第3話:泥の中のプライド
鼻を突くのは、腐敗した魔力と生活排水が混ざり合った、形容しがたい悪臭だった。
王都の地下、広大な魔導下水道。壁面にはぼんやりと光る苔がへばりつき、足元には得体の知れない粘液が溜まっている。
「……っ、うぇっ……」
俺は口元を抑え、膝をついた。渡された安物のゴム長靴は、すでに泥まみれだ。
後ろでは、狼の獣人――ガザルとか言ったか――が、巨大なシャベルを軽々と担ぎ、岩のような背中で立っている。
「新入り、手が止まってるぞ。そこを掻き出さないと、魔力回路がショートして街の電灯が消える。さっさとやれ」
低く、地響きのような声。
その高圧的な態度が、俺の中に溜まっていたどす黒い感情に火をつけた。
昨日見た、あの一条とかいう医者の姿が脳裏をよぎる。
あいつは清潔なオフィスで、美人に囲まれてコーヒーを飲んでいるはずだ。なのに、なぜ俺は、こんな毛むくじゃらの獣に指図されながら、ドブさらなんてしている?
「……うるさいな。わかってるよ、そんなこと」
「返事は『はい』だ。それと、腰が浮いてる。もっと深く掘れ」
ガザルの無愛想な指摘に、俺の理性がプツンと切れた。
俺はシャベルを泥の中に叩きつけ、立ち上がった。
「あんた、さっきから偉そうに言ってるけどさ。これ、ただの流体力学の問題だろ? 勾配の計算と流速のバランスを最適化すれば、こんな手作業なんて必要ないんだよ。俺の知識を正しく使えば、あんたみたいな『肉体労働しか能がない連中』は全員お役御免になるんだ」
ガザルの耳が、ピクリと動いた。彼はゆっくりとこちらを振り向く。
その瞳は、怒りよりも、何かひどく不快なものを見るような冷ややかさに満ちていた。
「知識、か。お前さんが持ってるのは、誰かが書いた本の中身だけだろうが。現場の泥を触ったこともないガキが、口だけは達者だな」
「ガキだと? 笑わせるな。あんたたち獣人は、人間より知能指数が低いって前世のデータにもあったよ。本能だけで生きてるから、こういう汚い仕事がお似合いなんだ。俺は本来、あんたに命令されるような立場じゃない。……わかるか? DNAのレベルから、俺とあんたは格が違うんだよ」
口にしてから、一瞬だけ背筋が凍った。
相手は自分より二回りはデカい、鋭い牙を持つ獣人だ。殴り殺されてもおかしくない。
だが、ガザルは鼻で笑っただけだった。
「……そうか。なら、お前さんの言う『高等な知能』とやらで、ここを一人で片付けてみろ」
「え……?」
「おい、野郎ども。休憩だ。この『天才様』が、一人で効率化してくれるそうだぜ」
ガザルが短く口笛を吹くと、周囲で作業していた他の獣人たちが、一斉に作業を止めた。彼らは俺を蔑むような、あるいは「憐れむような」目で一瞥し、ガザルの後に続いて通路の奥へと消えていった。
「あ、おい! 待てよ! まだ仕事は……!」
「頑張れよ、天才。あ、言い忘れたがな」
ガザルは去り際、肩越しに冷たく言い放った。
「そこ、あと数分で『排熱処理』のバルブが開く。その泥をどかしておかないと、熱水でお前の大事な皮が剥げることになるが……まあ、知能の高いお前さんなら、計算済みだよな?」
静寂が、悪臭と共に俺を包み込む。
一人でシャベルを握る。重い。泥の中に混じった魔力の残滓が、鉛のように身体を重くさせる。
(……くそっ、あんな奴らの手伝いなんていらない。俺一人でやってやる)
だが、現実は残酷だった。
どれだけ必死に掻き出しても、奥から次々と泥が流れ込んでくる。計算? 勾配? そんなものは、この粘り気のある汚物の前では何の役にも立たない。
十分後。
ゴゴゴ、という不気味な地鳴りが壁の向こうから聞こえてきた。
「ひっ……!」
熱い。空気が一気に熱を帯びる。
配管の継ぎ目から、シュシュッと高温の蒸気が漏れ始めた。
焦って逃げようとした足元が滑る。俺は無様に、腐った泥の中に顔から突っ込んだ。
鼻に、口に、汚水が入り込む。
「助け……誰か! ガザルさん! すみません、悪かったです! 助けてくれ!」
プライドも何もなく、俺は叫んだ。
だが、返ってくるのは蒸気が噴き出す音だけだ。
さっきまでバカにしていた「現場の連中」は、もういない。
SNSで「いいね」をくれた連中も、ここでは助けてくれない。
俺は、自分が吐き出した差別的な言葉のツケを、泥まみれの身体で払わされていた。
熱い水しぶきが足首に当たり、悲鳴を上げる。
死ぬ。本当に死ぬ。
せっかく転生したのに、ドブの中で茹でられて終わるのか。
その時だった。
「……情けねえツラだな、おい」
上から、呆れたような声が降ってきた。
見上げると、通路の天井近くにある点検用ハッチから、ガザルがタバコのような薬草を燻らせながら俺を見下ろしていた。
彼は助けようとはせず、ただ、じっと俺が泥の中でもがく様を「観察」していた。
「あ、助けて……熱いんだ、これ!」
「だろうな。だが、お前がさっき『格下』だと切り捨てた連中は、毎日その熱さと臭いの中で、お前が王都で食うパンを運ぶ列車の回路を守ってるんだ。……お前、自分の知識がどれだけ価値があるか知らないが、ここでは『逃げない奴』が一番偉いんだよ」
ガザルはゆっくりとハッチを閉めようとする。
「待って! お願いだ、見捨てないでくれ!」
「……三秒でハシゴを下ろす。それに掴まれなかったら、今度こそ終わりだ。……三、二……」
俺は必死で泥をかき分け、差し出された錆びたハシゴに文字通り、縋り付いた。
地上に戻った俺を待っていたのは、温かい言葉でも、劇的な和解でもなかった。
作業員たちの休憩所。
そこでは獣人たちが、大きなパンを分け合いながら談笑していた。
俺が這い上がってきても、誰も声をかけない。会話が止まることもない。
それは、怒りよりも残酷な「無視」だった。
俺という存在が、彼らのコミュニティにとって「透明人間」になった瞬間だった。
「……服、洗ってこい。汚ねえぞ」
ガザルだけが、一言そう言って背を向けた。
俺は泥と熱水でボロボロになった身体を引きずりながら、水道へと向かった。
冷たい水で顔を洗う。鏡に映った自分は、知的な賢者でも、特別な主人公でもない。
ただの、性格の悪い、惨めな、泥まみれの男だった。
俺の心の中にあった、薄っぺらな「現代知識」という盾は、もうどこにもなかった。
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