春を好きになれるまで

暇入

春を好きになれるまで

 ああ、またこの夢か。

 目の前に広がる明るい景色を見て僕はすぐそう思った。


「私、桜って嫌いなのよね」


 川にかけられた小さなコンクリート製の橋の欄干に手を置き、川辺に沿うように植えられた桜の木をみて、嫌いという言葉を使いながらも優しい笑みを浮かべる彼女のことが好きだった頃の夢。


 この頃僕らは毎日のようにこの橋で長いことおしゃべりをしていた。橋を渡る同級生にカップルだと揶揄われ、別の日にはなぜか犬に吠えられ、ある日にはカメラマンに2人の写真を撮りたいと言うプロカメラマンのおじさんに話しかけられたりと色々な経験をした。


 ちなみにあのカメラマンは結構有名な人らしく、「いつか写真集かテレビで使ってもいいかい?」と聞かれたが、僕たちの背中しか写っていない写真だから、と了承した。


「それはどうして?」


 僕がそう聞くと、彼女は少しだけ僕の方に顔を向けた。


「だってズルいじゃない。短い時間しかその綺麗な花を咲かせないくせに、みんな春と言えば綺麗に咲いた桜の花を思い浮かべる。あ、ねえ。キミはなんでだと思う?」


 彼女の表情は変わっていない。


「短い時間に一斉に咲くから、人に記憶に残りやすいんだよきっと」


 僕は目の前の桜並木をぼうっと見ながら思ったままのことを口に出す。


「そっかあ、君はそう考えるのか」


 彼女は僕に背を向け、腕を後ろに組みながらテクテクと歩く。そんな可愛らしい動きも僕は好きだったなと思わず頬を緩める。


「違うの?」


「うん、私はね、人が春を好きになりたいから、桜を思い浮かべるんだと思うんだ」


 彼女はクルッと半回転し、僕と向き合うと柔らかな笑顔を見せてそう言った。


「どういうこと?」


 僕がそういうと彼女は少し考えるような素振りをした。


「ふふっ。じゃあここでキミに問題です。私はなぜそう答えたでしょうか?答え合わせはこの時間に、この場所でしましょう」


 彼女は両手をぱちんと叩き僕にそう言った。

 それと同時に不意に目の前の世界が歪み始め、視界が覚束なくなる。僕は思わず目を閉じた。


 

 見慣れた白い天井、カーテンの隙間から入ってきた陽の光。そしてなぜか綺麗に見える陽に照らされた埃。

 またこのタイミングで目が覚めたみたいだ。


 結局あの日以降、彼女はあの橋に姿を見せなかった。

 次の日も、その次の日も、その次の次の日も、毎日同じ時間に、あの橋の場所へ行っても彼女は現れなかった。


 噂によると彼女の父親の借金のせいで、あの日の夜、あの一家は夜逃げをしたらしい。


 それを聞いても僕は毎日あの時間にあの橋を訪れた。

 僕なりの正解を見つけたからではない。間違っててもいいから答え合わせをしたかった。彼女が描く、春の景色を見てみたかったのだと今では思う。

 けれども、桜が散り、葉を付け、またその葉が落ちては寂しい姿になる様子を見届けてから、僕はその場所に寄ることをやめた。


 僕はベッドから起き上がり学校に行く準備をする。久々にあの橋に行ってみようかな。僕はそう思った。


 

