第3話 前日



目が覚めたのは朝の6時だった。


いつもなら二度寝する時間だけど、今日は違う。飛び起きてカーテンを開ける。晴れだ。完璧だ。


「よし」


小さくガッツポーズをする。


朝食を食べながら、何度も集合時間と場所を確認する。明日の午前10時、新宿駅西口。そこから貸し切りバスで会場まで向かうらしい。


会社に行く。いつもより30分早く着いてしまった。


「おはようございます」


佐藤が出社してくる。


「田中さん、今日早いですね」


「ああ、ちょっとな」


パソコンを立ち上げるけど、仕事が手につかない。メールを開いても文字が頭に入ってこない。


昼休み。


コンビニでおにぎりを買って、公園のベンチに座る。スマホでi.sの公式サイトをチェックする。合宿の詳細が更新されていた。


『参加者の皆様へ:当日は動きやすい服装でお越しください。なお、サプライズ企画も用意しておりますので、お楽しみに!』


サプライズ企画?何だろう。握手会とか?いや、もっと特別なことかもしれない。


胸が高鳴る。


午後、定時まで何とか仕事をこなす。いつもより早く会社を出た。上司に「明日明後日、有給取らせてもらいます」と伝えたときの顔を思い出す。


「田中、珍しいな。どこか行くのか?」


「ちょっと…旅行です」


それ以上は聞かれなかった。助かった。


アパートに戻る。


まず荷物を最終チェック。バッグを開けて、リストと照らし合わせる。


着替え、パンツ、洗面用具、携帯充電器、財布、保険証。全部ある。完璧だ。


でも何か忘れてる気がする。何だ?何を忘れてる?


10分ほど部屋の中をウロウロして、ようやく気づいた。タオルだ。タオルを入れてない。


慌ててタオルをバッグに詰める。


そして、ふと思いついた。


体温計を取り出す。


もし熱があったら。もし体調が悪かったら。そんなことになったら、人生終わりだ。


脇に挟んで、じっと待つ。


30秒が永遠に感じる。


ピピピッ。


36.3度。


「よし!大丈夫だ!」


声に出して確認する。明日、参加できる。何も問題ない。


夕食はカップラーメンで済ませた。食欲がない。というより、緊張で胃が縮んでる感じだ。


シャワーを浴びて、明日着る服をもう一度確認する。白いシャツ、紺のチノパン、ベージュのカーディガン。シークレットブーツ。完璧だ。


時計を見る。まだ夜の8時だ。


いつもならこの時間、YouTubeを見たり、ゲームをしたりしてる。でも今日は違う。明日に備えて早く寝よう。


ベッドに入る。


目を閉じる。


寝れない。


全然寝れない。


目を開けて天井を見つめる。明日、りおに会える。本物のりおだ。テレビやスマホの画面越しじゃない。同じ空間にいて、同じ空気を吸って、もしかしたら話せるかもしれない。


どうしよう。何を話そう。


「いつも応援してます」?ありきたりすぎる。


「新曲最高でした」?これもつまらない。


何か面白いこと言わなきゃ。でも何を。


頭の中でシミュレーションを繰り返す。


時計を見る。夜の9時。


まだ全然眠くない。


スマホを取り出す。YouTubeを開いて、i.sのMVを再生する。


『Lucky Star』


これがi.sのデビュー曲だ。もう何百回聞いただろう。でも飽きない。


りおの歌声が部屋に響く。


「夢を追いかけて 走り続けるの」


そうだ。俺も走り続けよう。明日から。いや、明日こそ。


「新しい自分に 出会えるはずだから」


画面の中でりおが笑う。


俺も笑顔になる。


そうだ。大丈夫。きっと大丈夫。


次の曲が流れる。また次の曲が流れる。


MVを見続けながら、いつの間にか、俺は寝落ちしていた。


スマホを握りしめたまま、i.sの歌声に包まれて。


明日への期待と不安を抱えたまま。


人生が変わる日の前夜を、俺はそうやって過ごした。

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