第7話:崩落する正義

 王都を出てから十日。ガザルが引き受けた「行商人の護衛兼、地方インフラの保守」の旅は、俺にとって終わりのない拷問だった。

 ガタガタと揺れる馬車の荷台、鼻を突く獣臭、そして何より、言葉の通じない「無知な連中」との共同生活。俺は常に、脳内の【現代知識のライブラリ】を検索し続けていた。この惨めな現状を覆し、俺が本来座るべき「指導者」の椅子を取り戻すための、魔法の杖(ソリューション)を探して。


(……あるはずだ。先人たちがまだ手をつけていない、この世界の盲点が。物理法則は共通しているのに、魔法なんて不確定要素に頼っているから、この世界の連中は非効率な生活を強いられているんだ)


 ノートの切れ端に、トラス構造、応力分散、ヤング率といった数式を書き殴る。前世のネット掲示板で、建築学徒を論破するために齧り付いた知識が、今や俺の唯一の拠り所だった。


「……着いたぞ。ここが『風鳴りの渓谷』だ」


 ガザルの低い声に顔を上げると、そこには切り立った崖の間に激しい気流が吹き荒れ、視認できるほどに濃い魔力が渦巻く異様な光景が広がっていた。村の生命線であるはずの巨大な石橋は、数日前の「マナの嵐」によって中央部が無残に崩落していた。


 村の広場では、村長と老職人たちが頭を抱えていた。

「ダメだ、何度補強の魔石を埋め込んでも、地脈の乱れに弾き飛ばされる。……このままじゃ、冬が来る前に食料の運び込みができん」


 村人たちの顔には絶望が張り付いていた。

 俺は、その瞬間を待っていた。身体の奥から、熱い震えが湧き上がってくる。

(今だ。ここが、俺のステージだ)


 俺は人混みをかき分け、村長たちの前に躍り出た。

「あんたたちのやり方は根本から間違っている。魔法なんていう不安定なエネルギーに頼るから、構造が保たないんだ」


 冷ややかな視線が集中する。ガザルが背後で「カズヤ、やめろ」と声を潜めたが、俺は止まらなかった。

「俺には、魔法を使わずにこの橋を再建する理論がある。この渓谷の風圧と振動を計算し、力が一点に集中しない構造を採用すれば、地脈がどれだけ乱れようが関係ない。物理法則は、あんたたちの神様よりもずっと正確なんだよ」


 俺は【現代知識のライブラリ】から引き出した美しい鉄橋のスケッチを見せつけた。幾何学的な模様に、村人たちは目を奪われる。

「当然だ。あんたたちが数百年かけても到達できなかった『答え』がここにある。俺を信じるか、それともここで飢えて死ぬか。選ぶのはあんたたちだ」


 俺の言葉には確信があった。SNSで論破を繰り返してきた経験から、人間を動かすには「強い言葉」と「専門用語」を浴びせればいいと知っていた。


「……待て。この渓谷のマナは、単なる風じゃねえ」

 ガザルが割って入った。

「マナは物質の性質を変える。お前の『物理』とやらの前提が、ここでは通じねえんだ」


「それはあんたが魔法を制御できていないだけだろ。物質の原子構造までマナが干渉するなんて、エネルギー保存の法則を無視している。ガザル、あんたは黙っててくれ。知能労働の邪魔だ」


 俺はガザルを冷たく一瞥し、村長の方を向いた。

 村長は、泥だらけのガザルと、自信に満ちた「賢者」のような俺を交互に見た。そして、藁をも掴む思いで、俺の手を取った。


 ◇


 工事は強引に進められた。

 俺は、村の職人たちが代々受け継いできた「魔法文字を刻む」という工程をすべて廃止させた。

「そんな無駄な彫刻をしている暇があったら、石材の面を合わせろ。接合部の角度は0.5ミリの狂いも許さない。いいか、これが『文明』だ。感覚ではなく、数値に従え」


 若手の作業員たちは、俺の出す正確な指示に感銘を受けていた。彼らにとって、俺は魔法を使わずに奇跡を起こす異邦の天才に見えたのだろう。その賞賛の眼差しが、俺の乾いた自尊心を潤した。