 夜、僕は寝る前に朝のことを思い出していた。


 2年前から都内の桜の名所を案内する雑誌にも載るようになったあの場所から見る桜は案の定憎たらしいほど綺麗だった。


「もう3年か」


 僕はそんなことを呟きながら天井を見る。

 コンクリート製の橋はいつのまにか撤去され、その橋があった場所は観光地化するために木造の橋を架ける工事中であった。


 ニュースで桜の開花情報が流れる度にあの日のことを思い出し、胸が痛くなる。


 あの言葉に僕はきっと呪われている。


 もうこの言葉を言った女の子の名前も顔も忘れてしまっていた。僕は忘れたかったのだろうか。でも僕はこの時期になると必死に彼女を思い出そうとする。


 今度あそこに行くのはあの木造の橋の工事も終わった時だろうなと僕は思い、僕は目を閉じた。



 またあの夢を見ている。


「あれ、なんでこの橋が?」


 僕は違和感に気づいた。3年前にこの橋はなかったはずだ。なのにこの夢の中ではあの木造の橋がある。


 周りの景色も朝見たあの桜並木と同じ風景だと気づいた。3年前はここまで木々は生い茂っていなかったはずだ。

 僕は目の前の橋をじっと見る。


 どうせ夢なんだから渡ればいいのに、自分でもわからないが、なぜか渡ることに躊躇している。


 それでも僕は一歩足を踏み出した。

 不安を感じたからかわからないが、僕はゆっくりゆっくりと欄干を掴みながら橋の中央部まで歩く。そこまで大きな橋ではない。十数秒もしない内に渡ることができるほどの長さの橋だが、なぜかとても長く感じた。


 ふと横を見た。思わず涙が出そうになる。本当に、本当に憎たらしいほど綺麗な景色だった。

 3年前はまだそんなに大きくない桜の木だったから、陽の光が水面に反射して眩しく、空色と桜色がとても美しかった。


 でも今見えている景色は少し違う。大きくなった桜の木は陽の光を遮り、不気味に感じない程度に薄暗く、水面は透き通っているが、風で桜が揺れる度に木漏れ日を反射する程度だった。


「そりゃコンクリート製の橋よりも木造の橋の方が景色に映えるな」


 僕は一人で笑いながらそう独り言を言う。


「私、桜って嫌いなのよね」


 あの言葉を僕は思い出した。

 

「ああ、僕も嫌いだ。この景色を見て改めて思ったよ。僕はきっともう春を好きになれない」


 突然、強い風が吹き、桜の花びらが一斉に舞い上がる。僕は思わず目を瞑る。

 


