第2話
弥一の通夜の翌日、葬儀には、朱華は出席できなかった。
昨日の騒動を気にした母が、朱華が行くことを阻んだのだ。
朝食もほとんど喉を通らず、砂を噛むようだった。意味もなく、苦い味が口の中に広がってきた。
「
葬儀に出る両親を見送り、奥に戻ったところで、不安そうな声……。
「進ちゃん」
浴衣姿の弟・
「寝てなきゃだめじゃない」
朱華は小走りに近づくと、膝をついて目線をあわせた。
「だって、姉やがいないと苦しくなるんだ」
「ふふ、なにそれ。そんなことないと思うけど?」
朱華の首に抱きついてきた弟の背中を、朱華はぽんぽんとたたいた。
10歳下の進之助は、山城屋にとって待望の跡継ぎである。
朱華が生まれた後、長い間子宝に恵まれなかった両親はあちらこちらへ祈願に行き、ようやく授かった男の子だ。
それだけに両親は眼に入れても痛くないほどの可愛がりようで、朱華はその輪に入れないでいる。
寂しさを感じないと言えば嘘になるが、進之助が自分を必要としてくれていることが、何より嬉しい。
「昨日も発作を起こしたじゃない。ちゃんと休んでいないと」
「じゃあ姉や、そばにいてくれる?」
「いいよ、何かお話してあげる」
「やった!」
弟の笑顔につられて、胸の中にじんわりとした温かさが染みてくる。そう、これでいい。進之助が元気でいてさえくれれば。
だがその様子を、じっと睨むように見ている視線も感じる。
母の忠実な使用人である彼女は、自分と進之助が親しくすることを、何かと邪魔してくるのだ。
「ぼっちゃん、またお熱があがります。私がお世話しますから」
その声に、朱華の袖をつかむ進之助の指にグッと力がこもる。
「ヨネさん、進ちゃんは私が見ているから……」
「私は奥様から命じられているのです。お嬢さんは余計なことをしないでください!」
言葉こそ丁寧なものの、もとより聞く耳などもってはいない。
ヨネの刃のような
「姉や!」
その声に、伸ばしかけた手が宙で止まる。
――情けない。
胸の奥で小さくつぶやいた。
「ぼっちゃん、お部屋に戻りましょう。ヨネがうんと面白いお話を聞かせてあげます」
「いやだよ!姉やがいい」
「ぼっちゃん!」
ヨネのぴしゃりとした声が大きく響くと、進之助は
「ぼっちゃんは大切なこの家の跡取りなんです!万が一にも、また誰かさんに影が……なんて言われたらどうします!?」
影――またその言葉だ。
まるで、自分が何か
「昨夜もまた何かしでかしたみたいで……本当にどれだけ奥様に恥をかかせれば気が済むのか……」
ヨネの言葉に、遠巻きになりゆきを見ていた女中たちから、クスクスと小さい笑い声が起きる。
「家のことを思うなら、お嬢さんはおとなしくしていてください」
進之助の体を半ば抱え込むようにして、ヨネはそのまま階段の方に歩いて行く。
振り返った進之助の眼はうるんでいたようだったが、ぼやけた自分の視界に重なって、朱華はそのまま見ていることしか出来なかった。
指の先まで、冷たくなっていく。
自分の居場所がまた少し、消えていくようだった。
夜半、胸の奥がざわついて朱華は目を覚ました。
水を飲みに台所に行こうと廊下に出ると、板がミシッときしみ、冷えた木の匂いが鼻をかすめた。
暗がりの中、明り取り窓からさしこむ月明りだけを頼りに、階段をそろそろと降りた。
半分ほど降りたところで、階下がまだ明るいことに気がつき、反射的に足を止めた。
居間のほうから小さな
くぐもったような声も聞こえてくる。
父と母だ。
葬儀から戻ったまま、まだ話をしているらしい。
「……島田の若旦那、気の毒だったな……」
「まだ若いのに……お嫁さんももらわず
ため息交じりの母の声に、カチャッと陶器のぶつかる音が重なった。この時間に起きていることも珍しいのに、今夜はお酒も飲んでいるようだ。
「それがお前、
「……あれですか」
ふーっと父が長い息を吐き、母の声は一層低く小さくなった。
朱華もなぜか緊張し、気配を悟られぬように一層息をひそめた。
「そう、あれだよ。若旦那と架空の嫁さん一緒に描いて、あの世で結婚して幸せになってくれってやつ」
「今日、
「島田さんが早ければ早いほどいいって、通夜の席でもう話が出たんだ。でもあれだろ?専門の絵師なんてすぐにつかまりゃしないし、そしたら
「錦屋?あの呉服の錦屋のご主人?」
「ああ、なんでも若いとき
父は段々ろれつが回らなくなってきたようだ。でも朱華ははっとした。通夜の席で、弔問客が話していた弥一さんのお嫁さん。きっとあのことだ。
「初七日あけないうちに奉納したいって言ってたから、近いうちに描くんだろうなぁ……」
やがて父の言葉は途切れて、小さく寝息が続いた。
朱華は息をひそめて、足音をたてないように、そのまま慎重に階段をあがった。忍び足で、もと来た廊下を戻る。
口の中は一層カラカラだったが、台所に行く気にはなれなかった。ひんやりとした床の感触が、いつも以上に足裏にこたえて、自然につま先立ちになってしまう。
――その時。
視線を感じて、朱華は後ろを振り返った。
――誰もいない。
奥に続く廊下に灯りはなく、吸い込まれそうな闇が続いているだけだ。なのに、うなじのあたりが熱い。誰かに見られている――確かにそんな気がした。
朱華はぞわりとした感触に背中を丸めながら、自分の部屋に急いで戻った。
布団を頭までかぶって瞳を閉じるが、眠ろうとすればするほど頭は
(――何だろう?なにか、変……)
言いようのない不安が胸に広がってくる。その不安を打ち消したくて、朱華は体を縮こまらせて、必死に眼を閉じた。
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