第6話:透明な盾

 深夜。野営の焚き火が爆ぜる音だけが、静まり返った荒野に響いていた。

 見張り当番のガザルから少し離れた場所で、俺は薄い毛布に包まり、ガタガタと震えていた。


 寒い。この世界の夜は、俺の知っている夜よりもずっと深く、拒絶するように冷たい。

 目を閉じると、暗闇の向こう側に「あの日」の光景が浮かび上がってくる。


 前世。地方の中堅企業での、なんてことのない会議室。

 

「……あの、部長。その工程表だと、後半でリソースが枯渇して納期に間に合わなくなると思います。ここの数値を修正して、外部委託の割合を増やした方が論理的です」


 入社して三ヶ月。俺は「良かれと思って」発言した。

 手元には自作のシミュレーションデータ。俺なりに必死に勉強し、会社のために、そして何より「有能だと思われたくて」用意した正論だった。


 けれど、返ってきたのは沈黙だった。

 

 部長は苦虫を噛み潰したような顔で俺を見、周囲の先輩たちは「あーあ」という目で視線を逸らした。


「佐藤くん。君の言うことは『理屈』としてはそうかもしれないけどね。……現場の人間関係や、協力会社との長年の付き合いっていうのを、君は無視しすぎだ」

「でも、付き合いより利益を優先すべきでは……」

「空気を読みなさい、空気を」


 それ以来、俺は「理屈っぽい、扱いにくい奴」というレッテルを貼られた。

 ランチに誘われることはなくなり、重要な共有事項も俺にだけ回ってこなくなった。

 俺が正しいはずなのに。俺が導き出した答えの方が、絶対に効率的なのに。


 世界の方がバカなんだ。

 そう思わなければ、毎日八時間、誰とも会話せずにデスクに向かう自分に耐えられなかった。

 

 だから俺は、ネットの海に逃げた。

 ハンドルネームの後ろなら、俺の「正論」は誰にも邪魔されず、鋭く、美しく輝けた。

『無能な組織に殺される有能な若者の悲劇』

 そんな投稿に付く「いいね」だけが、俺の透明な盾になった。俺を拒絶する現実から、自分を守るための、唯一の防具だった。


「……う、ん……」


 悪夢から覚めるように目を開けると、焚き火の側に座るガザルの背中が見えた。

 

 俺は、こいつが嫌いだ。

 あの部長と同じ、理屈を「空気」や「現場」で押し潰す側の人間だからだ。

 

 けれど、心のどこかで分かっていた。

 俺がこの世界で「現代知識」を振り回しているのは、それが本当に世界を良くするためじゃない。

 「俺は特別なんだ」「俺はここにいていい人間なんだ」と、自分に言い聞かせるための、新しい盾が欲しいだけなんだ。


「……起きたのか」

 ガザルが、こちらを振り返らずに言った。


「……別に。寒くて目が覚めただけだ」

「そうか。……さっき、うなされてたぞ。『俺は間違ってない』ってな」


 心臓がドクンと跳ねた。

 一番見られたくない場所を、土足で踏み荒らされたような気分だった。


「……事実だ。俺の知識は正しい。この世界が、それを使いこなせていないだけだ」

「正しい知識が、必ず人を救うとは限らねえよ。特にお前さんみたいに、自分を救うために知識を振り回してる奴の場合はな」


「……何がわかるんだよ、あんたに」

 俺は毛布を頭まで被り、ガザルに背を向けた。


 この男は、俺の「盾」を見抜いている。

 だからこそ恐ろしい。この盾を取り上げられたら、俺には何も残らない。

 ただの、コミュニケーションが苦手で、プライドだけが高い、二十代の「何者でもない男」に戻ってしまう。


(……間違ってない。俺は、間違ってない……)


 俺は自分に呪文をかけるように、心の中で何度も繰り返した。

 それは前世で、アパートの自室で、スマホの画面を見つめながら唱え続けていた言葉と、全く同じだった。


 俺はまだ、自分を許すことができない。

 「間違ってもいいんだ」と、誰かに、あるいは自分自身に言ってもらえるその日まで。

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