第5話
強い光に目を閉じた朱華は、その光が徐々に穏やかなものになっていくのを感じた。
少しずつ目を開けてみる。
薄い霧のようなものがあたりを包み、少し先もぼんやりとしか輪郭を見せない。
前を歩いている蘇芳の背も陽炎のようにゆがむが、そこに、突然朱色の何かが現れた。
――橋だ。
霧の中でもなお、その朱色だけが濃く滲んでいる。
上に見える
まるで、
狼は迷いなく、一定の速度で進んでいく。
時折、背につかまる自分を気遣うような仕草を見せる風だが、おそらく気のせいだろう。
最初は落とされないか緊張してつかまっていたが、その背は驚くほどの安定感を保っていた。手を離していても、落下することはないだろう。
初対面の自分をこうして運んでくれるだけでも、ありがたいことこのうえない。
(――ただ……)
自分はこれから、どこに行くのか?
人間の世界ではない別の世界?そんなのは昔話とか、おとぎ話の世界でしか知らない。
蘇芳という人は、自分を助けてくれた。悪い人でないことは確かだ。でもどこか浮世離れしていて、少し、怖い。
(――ついてきて良かったの?)
朱華の頭の中はせわしなく動いていた。ついていく以外に選択肢はなかったはずだ。疲労と緊張が入り混じった頭の中は、でもどこか研ぎ澄まされていて、それなのに答えは何も出てこない。
混乱した頭をぶんぶんと振った朱華は、突然、右手の前方からざーっという水の音を聞いた。
目を凝らすと、滝が見える。
遠くに連なる険しい崖の合間から、白い筋が勢いよく流れ出ていた。
空気の匂いも変わった。少し冷たく重い空気だが、吸い込むと何だか頭がすっきりしてくる。朱華がいつも吸っている空気より、澄んでいるような気もする。
橋を渡り終えると、朱華は“別の世界”に入ったと直感した。と同時に、前を歩いていた蘇芳がピタリと足を止めた。
「あとは、
蘇芳が振り返ってひと言告げると、突然風が吹き、木々の葉がざわりと波立った。
風が過ぎ、朱華が再び前を見ると、もうそこに、その人の姿はなかった。
***
「お帰りなさいませ」
一斉に頭を垂れる者たちの間を抜け、蘇芳は板敷きの長い廊下を進んでいった。
茜に染まる空の下、庭の紅葉がかすかな風に葉を鳴らしていた。
足元にも、ひらひらと葉が舞い落ちては、すぐに風にさらわれていく。
生者の世界でいくら季節が移ろおうとも、ここ
動かない季節こそが、この場所が、“生”から外れている証――。
蘇芳が羽織りを脱ぐと、細く引き締まった背のラインがあらわになる。
そのまま帯に手をかけ、慣れた所作で剣を外すと、静かに脇に置いた。
「蘇芳!」
その瞬間を待っていたのかのように、幼さを残す高い声が響いた。
「……また来ていたのか?」
蘇芳は視線だけを向け、少しうんざりした声を出した。
同じ八翳の一人・
「“また”とは何じゃ!これだけ部屋があるというのに、けちけちするでないわ」
フン、と口をとがらせて、そっぽを向く。その拍子に、銀糸の髪がふわりと宙に弧を描いた。
“体は幼女、心は熟女”――それは青藍の言葉だが、器に似つかわしくない老成した精神を宿す八翳である。
「生者が境界を越えた。ぬしが、連れて来たのであろう?」
紫の瞳には、責める色と興の色が混じる。
「ぬしらしくもない。なぜじゃ?」
白練は腕を組み、尊大な態度のままたたみかけた。
「冥婚に巻き込まれた」
「冥婚?」
白練が片眉をつり上げる。
「生きたまま絵馬に描かれたということか?あれは
「危うく、
「だから連れてきたと?」
「ああ」
白練は
「男?それとも女か?」
「女だ」
「娘か?それとも婆?」
「……娘だ」
「ふぅん」
白練は細めた瞳に笑みを宿し、すっと蘇芳の前まで歩み寄った。
「珍しいのぅ……ぬしが女を連れてくるなど。800年も経てば、さすがの氷も溶けるということか?」
「……下らんことを言うな」
蘇芳はわずかに眉をひそめ、視線を逸らす。
「それとも――その娘、何か“
白練の声音が一転、鋭く低くなった。
蘇芳が視線を白練にゆっくりと戻す。
「……気づいたか?」
「当然じゃ。ぬしの
「……まだわからん」
「そうかのぅ……ぬしの目は、すでに答えを知っているように見えるが?」
白練はふわりと笑う。
「まぁ、よい。ぬしが連れてきたのなら、いずれ何かわかろうというものじゃ」
白練はそう言い残し、廊下の奥へと歩み去る。
銀糸の髪が風を含み、白い背に、夕日の光が淡く染み入っていた。
八翳綺譚(やつかげきたん) ゴン・ステラー @gon-stera
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