第4話
――胸の奥で何かが裂けるような感覚に、朱華は息を詰めた。
夢を見ている。そう思った。
寒い、とてつもなく寒い。
冷えてきたとはいえ、今はまだ秋のはず。
(どうしてこんなに寒いの?)
(ここはどこなの?)
漆黒の闇が続いている。吐いた白い息が、すぐ目の前でほどけていく。
冷たさが、肌を通り越して、心の臓までしめつけてくるようだ。
耳の奥で、かすかな鈴の音がする。一定の間隔で、遠くから近づいてくる。
――シャン……シャン……。
音が重なるごとに、白いものが舞い落ちる。
雪だ。
あたりはいつのまにか一面の銀世界で、粉雪が舞っている。
白くぼやける視界の向こうから、人影の列が滲むように現れる。
――シャン……シャン……。
何かの行列のようだ。
しばらくその姿に目をこらしていた朱華は、ひゅっと息をのんだ。
どう見ても異様な行列だ。
白い世界の中に、人々の黒装束がくっきりと浮かび上がってくる。しかも皆、黒い
行列が前進するたびに、手に持っている提灯の青白い灯がゆらゆらと雪に混じる。
重く淀んだ空気まで、一緒に運ばれてくるようだった。
(……逃げた方がいい。……いや、逃げるべきだ)
朱華の中で声がこだまする。でもその場に根を生やしたように、朱華の足は動かなかった。
そらしたいのに目をそらせない。
(何なの?いったいこれは何なの!?)
鈴の音は、だんだん大きくなってくる。
やがて行列の先頭が目前にせまり、朱華は恐怖でぎゅっと目を閉じた。
その瞬間、体がふっと軽くなったような気がした。
恐る恐る目を開けた朱華の目に飛び込んできたのは、清らかな白――。
純白の着物が、自分の体を包んでいた。
目元にも、真っ白な布から薄い影が落ちている。袖口からのぞく自分の手も、透きとおるように白い。
(え……これは、なに……?)
呆然として顔をあげた瞬間、朱華は声を失った。
黒装束の人影が取り巻いている。ゆらゆらと揺れる灯の列は、自分を中心に延々と続いていた。そして、自分も歩いている。
いつのまにか自分も行列の一員となって、息を殺すように歩を進めているのだ。
(いや……なに、これ、どういうこと!?)
朱華は必死になって周りをぐるりと見渡す。周りの人影は、着物だけでなく、頭と顔も黒い
「いや……嘘でしょう!?ねぇこれ、どういうこと!?」
朱華は初めて声をあげた。
自分の隣にいる人影に尋ねるが、返事はない。
ただうつむき加減に静かに歩を進めていたその人影が、ふっと顔を上げた。
男性のようだ。
そして、覆面からのぞいた右の目元には、ほくろがひとつ……。
「……え?……弥一、さん……?」
朱華の声は雪に吸い込まれそうだった。
弥一と同じ場所に、泣きぼくろがある。驚きのあまり、その後に言葉が続かない。
弥一さんは、亡くなったはず。しかも明るい弥一さんが、こんな目で自分を見て、何を話さないなんて……。
(――ありえない)
混乱した頭がすっと結論を出したとたん、言いようのない恐怖が朱華を飲み込んだ。
「弥一さん……いえ、あなたは、弥一さんじゃない!」
朱華はその人影を半ば突き飛ばすようにして身をよじると、そのまま列から逃れようと
足が雪にのまれ、沈み込む。
薄い粉雪だったのに、いつしか大きなぼたん雪となり、朱華の足もとを襲う。
そうでなくても
「あっ!」
朱華は足をとられ、その場に倒れた。
――痛い!
右の足首に激痛が走った。
ひねったのか、雪を受けた衣は重さを増し、まるで誰かが覆い被さっているようだ。強まった雪は容赦なく降り積もり、たやすく起き上がることもできない。
行列はしばらく動かず、白い世界に黒く淀んでいたが、やがて、一人がゆらりと列を抜け出した。
朱華の方に向かってくる。
――弥一だ。
「……来ないで!お願い……!」
朱華は必死に叫ぶが、弥一は一定の歩幅で、じりじりと朱華に迫ってくる。
「いやっ!やめてよ!弥一さん!」
弥一は、重く湿った雪をものともせず近づいてくる。
覆面に覆われた顔からは何も読み取ることはできない。ただその空虚な目だけが異様に目立つ。
こんな吹雪にもまったく動じない歩き方が、かえって不自然で恐ろしい。
その手が、まさに朱華をつかもうと伸ばされたとき――。
「そこまでだ」
低い声が、
驚いて顔を上げた朱華の目に飛び込んできたのは、色濃い赤――。
誰かが、自分を背にかばうように、弥一との間に割り込んでいた。
その背を見つめ続けることしかできないでいると、突然、大きな獣の声が響いた。
胸の奥に届くような、どこか侵しがたい張りつめた声――。
獣の
はっとして、朱華は息を詰めた。
(逃げなければ――!)