颯太そうた、目を開けて」


 正面からそんな声が聞こえた気がして目を開ける。


「久しぶりね。颯太」


 僕はなんの夢を見ているのだろうか。

 目の前には大人びた姿の彼女がいた。


「えっと、久しぶり」


「私の名前、覚えてる?」


「あれ、玲奈?」


 さっきまで出てこなかった彼女の名前を不思議と思い出せた。一宮玲奈いちみやれな。それが彼女の名前だった。


「覚えてくれてるんだ」


「いや、今思い出したと言うか」


「あら、そうなの?」


 そう言う玲奈は何やら上機嫌だ。


「けどね、残念。私は今は春って言うんだ」


「春?え?なんで?」


「ここは夢の中でしょう?だから自分で名前を変えたの」


「夢の中って、ここは僕の夢だろう?」


「んー、そうとも言えるし、私の夢とも言えるね」


「つまり?」


「玲奈があなたに別れを言うために、私を使って颯太に夢を見させている。が正解なのかな」


 春は人差し指を顎に当ててそう言う。


「別れ?どういうこと?」


「玲奈はね、颯太のことを覚えてないの」


「何か玲奈にあったの?」


「うん。夜逃げした先で両親からたくさん虐待されちゃっててね。何もかもがショックで記憶がないの」


 この子はどうして他人事見たく言うのだろうか。僕はそれをずっと疑問に思っている。


「じゃあ、別れって」


「両親が最近亡くなったらしいの。だからもう玲奈は自由に生きていける。けど、もう颯太を思い出すことはないかなって思ったの」


 僕を思い出すことがないかなと。つまりこれは春の主観か。


「だから君が僕にそれを伝えにきたってこと?」


「うん。そういうこと。ごめんね」


「思い出せないの?絶対に?」


「絶対とは言い切れないよ?あの時の桜と颯太を見ればもしかしたら思い出すかもしれない」


「春、君は」


 そう僕が言った瞬間、強い風が吹いた。目が覚めてしまう。そんな気がした。


「ごめん颯太。でも颯太は私を忘れないで」


 そんなの我儘じゃないか。それでも。


「忘れない。約束するよ」


 そう言って辺りが急に明るくなる。



 見慣れた天井と見慣れた目覚まし時計。


。さて起きるか」


 寝起きの人間に深く考えることはできないのだ。僕はそう思い、顔を洗い、着替えをして母さんが作ってくれた朝食を食べる。休日の日に僕が早く起きているのを見て、母さんは腰を抜かしていたが、それは少し失礼じゃない?


 ご飯を食べながらぼーっとテレビを見る。


「東京の桜はまさに今が見どころ、今日は都電荒川線沿いの桜の名所をご紹介します」


「あら?ここあそこの桜並木じゃない」


 母さんが少し驚いた顔でそう言う。


「私はね、ここを3年前に訪れたのですが、いやぁ素晴らしかったですね」


 コメンテーターらしき人がニコニコとアナウンサーと会話をしている。


「へぇー、お写真も撮られたんですか?」


「えぇ、撮りましたよもちろん。そこにいた2人の中学生?か高校生のカップルが橋の上で仲睦まじく会話をしているのを見て、写真を撮らせてもらいましたね、いやぁ懐かしい」


「えぇ、それはすごい。通報されなかったんですか?」


「若干男の子の方には怪しまれてましたけどもね、撮らせてもらいましたよ」


 スタジオは笑い声に包まれた。僕は気付けば夢中でテレビを見ていた。


「さてさて。その時に撮ったお写真を見せてくださると言うことで、はい!こちらです」


 その写真を見た瞬間に、たくさんの思い出が蘇ってきた。今日も僕は夢を見ていた。思い出せた。そうだ。さっきまで春に会っていた。別れを言われた。


 忘れないでって言われたのだ。


 僕はテレビを見て、急いで家を出た。なぜだかわからない。けど、なぜだか会える気がした。

 あのコメンテーターは僕と彼女に写真を撮らせてくれと話しかけてきたカメラマンだ。僕と彼女がコンクリート製の端に並んで喋っている姿を後ろから撮った写真は完全に見覚えがあった。

 


 相変わらずこの桜並木は綺麗だった。けど、何回見てもやはり3年前とは全く違う景色なのだ。


 もはや彼女と会うことはもうできないと言われてるみたいで、そこが少し気に食わない。


「人が春を好きになりたいから、桜を思い浮かべるんだと思うんだ」


 結局彼女のこの言葉の真意を彼女の口からは聞けなかった。春もそれを答えようとはしてくれなかった。

 でも、もしかしたら、これは彼女なりの別れの言葉だったのかもしれない。彼女自身が春を好きになりたいという願望は叶うことはなかった。彼女は桜を思い浮かべるたびにあの日の悲劇を思い出すのだろう。


 もう春を好きになれないことを悟ったから、彼女は桜が嫌いだと言ったのではないだろうか。


 短い間しか花を咲かせないくせに、人の記憶に強く残るように。時間の流れにおいてはたった一日にも満たないくせに、彼女の記憶に強くこびりつくあの事件を嫌うのだろう。


 だからもう彼女はここに姿を現さないかもしれない。それでも僕は東京の桜の開花情報が出た日から毎日ここで時間を潰すのだ。かつて彼女が走っていた小川の反対側の道を向きながら、僕はただ座っているのだ。それでも反対側の道には人は現れない。そんな寂しい現実に耐えられず、僕は地面を見た。


「玲奈」


 不思議と彼女の名前を思い出し、口に出す。今までずっと忘れていたのに、突然と彼女の名前を思い出した。


「そうだ、玲奈だ。一宮玲奈だ」

 


