第1話

「え……弥一やいちさんが、死んだ……?」


 入相いりあいの鐘の音が、空に響いた直後のことだった。

 ちょうど女学校から戻り、戸口にいた朱華はねずは、駆け込んできた使用人とぶつかりそうになった。

 そこで、驚くべきことを聞いたのだ。


「に、荷台に積んだ品を点検していたら、突然馬があばれたそうで……その馬の、下敷きになったそうです」


 台所で夕餉ゆうげ支度したくをしていた女中たちが集まってきた。

 2階にいた母も下に降りてきて、わけがわからず呆然ぼうぜんとしている。

 店にいた父も、既に知らせを受けたのか、沈鬱ちんうつな面持ちで奥まで戻ってきた。


「なんて急な話だい……あの若さで、まだこれからだっていうのに……」

 

 父の声も、少し震えているようだった。 

 朱華は立ち尽くしたまま、手に持っていた風呂敷ふろしき包みを下に落としてしまった。


 (嘘……弥一さん、嘘でしょう……?)


 冷たい床の鈍色にびいろが、だんだんとぼやけて見えなくなってくる。

 3つ年上の、幼なじみ。

 幼い頃からずっと、頼れる兄のような存在だった。

 老舗しにせ酒造しゅぞうの、一人息子。

 最近ようやく責任ある仕事を任せてもらえたと、この前も笑って言っていたのに……。

 

 いつも、“朱華ちゃん”と優しく呼んでくれた声が、胸の奥でよみがえってきて、朱華はぎゅっと目を閉じた。

 最後にあったのは、3日前。

 

(その時は、何も、えなかった――)


 悲しみの中に言いようのない不安が混じり、朱華は思わず手で口を押さえたまま、その場にうずくまってしまった。


 冷たい風とともに、篠館しのだての街は紅葉の季節を迎えていた。

 冬になると、豪雪地帯として行き来もままならない北国ではあるが、篠館は昔から、城を中心として整然とした町割まちわりがなされていた。

 

 黒塀くろべいに囲まれた武家屋敷のそばには、賑やかな商人街の暖簾のれんが連なる。朱華の生家“山城屋やましろや”もその一つ――旧都ゆかりのみやびを伝える、呉服の老舗であった。


 なかでも藩の御用商人として代々続いてきた山城屋では、めったに手に入らないような色とりどりの上質な反物たんものが店先に並ぶので、目当てに訪れる常連客も多かった。

 

 商人街での店同士の付き合いは密接で、年中行事や冠婚葬祭、あらゆるところで協力しあってきた。今日もまたそのしきたりのまま、弥一の通夜つやが、営まれようとしていた。


 弥一の家・島田しまだ酒造しゅぞうもまた、藩の御用商人として名のある大店おおだなだった。いつもなら大勢の使用人と客でにぎわう店先も、今日は陰鬱いんうつな気がただよっている。


「このたびは……ご愁傷しゅうしょうさまでございます」

 

 町中の人が集まったのではないかと思うほど、大勢が詰めかけていた。弥一の両親は、一人ひとりに丁寧に頭を下げている。朱華も両親とともに進んだが、なかなか顔を上げられなかった。


「朱華ちゃん」


 突然、弥一の母に声をかけられ、朱華はびくっとして視線を上げた。


「来てくれてありがとうね……弥一は、ずっとあんたのことを、“かわいい、かわいい”って言っておったんよ」


「……そんな……私……本当に、弥一さんにお世話になって……」


 自分でも何を言っているのか分からないまま、視線が泳ぐ。れた涙のしょっぱさに口元を引き締めても、震える肩はどうしようもなかった。

 

 寝かされた弥一の顔を見ようと思ったけれど、どうしてもできない。

 弥一は、よく笑う人だった。笑ったとき、右目の下の泣きぼくろがくしゃっと寄るのだ。

 優しくて、家業である酒造の探究に熱心で、兄のように尊敬していた。

 自分が何かに悩んでいると、いつも察して、おいしいお菓子を買ってきてくれたりもした。

 思い出の中の弥一はいつも笑顔だったから、なおさら、無言で横たわる彼の顔を見ることができなかった。


 挨拶をすませて両親について行くと、広間では弔問ちょうもんきゃくに酒食がふるまわれていた。

 通夜とはいえ、人であふれているその場の熱気は相当なものだった。

 

 両親は顔見知りと挨拶を交わし、どんどん中へ進んでいく。朱華はその場に取り残されたように、端のほうに立ち尽くしていた。

 壁を背にすると、ひんやりとした感触が着物越しに伝わってきて、その場の熱気を少ししのげるような気持ちになった。


 ふいに、弔問客の話が耳にとまった。


「やっぱり、このままじゃかわいそうだよなぁ……」


「嫁さんと一緒にしてやらなきゃ、あの世でも苦労するからな……」


「島田さんも考えてるとは思うけど、寺にも聞いてみるか?」


 朱華は思わず、声の方を見た。けれど、細かいところまでは聞き取れない。誰が話しているのかもわからない。


 (……どういうこと? 弥一さんに、お嫁さんがいたの?)


