つめた。

 その夜、カズヤは初めて、誰に命じられるでもなく、明日運ぶための石の角を一条が言った通りに削り始めた。


 指から血が滲み、爪が割れても、彼はやめなかった。

 そうしなければ、自分という人間が、今度こそ完全に消えてなくなってしまうような気がしたからだ。

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2025年12月31日 12:00
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異世界、現代知識は既にコモディティ化していました。~チートだと思った俺の知恵は「100年前の教科書」扱い~ 入峰宗慶 @knayui

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