 正面を向くと、一人の女性が反対側の道を走っているのが見えた。


 記憶の中の光景と何かが重なる。走り方が重なる。それに気づくと、今自分の目に映るすべての光景が記憶の中のものとピッタリ重なった気がした。


 僕は思わず立ち上がる。

 そうか。玲奈が僕の存在を思い出したから、僕も玲奈の名前を思い出せたんだ。

 女性が――玲奈がこちらを見て、僕と視線が合う。彼女の目から涙がこぼれ落ちた気がする。


 僕も彼女に合わせて走り出す。あの木造の橋か?いや、あの橋には人が多すぎる。

 ならもう一つ奥の橋は?あそこにはまた別のコンクリート製の橋が橋がかかっている。僕は木造の橋の前では立ち止まることもせずそのまま走り抜ける。


 小川の対岸を見ると、彼女も僕と同じように走っている。


 必死に走る。

 もう忘れないように。


 前を見ることなく、彼女の姿を見ながら走る。

 もう見失わないように。


 風に吹かれ落ちてくる桜の花びらを振り払うことなく走る。

 ――春を好きになれるように。



 絶え絶えになった呼吸を整えるように深呼吸をする。そしてもう一度、心を落ち着かせるように深呼吸をする。


 橋の反対側には彼女の姿がある。玲奈だ。大丈夫。覚えている。


 夢であの橋を渡った時のように、一歩一歩ゆっくりと踏み込む。そうしようと思っていた。でも我慢できなかった。きっと玲奈もそうだったのだ。


 僕らはまた走り出して、橋の中央にあっという間に辿り着く。

 僕はスピードを落とし、玲奈はスピードを落とすことなく勢いよく飛びついてくる。

 橋の真ん中で、僕らはまた会うことができたのだ。


「久しぶり、颯太」


「うん。久しぶり。玲奈」


「あのね、颯太」


「なに?」


「今日、朝のニュースで、ここが取り上げられてたの知ってる?」


「うん。僕も朝見た」


「ここの桜並木を見た瞬間、ここに行かなきゃって思ったの。そうしなきゃ絶対後悔するって。不思議だよね」


「うん。本当に不思議だね。もしかしたら誰かが教えてくれたのかもね」


「かもね」


 玲奈はそう言って柔らかく笑う。僕もそれが誰かなんて断定はできないが、きっとそうだろう。


「颯太、ありがとう」


「どういたしまして」


「あとね。颯太。大好き」


「うん。僕もだよ」


「知ってる」


 また玲奈は笑った。


「ねえ、「人が春を好きになりたいから、桜を思い浮かべるんだと思うんだ」ってどう言う意味だったと思う?」


「玲奈なりの別れの言葉じゃなかったの?」


「まあそれもあったんだけどね?あの時の私がこれを言った理由は違うのよ」


「じゃあ答えを教えてよ」


「いいの?結構この時の私自分でも性格悪いと思うわよ」


「いいよいいよ」


「答えは、この問題で一生頭悩ませてろ、ばーか!でした」


「なんだそれ」


 僕は思わず笑う。そんな子供じみた想いからあの問題を出したのかよ。まんまと玲奈の策にはまってしまった。


 まあそれにしても多少誤魔化してるような気もするが、いいだろう。


「私のことを忘れてほしくなかったの。桜を見る度にあの時のことを思い出して欲しかった。颯太は桜のことを嫌いになってしまうかもしれないけどね」


 そう呟く彼女をまた強く抱きしめる。


「ありがとう」


 何に対してか、誰に向かってか。そんな言葉を直接言わずとも目の前の賢い彼女ならわかるだろう。


 春を好きになれるまで、僕は彼女を醜く愛していた。


 春を好きになれたから、僕は玲奈の手をちゃんと握って、今度はちゃんと、正面から言えるのだ。


「――――」

                      ―了―

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春を好きになれるまで 暇入 @hima_iri

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