第1話
「え……
ちょうど女学校から戻り、戸口にいた
そこで、驚くべきことを聞いたのだ。
「に、荷台に積んだ品を点検していたら、突然馬があばれたそうで……その馬の、下敷きになったそうです」
台所で
2階にいた母も下に降りてきて、わけがわからず
店にいた父も、既に知らせを受けたのか、
「なんて急な話だい……あの若さで、まだこれからだっていうのに……」
父の声も、少し震えているようだった。
朱華は立ち尽くしたまま、手に持っていた
(嘘……弥一さん、嘘でしょう……?)
冷たい床の
3つ年上の、幼なじみ。
幼い頃からずっと、頼れる兄のような存在だった。
最近ようやく責任ある仕事を任せてもらえたと、この前も笑って言っていたのに……。
いつも、“朱華ちゃん”と優しく呼んでくれた声が、胸の奥で
最後にあったのは、3日前。
(その時は、何も、
悲しみの中に言いようのない不安が混じり、朱華は思わず手で口を押さえたまま、その場にうずくまってしまった。
冷たい風とともに、
冬になると、豪雪地帯として行き来もままならない北国ではあるが、篠館は昔から、城を中心として整然とした
なかでも藩の御用商人として代々続いてきた山城屋では、めったに手に入らないような色とりどりの上質な
商人街での店同士の付き合いは密接で、年中行事や冠婚葬祭、あらゆるところで協力しあってきた。今日もまたそのしきたりのまま、弥一の
弥一の家・
「このたびは……ご
町中の人が集まったのではないかと思うほど、大勢が詰めかけていた。弥一の両親は、一人ひとりに丁寧に頭を下げている。朱華も両親とともに進んだが、なかなか顔を上げられなかった。
「朱華ちゃん」
突然、弥一の母に声をかけられ、朱華はびくっとして視線を上げた。
「来てくれてありがとうね……弥一は、ずっとあんたのことを、“かわいい、かわいい”って言っておったんよ」
「……そんな……私……本当に、弥一さんにお世話になって……」
自分でも何を言っているのか分からないまま、視線が泳ぐ。
寝かされた弥一の顔を見ようと思ったけれど、どうしてもできない。
弥一は、よく笑う人だった。笑ったとき、右目の下の泣きぼくろがくしゃっと寄るのだ。
優しくて、家業である酒造の探究に熱心で、兄のように尊敬していた。
自分が何かに悩んでいると、いつも察して、おいしいお菓子を買ってきてくれたりもした。
思い出の中の弥一はいつも笑顔だったから、なおさら、無言で横たわる彼の顔を見ることができなかった。
挨拶をすませて両親について行くと、広間では
通夜とはいえ、人であふれているその場の熱気は相当なものだった。
両親は顔見知りと挨拶を交わし、どんどん中へ進んでいく。朱華はその場に取り残されたように、端のほうに立ち尽くしていた。
壁を背にすると、ひんやりとした感触が着物越しに伝わってきて、その場の熱気を少ししのげるような気持ちになった。
ふいに、弔問客の話が耳にとまった。
「やっぱり、このままじゃかわいそうだよなぁ……」
「嫁さんと一緒にしてやらなきゃ、あの世でも苦労するからな……」
「島田さんも考えてるとは思うけど、寺にも聞いてみるか?」
朱華は思わず、声の方を見た。けれど、細かいところまでは聞き取れない。誰が話しているのかもわからない。
(……どういうこと? 弥一さんに、お嫁さんがいたの?)
そんな人がいたら、弥一さんは絶対に紹介してくれるはずだ。でも今まで、そんなことは聞いたことがない。
考えていると、頭に熱が上ってくるようで、朱華は人の多い広間をあとにして、長い廊下を抜けた。
――息苦しい。
玄関を出ると、冷たい夜気が頬を打つ。すぐに地面に散った紅葉が目に入った。
紅葉の濃い赤色を見ると、なぜか昔から寂しさにとらわれた。弥一のいなくなった今夜は、その寂しさはやりきれない悲しみとなって、地に落ちたようだった。
そのとき――。
「朱華、あなたのせいよ!」
はじかれたように顔を上げると、黒い
怒りに燃える大きな瞳が、まっすぐに朱華を
「……
「朱華! あなたが……あなたが弥一さんを殺したのよ! あなたのせい!」
胸を突き刺すような言葉に、朱華は思わず一歩あとずさった。
紗枝――朱華と同じ17歳の幼なじみ。
家業も同じ呉服商・
「知ってるんだから……あなた“
――違う!そんなことしていない!
すぐに叫びたかった。けれど、声にならない。口元だけが、不自然に震えた。その態度が気に入らなかったのか、紗枝がたたみかけるように叫ぶ。
「あなた、言ってたじゃない!学校の
「違うわ、私が殺したわけじゃない。影は視えたけど、そういうことじゃない……」
かろうじて絞り出した言葉は、消え入るような声になってしまった。
――違う。本当に違うのだ。
いつの頃からか、人の背に“影”が見えるようになった。
黒い。けれど毎回違う――薄く、濃く、光を帯びることさえあった。
それが視えた者は、数日後に死ぬ。
それを知ったのは、ずっと後のことだった。
小学校時代、綾音は仲の良い友人だった。でもある日、綾音の背後に薄く黒い影がつきまとっているのに気づいた。
「綾音ちゃん、後ろに何か黒いのが……」
「えっ?やだ!汚れ?何?」
「いや、そういうのではなくて……何か影みたいなのが……」
「何それ?もう、冗談はやめて!朱華」
その時は、
その話は
紗枝は元から朱華をライバル視していて、何かと朱華に冷たくあたっていたから、綾音のことも、待ってましたとばかりに盛んに騒ぎ立てた。
かたや老舗の呉服商、かたや
(でも、それをまたここで持ち出すなんて……)
紗枝と朱華の周りには、多くの人が集まってきていた。
「人殺し……?」
「誰のこと?」
ざわっと人の輪が波立った。ひそひそと交わされる声に、朱華の肌がじわりと熱くなってくる。
「だから、認めなさいよ!あなたが弥一さんを殺したんだって――」
紗枝は
否定しようと口を開きかけたそのとき――。
「朱華!」
母の声が響いた。騒ぎを聞きつけた母があわてて外に出てきたのである。
「何をしているの!」
母の声が、怒鳴るというより“怯えた”ように響いた。
「お前はまた、
頭ごなしに叱りつけると、母は朱華の頭をぐっとおさえつけた。
「申し訳ありません。うちの娘が何か騒ぎをおこしたようで……これで、失礼いたします」
朱華の頭をさらにぐっとおさえつけると、母はそのまま朱華の手をひいて人の輪を抜け出した。なかば引きずられるように朱華は小走りに歩く。
(――なんで?どうして?私はなにもしていないのに……)
夜道に落ちている紅葉の葉をシャリ、シャリと踏みしめる足音だけが、なぜか鮮明に耳に残った。
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