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
よろよろと立ち上がり、目前の背から逃れるように横に這い出した。
顔に吹きつける雪を手で遮りながら、前を見た。
そこには、頭を抱えて苦しんでいる、弥一の姿。
地の底から響くような、低く大きな叫び声をあげている。
勢いを増した雪の向こうでも、黒い行列の人影が両耳を押さえて叫び、ゆらめきながら列を乱している。
朱華の目はそのまま、隣に立つ人物へと移った。
(――なんて、綺麗な人……)
足の痛さも、置かれた状況も一瞬忘れて、朱華は呆けたように見入ってしまった。
長身の男だった。
伏せた長い
男も弥一から視線を転じ、朱華の方に滑らせる。
男の瞳に一瞬、
「あるべきところに
男は小さく言葉を発すると、片方の袖を
大きな叫び声は徐々にくぐもった声に変わり、とうに落ちていた黒い覆面の下から、
その険しさも、徐々に和らいでくる。
まもなく、生前の弥一の顔に近づいてきた。
「弥一さん……!」
朱華の呼びかけに、弥一は一瞬目線を合わせたようだった。けれど、それは朱華の一方的な想いが、そう見せただけかもしれない。
細い煙は光を伴ってだんだんと集まると、太い一本の光となり、弥一の体が消えていく。
怖くて、哀しくて、ぎゅっと胸を掴まれたようで、朱華はただ、それを見ていることしかできなかった。
弥一の体を包んだ光が完全に消えると、薄い粉雪だけが静かに舞い落ちていた。
黒装束の行列も、いつしか姿を消していた。
しん、とした静寂が満ちてくる。
朱華は思いを振り切るかのように、涙をわざと乱暴に
「あの……助けていただいて、ありがとうございました」
相手は朱華を
「あの……私……」
朱華が言葉を継ごうとしたとき、突然背後から鈍い衝撃を受けた。
「え?……きゃっ!」
驚いて振り返った朱華は、さらに反射的に身をのけぞらせた。
(――犬?)
(いや、犬じゃない。こんな大きいの、もしかして……狼?)
一難去ってまた一難、朱華は恐怖に顔をこわばらせた。
とてつもなく大きい白銀の狼が、キラキラとした黄色い瞳で朱華を見つめていた。
(怖いっ……これは、食べられる……!?)
朱華は目を閉じて、それが訪れるであろう瞬間に身構えた。
ただしばらく待っても、その瞬間はやってこない。
意を決して、朱華はゆっくり目を開いた。
そこには、先ほどと同じ位置で、自分を見つめている二つの黄色い瞳があった、
よく見ると、その瞳は鋭いだけでなく、どこか温かさを宿しているようにも思えてくる。
――宝石のような、透明度の高い黄色。
「
朱華が漏らした一言に、男はピクリと肩を揺らしたようだった。白銀の狼は、ますます体をすり寄せてくる。
「えっ?ちょっと……痛!」
狼の圧にバランスを崩した朱華は、痛めた足に重心をかけすぎて顔をしかめた。とりあえず恐怖を脱したことで、
「怪我をしたのか?」
朱華に向けて、男が初めて口を開いた。決して威圧的ではないが、静かな中に、自然と人を従わせるような威厳を含んだ声だ。
「足をちょっと……でも、大丈夫です」
全然大丈夫ではないのだが、なぜか朱華は取り
「ところで……あの、ここは、どこですか?」
言葉が不自然にぶつ切りになってしまった。
普通の場所でないことはわかる。季節がこんなに急に進むはずもないし、なにより自分は白無垢姿だ。尋常じゃない。
「……
淡々とした言葉の意味を理解しようとするが、朱華の頭の中では、言葉が意味としておりてこない。
「はざま……」
意味がわからない。それって、どこのこと?別の世界って?
処理しきれない情報が、脳内をぐるぐると回る。
「あの……それで……あなたは誰ですか?……あっ、私は朱華、唐橋朱華と言います」
何だか無様な自己紹介になってしまったが、朱華は頭を下げた。
男はいま一度朱華を正面から見据えると、ひとことつぶやいた。
「……蘇芳だ」
「……蘇芳、さん」
確認するように、朱華はその名を繰り返した。
蘇芳……蘇芳色。
少し青みを帯びた赤色。どこか寂しげで、でも目を離せない、不思議な色。
そうだ、この人の着ている羽織も、さっきは単に赤色だと思ったけれど、よく見れば蘇芳色……。
「あの……ところで、どうしたら家に帰れますか?」
朱華は思い出したように、一番大切なことを尋ねた。
ここがどこかは、今は考えても仕方がない。とにかく、早く家に帰りたい。
「ここから直接、
朱華の期待を映した瞳を見ても、蘇芳の声には揺らぎがなかった。
(――帰れない!?)
朱華はその場で固まってしまった。
(――帰れない!?こんなところで?白無垢を着たまま?)
白い顔は一層白くなっていただろう。一気に力が抜けてよろめきそうになった朱華を、暖かな毛並みが支えた。
「あ、ありがとう……」
白銀の狼は、そのままぐいぐいと頭を押しつけてくる。
「えっ?ちょっ……なに?」
朱華は訳もわからずうろたえたが、琥珀色の瞳は何かを訴えているようだ。
「乗れと言っている」
蘇芳の言葉に、朱華は目を見開いた。そしてそのまま、じっと狼を見つめた。
「乗せて、くれるの……?」
立派な耳が、ぴくんと動く。
「え……?本当に?乗って、いいの……?」
信じられない思いで確認すると、狼はすっと背を低めた。
「あ……ありがとう。……の、乗ります……」
朱華は慎重に、すべらないように、狼の背に少しずつ体を
足の痛みは増していて、額にはじっとりと脂汗が浮かんでいた。
足元で固まっている雪の冷たさも、指先からじんじんと伝わってきて、正直、立っているのもつらかった。
(――でも……)
恐る恐る蘇芳の方を見ると、ほんの一瞬、赤い炎のようなものがその瞳をかすめたように見えた。なぜかわからないが、朱華の体がほんのり暖かくなる。
「ついてくるといい」
蘇芳はさっと背を向けて歩き出す。
狼が、ゆっくりとその後に続いた。
朱華は、大きな揺れを覚悟して、ふわふわの毛並みにしがみつく。
けれど、驚くほど、揺れない――。
その背で体を強ばらせながら、朱華はほどなく、まばゆい光に包まれた。
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