 ガザルは、作業の輪から外れ、一人で崖の先端に座っていた。彼は時折、谷底から吹き上げてくる紫色の霧――濃密なマナの塊を、険しい表情で見つめていた。


「……もうすぐ来るぞ。カズヤ。今ならまだ、魔石で基礎を固め直せる」

「しつこいな、ガザル。あんたの負けだよ。ほら見ろ、もう半分まで繋がった」


 翌朝、仮橋がついに繋がった。朝日を浴びて、幾何学的な石の骨組みが渓谷に架かる。村人たちからは歓声が上がった。

 俺は、その橋の中央に立ち、谷の向こうを見据えていた。

「どうだ、ガザル。物理の勝利だ」


 その時だった。

 渓谷の底から、空間そのものが軋むような、不快な高音が響いてきた。


「……来たな。総員、伏せろッ!!」


 ガザルの絶叫が響くと同時に、谷底から猛烈な紫色の光が吹き上がった。

 マナの奔流。それは、俺の計算していた「風圧」ではなかった。橋を構成している石材が、光に触れた瞬間――ある場所は発泡スチロールのように脆くなり、ある場所は液体のようにドロリと溶け始めた。


「な……!? なんだ、これは……! 石だぞ!? 石が、なんで……!」


 前提となる「物質の強度」そのものが失われ、橋が無残な悲鳴を上げる。

 ガタガタと震えだす足場。そして、完成を祝って駆け寄ってきた村の子供たちが、数人取り残されていた。


「――逃げろ! 支柱が保たねえ! 崩落するぞ!」


 轟音と共に、俺が「完璧」だと断言した橋が捻じ曲がっていく。

 俺が呆然と立ち尽くす横を、ガザルと獣人の護衛たちが猛然と駆け抜けた。


「野郎ども、魔力障壁を張れ! 物理じゃねえ、マナを抑え込め!」


 ガザルの怒号。彼らは俺が「非効率」だと切り捨てた魔石を使い、命がけで崩れゆく石塊を支えた。咆哮を上げ、血管を浮き上がらせ、泥臭く、非論理的に、子供たちを救い出した。


 ◇


 崩落した橋の残骸を前に、静寂が広がっていた。

 子供たちは親に抱きかかえられ、職人たちは怪我の手当を受けている。

 俺は、震える声で叫んだ。


「……お前らが、指示通りにやらなかったからだ! 途中で魔力を流し込んだだろ!? あれのせいで共振が起きたんだ! 俺の理論を信じきれなかったお前らの無能が、この事故を招いたんだよ!」


 俺の声だけが、渓谷に虚しく響く。


「おい、聞いてるのか!? 俺は間違ってない! この世界の物理法則が、欠陥品なんだ!」


 だが、誰も言い返してこなかった。

 若手の職人も、泣き叫んでいた子供も、彼らはただ、一瞥すらもったいないという風に、俺を置いて片付けを始めた。そこには怒りすらなく、ただ「理解し合えない、得体の知れない何か」を見るような、底冷えする無関心だけがあった。


「……なんだよ。何か言えよ! 文句があるなら言えよ!」


 一人の老職人が、通りすがりにボソリと呟いた。

「……もう、いいんだよ、あんた。もういいから……どっかへ行ってくれ」


 俺はもはや、責める価値すら、馬鹿にする価値すらない「何か」になってしまった。

 前世で、会議室の片隅で、誰からも相手にされなくなったあの日の光景が重なる。

 その場にへたり込みそうになった俺の視界に、泥だらけの大きな足が見えた。ガザルだ。


「……ガザル。あんたも見てただろ。俺の理論は――」


 言いかけた瞬間。

 視界が、火花を散らして回転した。


「が、はっ……!?」


 激痛。

 ガザルの拳が、俺の頬を真横からぶち抜いていた。

 泥の中に叩きつけられた俺の口の中に、鉄の味が広がる。


 ガザルは、怒りに震えているわけではなかった。

 ただ、ひどく悲しそうな、そして決定的に突き放したような目で、見下ろしていた。


「……カズヤ。お前、まだ『正解』の中に逃げるつもりか」


 俺は何も答えられず、泥を噛んだ。

 夕闇が迫る渓谷で、俺はたった一人、自分の正しさという檻の中で、震えることしかできなかった。

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