第4話:逃避行の果て


 ――ふざけるな。どいつもこいつも、狂ってる。


 宿舎の固いベッドの上で、俺は濡れたタオルを顔に乗せたまま、激しい憤りに身を焼いていた。

 昼間の屈辱が、泥の臭いと共に鼻腔にこびりついて離れない。


(あいつら、わざとやりやがったんだ。俺を陥れるために、わざとタイミングを外して……。あれは指導じゃない、ただの『異世界人による転生者いじめ』だ。構造的な差別だ。人権団体に訴えてやる)


 スマホがあれば、今頃SNSで大炎上させているところだ。

『【拡散希望】異世界の労働環境がブラックすぎる件。獣人の上司から殺害未遂を受けました。これ、行政の不作為だろ』

 そんな投稿をして、安全な場所から「そうだそうだ」という無責任な同意を集めたい。けれど、手元にあるのは安っぽい魔導式の石鹸と、ガサガサのタオルだけだ。


「……あんな場所、二度と行くかよ」


 俺は起き上がり、支給されたわずかな路銀と荷物をまとめた。

 この世界には他にも街がある。もっと文明が遅れていて、俺の知識を「神の啓示」として崇めるような、まともな連中が住む場所が。

 王都はもういい。ここは「出来上がりすぎて」いて、俺のような本質を見抜く人間には窮屈すぎる。


 俺は夜陰に乗じて、宿舎の窓からこっそりと抜け出した。



 夜の王都は、魔法の街灯が煌々と輝き、眠らない街の様相を呈していた。

 俺は「転生者更生支援センター」でもらったガイドマップを頼りに、下層区の図書館へと向かった。逃げる前に、せめて換金できそうな「高度な知識」のストックを確認しておきたかった。


 深夜まで開いている公立図書館。そこには、俺の期待を粉々に粉砕する現実が並んでいた。


「……嘘だろ……?」


 科学・技術コーナーの書架。

 そこには、日本語のタイトルが並んでいた。


『内燃機関の基礎:150年前の革命』著:田中 健一(転生者)

『近代経済学と魔法市場への応用』著:佐藤 恵(転生者)

『プラスチック成形と錬金術の融合』著:高橋 達也(転生者)


 手に取った本の中身は、俺が「自分だけの武器」だと思っていた現代知識が、100年以上かけてこの世界の魔法体系と最適に融合され、さらに高度なものへと昇華された記録だった。

 俺の持っている「ライブラリ」の知識は、ここでは歴史の資料館にある骨董品に過ぎなかった。


「……あいつら、やりやがったな……。先に全部、出しやがって……!」


 先人たちへの感謝ではなく、湧き上がったのは「奪われた」という逆恨みだった。

 俺が主役になるはずだった舞台は、もう100年も前に千秋楽を迎えていたのだ。



 街を出よう。

 そう決めた俺は、王都の外縁へと向かう魔導列車の貨物ターミナルへ忍び込んだ。

 サバイバル知識ならある。火の起こし方も、食べられる野草の見分け方もネットで読んだ。文明のない田舎へ行けば、まだ俺の天下は残っているはずだ。


 だが、現実はネット記事のように甘くなかった。


 街の境界線、そこは巨大な「結界」と「検問」によって守られていた。

 

「おい、そこの不審な男。止まれ。通行証を見せろ」


 最新の魔導アーマーを装備した警備兵が、赤外線のような赤い光を俺に当てる。


「あ、いや、俺は……散歩で……」

「転生者だな? IDカードを提示しろ。……無断での市外離脱は、支援打ち切りの対象だぞ。お前、昨日登録されたばかりの『佐藤』か?」


 逃げ場はない。警備兵の冷徹な声に、俺の足が震える。

 

「……っ、うっせぇんだよ! どいつもこいつも俺を型にハメやがって! 俺はあんたらの玩具じゃないんだ!」


 俺はなりふり構わず走り出した。

 暗い路地裏へ、ゴミ溜めの陰へ。

 どこへ行けばいいのかもわからないまま、ただ「今ここにある現実」から逃げるために。



 一時間後。

 俺は、行き止まりの路地裏で、激しく咳き込みながら座り込んでいた。

 喉が焼けるように痛い。足の裏にはマメができ、サンダルは片方脱げている。

 

 街の喧騒は遠く、周囲にはボロボロの毛布を被った、ホームレスのような獣人や人間たちが力なく横たわっている。

 ここは、高度な文明からも、行政の支援からも見捨てられた「吹き溜まり」だった。


「……はは、なんだよこれ。……前の世界と同じじゃねえか」


 エリートになれず、特別な存在にもなれず、結局は社会の隅っこで震えるだけ。

 どこへ行っても、俺を待っているのはこの景色だ。


「おい、新入り。……何してる」


 聞き覚えのある、低く重い声。

 影の中から現れたのは、あのガザルだった。

 彼は大きな袋を背負い、俺を見下ろしている。


「……追ってきたのかよ。俺を連れ戻して、またあのドブの中に……」


「勘違いするな。お前のことなんて、あとの連中はもう忘れてる。……俺は、地方の仕事へ行く準備をしてただけだ」


 ガザルは俺の隣に無造作に座り、袋の中から固いパンを取り出して、一つ投げ寄越した。


「王都は、出来が良すぎる。ここでお前みたいな『中身のない空っぽの賢者』が居座れる場所はねえよ。……明日、この街を出る行商の護衛兼、雑用係の仕事がある」


「……逃がしてくれるのか?」


「『逃げる』んじゃねえ。……『歩く』んだ。お前、自分の足でどこかへ辿り着いたことが一度でもあるか?」


 ガザルの問いに、俺は答えられなかった。

 いつも途中で投げ出し、他人のせいにして、環境のせいにして、安全な場所へ引き返してきた。


「俺は、お前が嫌いだ。……だが、あのドブの中でハシゴを離さなかったその根性だけは、まだ腐りきってねえようだな」


 ガザルは立ち上がり、暗い路地の先を指差した。


「ついてくるなら、来い。……ただし、次からはもう助けねえ。死にたきゃ、その辺の連中みたいに静かに寝てろ」


 俺は、投げられたパンを泥だらけの手で掴んだ。

 固くて、冷たくて、ひどい味がした。

 けれど、それを噛み締めている間だけは、自分がまだ「生きている」ことを実感できた。


 俺はふらふらと立ち上がり、無愛想な獣人の背中を追って、暗闇の中へと歩き出した。

 それが、絶望への道なのか、それとも初めての「前向きな一歩」なのか、今の俺にはまだわからなかった。

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