第8話:泥を運ぶ慟哭(どうこく)
渓谷での事故から三日が過ぎた。
橋の再建計画は白紙に戻り、今はガザルたち護衛団と村人たちが、崩れた岩や石材を力ずくで撤去する作業に追われていた。
「……っ、ふ、ふざけんなよ……なんで、俺が……」
カズヤは鼻水をすすり、涙と泥でぐちゃぐちゃになった顔で、ボロボロの軍手代わりに布を巻き付けた手を動かしていた。
目の前には、拳骨大の石が詰まった背負い籠。それを背負い、崖の上まで運ぶ。ただそれだけの、頭を一切使わない、最も彼が忌み嫌っていた「非効率な労働」だ。
「重いんだよ……っ。この世界の石は、なんでこんなに密度が高いんだよ……物理法則が狂ってるんだよ……」
泣き言を垂れ流しながらも、カズヤの手は止まらなかった。
ガザルに殴られた頬の腫れは引いたが、殴られた瞬間の、あの「突き放されたような目」が網膜に焼き付いて離れない。逃げ出そうにも、金もない、通行証もない。何より、あの無関心な村人たちの視線の中に一人で放り出されるのが、死ぬよりも怖かった。
「……あいつら、俺をバカにして……。俺がどれだけ勉強したと思ってんだよ。マニュアル一冊も読めない連中のために、なんで俺が泣きながら石を運んでるんだ……。ああ、クソッ、腰が痛い……っ」
ぶつぶつと言いながら、ヨロヨロと石を運ぶ。その姿は、かつての「自称・賢者」の面影など微塵もない、ただの惨めな小男だった。
村人たちは彼に声をかけない。ガザルも、指示を出す以外は彼を無視し続けている。
その夜。
作業の一段落を祝って、村の外れにある「止まり木」と呼ばれる古い酒場で、護衛団と数人の職人が集まっていた。
カズヤは隅の席で、配られた安酒を煽っていた。空きっ腹にアルコールが回り、思考がどろどろに溶けていく。
「……お兄さん、そんなに一気に飲むと、明日の石運びがもっと地獄になるよ?」
カウンターの向こう側から、少しハスキーで、落ち着いた女性の声がした。
顔を上げると、そこには赤いバンダナを頭に巻き、袖をまくり上げた女性が立っていた。年齢は三十前後だろうか。この土地の女にしては、どこか空気が「都会的」というか、身のこなしに既視感がある。
「……あんた、誰だよ」
「この店の雇われ店主、ナオ。……あんたさ、さっきから独り言で『PDCAがどうの』とか漏れてるよ。この世界じゃ、そんな呪文誰も使わないっての」
カズヤの背筋に冷たいものが走った。酔いが一瞬だけ引き、目の前の女性を凝視する。
「……あんた、転生者、か?」
「七年前にな。日本のIT企業で馬車馬みたいに働かされて、気づいたらこっちの馬車の下だった。……私も最初はあんたみたいに、知識で革命起こしてやるって意気込んでたよ。でもね、結局はこの通り。この世界の『不便さ』に寄り添って酒を出すのが、一番の適職だったって気づくのに三年かかった」
ナオは、自家製の「ハイボールに近い何か」をカズヤの前に置いた。
カズヤはそのグラスを握りしめ、再び顔を歪めた。
「……同じにするな。俺は、理論は完璧だったんだ。この世界の、マナとかいう変なエネルギーのせいで……」
「……まだ言ってるの。なあ、お兄さん」
ナオは、グラスを拭きながら真っ直ぐにカズヤを見据えた。
「あんたが本当に悔しいのは、理論が外れたことじゃないでしょ? 自分が『誰にも必要とされてない』って気づいちゃったことなんじゃないの?」
その言葉が、カズヤの最後の防波堤を壊した。
カズヤはグラスをテーブルに叩きつけ、立ち上がろうとしたが、足がもつれて椅子に座り込んだ。
「……何がわかるんだよ! 俺は、俺は……っ、あんな場所で終わりたくなかったんだよ!」
酒場の喧騒が、カズヤの叫びで一瞬静まる。だが、ガザルたちは振り返らない。それが余計にカズヤを狂わせた。
「俺は、大学を辞めた時からずっと、誰かを見下してないと立ってられなかったんだよ……! アイツらバカだ、俺は本質が見えてる、そう思わないと、自分がただの『何にもなれなかったクズ』だって認めなきゃいけなくなるだろ!?」
酒が混じった涙が、ボロボロと溢れ出す。
「異世界に来れば、リセットできると思った……。今度こそ、俺が世界の中心になれるって。でも、マヨネーズは売ってるし、橋は落ちるし……! ガザルは……アイツは、俺をゴミを見るような目で……っ。俺、謝りたかったんだよ……! ほんとは、あの時……でも、謝ったら、俺の全部が消えちゃう気がして……!」
しゃくりあげながら、カズヤはテーブルに伏して泣いた。
それは理論でも正論でもない、ただの二十数年の人生で積み上げてきた「自分自身への絶望」の吐露だった。
ナオは黙って、カズヤの泥だらけの手の上に、新しいおしぼりを置いた。
「いいんじゃない、一回全部消えちゃえば。あんたが必死に守ってたその『正論』の下に、何が残ってるか見てみなよ。……泥まみれで石運んで、腹が減って、酒を飲んで泣いて……。ほら、ちゃんと生きてるじゃない」
カズヤは答えず、ただ子供のように泣き続けた。
酒場の喧騒が再び戻ってくる。その中に、カズヤの醜い泣き声が溶けていく。
少し離れた席で、ガザルが静かに杯を置いていた。
彼はカズヤの方を見ることなく、隣に座る仲間に言った。
「……明日は、朝四時起きだ。サボる奴は置いていくぞ」
その言葉は、初めてカズヤを「置いていかない」という、ガザルなりの無骨な宣言のようにも聞こえた。
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