第3話
外から見れば、どこにでもある古びたお堂にすぎない。けれど、一度でも中に足を踏み入れた者は、その光景を忘れることはないという。
――色とりどりの絵馬。
描かれているのは、晴れ着姿の新郎新婦。
新郎の顔立ちはそれぞれ異なり、どれも誰かを想って描かれたように、しっかりと凜々しく描かれている。
だが花嫁の顔は、どれもはっきりとしない。
ただ衣だけは華やかで、
そして最近、また1つ、新たな絵馬が奉納された。
描かれているのは若い男と、その
花嫁の顔は、やはりよく見えない。角隠しの奥に、ほの白い影が沈んでいた。
山裾に
ときおり強い風が吹き、落ち葉が吹き上げられる音が、耳をかすめる。
その闇の中を、ふたつの影がそっと動いた。落ち葉を踏む音さえたてないように、息を殺して観音堂の扉へと近づいていく。
手にしている
「本当に、こっちであってるの?」
少し責めるような口調が、風の音に紛れる。
紗枝だった。
「あってますよ。もう少しです、お嬢さん」
錦屋の
しばらくして足を止めた茂吉は、持ってきた細い金具を鍵穴に差し込むと、鍵はすぐに外れた。
すると紗枝は、自ら扉の隙間に手を伸ばした。ぎぃ、と戸が
紗枝は茂吉の手から提灯を取り上げると、そのまま足を踏み入れた。
「なに、ここ……」
提灯にかぶせていた布をめくりあげた紗枝は、目前に広がった異様な光景に、小さくうめくような声をあげた。
壁にかけられたたくさんの絵馬、すべてに新郎新婦が描かれている。二人だけのものもあれば、
けれど、どの絵も、花嫁の顔だけがはっきりしない。白無垢の襟元の向こうに、薄闇が溶け込んでいるように見えた。
相手は絵馬だが、一度に多くの人の前に立たされたような決まり悪さで、紗枝はごくりと唾を飲み込んだ。
「どこ……どこにあるの?」
提灯をかざして絵馬を一枚ずつ確認していく。後ろでまごついていた茂吉が、おずおずと声をかけた。
「旦那さまがお描きになったものなら、あれかと……」
茂吉が指さした方に提灯を近づけると、目立って新しい絵馬がある。
「見つけた」
紗枝は薄い笑みを浮かべて、茂吉に視線を送った。
「お嬢さん……こんなこと、本当に……」
「いいから、早く」
茂吉はためらいながら近づくと、震える手で、しかしいたって丁寧に、絵馬を取り下ろした。
慎重に、ほとんどおびえたように、紗枝の前に置く。
紗枝は身を乗り出すと、絵馬を真上から覗き込んだ。
「……
紗枝はうっとりと、しかし食い入るように、その絵馬を見つめた。
「お父さま、なかなか上手いのね」
茂吉の顔を見上げるが、灯りが届かない暗がりの中で、その表情はよくわからない。
ただいつになく緊張した様子で、「へぇ」とうわずった声を出してくる。
格好良くて、優しい弥一さん、大好きだった。
――でも、許せないわ。
去年のちょうどこの頃だった。紗枝は弥一に告白したのだ。ずっと好きだったと。
けれど、その想いは届かなかった。弥一の口から、朱華を好きだと告げられた。女学校を卒業したら、お嫁さんにきてほしいと言うつもりだと。
「なによ……朱華なんて、ちょっと綺麗だからって調子にのって……」
弥一の横に描かれた白い花嫁が、いつしか朱華に見えてくる。
陽を浴びると茶色に映る艶やかな黒髪と、すらっとした体。
道行く男が目で追うような、整った顔立ち。
いつも礼儀正しくて、控え目で、紗枝の両親さえ朱華をほめていた。
「なによ……あんたなんか、人殺しのくせに!」
知らず大きくなった声に、茂吉は驚いたようだった。
膝をつき、紗枝から絵馬を取り返そうと手を伸ばす。
「お嬢さん、もうそのくらいで……」
「なによ……これからよ」
紗枝は茂吉の手をパシッと振り払うと、袖の中から細身の万年筆を取りだした。
黒い胴に金の縁取りが施されたそれは、父から贈られたものだった。金の飾りが、提灯の灯を反射してきらりと光った。
「ここに、名前を……」
紗枝は前屈みになると、絵馬の白い花嫁にペン先を近づける。
「お、お嬢さん!?」
茂吉が、悲鳴にも似た声をあげた。
「何をなさるおつもりなんです!?既に奉納された絵馬ですよ!?あっ!」
茂吉が阻む間もなく、絵馬の
「そんなに好きなら、あの世で一緒になればいいのよ!」
紗枝の指先は、ためらいもなく進んでいく。
ペン先には異様な力がこもっているのか、染みこんだ黒色が、いびつに滲んでいく。
――
「ひいっ!」
茂吉は尻餅をついて、そのまま紗枝から後ずさった。
「お、お嬢さん!絵馬に生きた人間を描いちゃいけないんです!名前を書くなんてとんでもねぇ!そんなことしたら……あの世に……あの世に一緒に引っ張られちまう!」
「知ってるわよ!そんなこと」
紗枝の眼は、白い花嫁をとらえたまま動かない。
そう、知っている。
父が絵馬を描いている時、使用人と話しているのを確かに聞いたのだから。
「知ってるって!?だってそれ、あの山城屋のお嬢さまじゃないですか!」
「だから知ってるって!」
紗枝がうるさげに語気を荒げると、堂内の空気の流れが、ぴたりと止まった。
次の瞬間、ふっと提灯の灯が消えた。
「ひいっ!」
茂吉がまたもや悲鳴をあげる。
漆黒の闇の中、何かが息づくような気配……。
紗枝も驚き立ち上がろうとした瞬間、ふっと灯りが戻った。
「何だったのよ……」
伝ってきた汗に夜気が染みこみ、着物に重さが増したような気さえする。
さすがに、紗枝の心臓も激しく波打っていた。
でも、これで……。
紗枝はもう一度、黒いインクが染みこんだ絵馬を見下ろした。
白い花嫁は黒く滲んで、それはまるで、朱華を汚しているようにも見えた。
「……私を選ばなかった弥一さん、朱華を連れていってね」
目を細めて、ふふ、と紗枝は嬉しそうな声を漏らした。
***
静けさの中、夜が満ちていく。
生者の世ではまたひとつ、生命の灯が消えた。
その波紋が
蘇芳は柱にもたれかかり、その灯を見るともなしに見ていた。
闇色に沈んだ紅葉が、微風を受けて
そこに、異質な気配が重なる。
「蘇芳、ここにいましたか」
落ち着いた、ただ少し冷たさも含んだ声に、蘇芳は視線を向けた。
「……
「ええ、探しましたよ」
「また今日も、多くの
蘇芳の横に立つと、青藍はわずかに息を吐いた。
「でも、気にしているのは他のことでは……?」
その言葉に、蘇芳は青藍を
「……封印に、
蘇芳の
「なぜでしょうね……?」
「さぁな」
蘇芳の言葉は、池上を照らすさやかな月の光に溶け込んでいくようだった。
灯がひとつ、また静かに消えた。
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