 釈然しゃくぜんとしないまま、胸の奥がほんの少しざわついた。

 そんな人がいたら、弥一さんは絶対に紹介してくれるはずだ。でも今まで、そんなことは聞いたことがない。

 考えていると、頭に熱が上ってくるようで、朱華は人の多い広間をあとにして、長い廊下を抜けた。


 ――息苦しい。


 玄関を出ると、冷たい夜気が頬を打つ。すぐに地面に散った紅葉が目に入った。

 紅葉の濃い赤色を見ると、なぜか昔から寂しさにとらわれた。弥一のいなくなった今夜は、その寂しさはやりきれない悲しみとなって、地に落ちたようだった。


 そのとき――。


「朱華、あなたのせいよ!」


 甲高かんだかい声が夜を裂いた。

 はじかれたように顔を上げると、黒い喪服もふくの少女が立っていた。

 怒りに燃える大きな瞳が、まっすぐに朱華を射抜いぬく。


「……紗枝さえ?」


「朱華! あなたが……あなたが弥一さんを殺したのよ! あなたのせい!」


 胸を突き刺すような言葉に、朱華は思わず一歩あとずさった。

 

 紗枝――朱華と同じ17歳の幼なじみ。

 家業も同じ呉服商・錦屋にしきやの娘。

 由緒ゆいしょある山城屋に比べれば歴史は浅いが、斬新な柄の着物や舶来品はくらいひんを多く扱うことで評判の店である。


「知ってるんだから……あなた“える”んでしょう? あなたが変なものを呼んで、弥一さんを殺したんだわ!」


 ――違う!そんなことしていない!


 すぐに叫びたかった。けれど、声にならない。口元だけが、不自然に震えた。その態度が気に入らなかったのか、紗枝がたたみかけるように叫ぶ。


「あなた、言ってたじゃない!学校の綾音あやねちゃん、後ろに黒いかげが視えるとか!元気だったのに突然死んだわ!」


「違うわ、私が殺したわけじゃない。影は視えたけど、そういうことじゃない……」


 かろうじて絞り出した言葉は、消え入るような声になってしまった。

 

 ――違う。本当に違うのだ。


 いつの頃からか、人の背に“影”が見えるようになった。

 黒い。けれど毎回違う――薄く、濃く、光を帯びることさえあった。

 それが視えた者は、数日後に死ぬ。

 それを知ったのは、ずっと後のことだった。


 小学校時代、綾音は仲の良い友人だった。でもある日、綾音の背後に薄く黒い影がつきまとっているのに気づいた。


「綾音ちゃん、後ろに何か黒いのが……」


「えっ?やだ!汚れ?何?」


「いや、そういうのではなくて……何か影みたいなのが……」


「何それ?もう、冗談はやめて!朱華」


 その時は、他愛たあいないやりとりで流してしまった。だがその2日後に、綾音は死んだのだ。やまいっけも何もなかったのに、突然……。

 その話はまたたく間に学校中に知れ渡った。昼休み中だったから、綾音との会話を多くの人に聞かれていたのも原因だった。


 紗枝は元から朱華をライバル視していて、何かと朱華に冷たくあたっていたから、綾音のことも、待ってましたとばかりに盛んに騒ぎ立てた。 

 かたや老舗の呉服商、かたや新興しんこうの呉服商、家同士の立ち位置も、紗枝の言動に関係しているのかもしれない。


 (でも、それをまたここで持ち出すなんて……)


 紗枝と朱華の周りには、多くの人が集まってきていた。


「人殺し……?」


「誰のこと?」


 ざわっと人の輪が波立った。ひそひそと交わされる声に、朱華の肌がじわりと熱くなってくる。


「だから、認めなさいよ!あなたが弥一さんを殺したんだって――」


 紗枝は野次馬やじうまの熱量に力を得たのか、自信たっぷりの顔でなおも朱華を責め立てようと声を張り上げた。


 否定しようと口を開きかけたそのとき――。


「朱華!」


 母の声が響いた。騒ぎを聞きつけた母があわてて外に出てきたのである。


「何をしているの!」


 母の声が、怒鳴るというより“怯えた”ように響いた。


「お前はまた、人様ひとさまに……迷惑をかけて……!」


 頭ごなしに叱りつけると、母は朱華の頭をぐっとおさえつけた。


「申し訳ありません。うちの娘が何か騒ぎをおこしたようで……これで、失礼いたします」


 朱華の頭をさらにぐっとおさえつけると、母はそのまま朱華の手をひいて人の輪を抜け出した。なかば引きずられるように朱華は小走りに歩く。


 (――なんで?どうして?私はなにもしていないのに……)


 にじんだ涙が風を受けて、すぅーと冷たく感じた。

 夜道に落ちている紅葉の葉をシャリ、シャリと踏みしめる足音だけが、なぜか鮮明に耳に残った。

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