第2話 ながさき まさこさんは褒めてくれる

 ——ながさき まさこさんを知っています?


 薬物でヨレてしまった女性客の言葉が、頭の中で響いている。

 ほら、また。


 ——ながさき まさこさんを知っています?


 違法薬物常用者の現実とは乖離した酷い言葉。幻覚を現実に持ち込んだ妄想。

 あの女性客から妄想を聞くのが初めてというわけではない。

 それなのに嫌に記憶にこびり付いている。

 深夜の暗闇に「ながさきまさこさんが消えてしまう」と叫びながら駆けていく、病的な女性の背中。

 そのシーンが、1人になると何度も繰り返し映し出される。

 その時、俺の目を光が刺した。目を細めその方向を見ると、差し込み出した朝の光が、建物に反射している。

 そろそろ始発が動き出す時間だ。

 東口に目をやると4時20分——視界に滑り込むようにして、怪訝な顔をこちらに向けるサラリーマンが横切る。

 俺は、ベンチから腰を上げた。

「今日のお仕事は終了」

 小声でそう呟き、アウターのポケットに手をいれる。

 指先に感じる札束の質感に鼻を鳴らして、歩き出した。


   *


 駅の東口から駅内を突っ切って西口へ。俯いて駅へ向かう社会人と擦り違いながら、俺は歓楽街へ向かう。

 カラスが乱雑に積まれたゴミを突つき、スズメが道路に吐かれた吐瀉物をついばむ。酔い潰れた人を横目に、歓楽街中心にある雑居ビルの階段を上がった。

 電気が消された雑居ビルは、差し込む陽光だけが唯一の光源だ。

 その薄暗さが、ここを廃墟に錯覚させる。踊り場の端に溜まる羽虫の死骸が、よりその気配を色濃く写した。

「おつかれさまです」

 Closeと書かれた看板が吊るされる扉を開いた。

 煙草とアルコールの匂い、それから甘い香水が混ざった空気を暖房で温めた物が、俺を迎える。

「……おつかれ」

 狭いバーのカウンター越しからグラスを拭く〈先輩〉が言った。

 俺は、彼の名前を知らない。

 兄貴と呼ばれている時もあるし、マスターと呼ばれている時もある。それは彼の属性を示している。

 マスターと呼ぶのは、大半がこのバーのお客さんだ。

 兄貴と呼ぶ人は、夏でも冬でも長袖を着て、肌の何かを隠すような人々。

 俺のように先輩と呼ぶ人は、彼から卸された薬物を売る者達だ。

「今日の上がり持ってきました」

 カウンターの適当な席に座り、ポケットから札束と残ったPP袋を広げる。

 先輩はグラスを拭き上げてから札束とPP袋を数える。

 3回数えてから「うん」と穏やかに言った。

「お疲れ様。いつも丁寧にありがとうね」

 そう言いながら微笑んだ。けれども、緩く細められた瞼の奥の瞳が、笑っていないのを俺は知っている。

 内側を探られているような鋭利さを持つ視線だ。あるいは、自分を探るなという警告を放つ視線——どちらにせよ、お互いに本名を知らずに、淡白に札束をやり取りする関係で十分だ。

 しばらく表面上だけ穏やかな沈黙が続き、それを軽快なドアベルが鳴る。

「あれもう来てたんだ」

 扉から半身を覗かせ、鼻先を赤くした〈ナカやん〉が笑っている。

 彼もまた、カウンターにいる不気味な男性を、先輩と呼ぶ人物だ。それでいて、俺が、この仕事をする中で唯一本名を知っている奴。

 ナカやん、改め〈中野なかの ゆうと〉

 ナカやんは、手を擦り合わせながら俺の隣に座った。

「今日の上がりです!」

 カウンターに札束とPP袋が広げられる。

 先輩は、俺と同じように3回数えて――小さく舌打ちをした。

「中野くん、今日は売り上げが足りないようだけれど」

 重量を持った物を引きずるような声だ。それが嫌に空間を引っ掻く。

「あれ?」

 先輩の声色に緊張する俺とは対照的に、ナカやんの声は飄々としている。

 悪戯がバレてしまった子供のようだ。

 それが、彼をどこか幼く演出する。

 ナカやんは、自分のアウターやパンツのポケットに何度も手を入れて――パンツの裏ポケットからPP袋を2つ取り出した。


「さーせん。ポケットに入りったぱなしでした」


 ナカやんはへらへらと笑う。

 だが、先輩は叫ぶことなく、呆れたように微笑む。

「次は気を付けてね……ほら、中野くん住所も名前も割れちゃってるんだから。家の中まで探しに行かれるの嫌でしょ?」

 俺の背筋に嫌な汗が伝った。

 先輩が言いたいことは「薬を盗んだらお前を殺す」という意味だ。

 きっと彼は、住所と名前だけではなく、ナカやんの家族も、親戚も、全てを知っている。

 けれども、ナカやんは先輩の言葉をそのまま受け取り「それは嫌っす。俺の家、ゴミ屋敷なんすよ!」と笑った。

 しばらく栓を締めたような沈黙が訪れる。

「まぁ、いいか。これからも頑張ってね」

 先輩は、子供を撫でるように穏やかに言った。

 それで、張り詰めた空気が緩やかに流れる。

「2人とも何か飲む? 俺の奢りで1杯好きなのどうぞ」

「じゃ、ハイボールで」

 俺に続いてなかやんが「僕も同じので」と言った。

 手慣れた手つきで、2杯のハイボールが並ぶ。

 俺となかやんは、軽くグラスを重ねる。

 炭酸の刺激とアルコールの香りが口の中に広がった。

 アルコールの匂いにほだされたのか、それともナカやんの気の抜けた声色に間が抜けたのか、あるいはバーに漂う薄暗い怪しさを忘れたかったのか……俺は、なんとなく口を開いた。

 昨夜の女性の話だ。

「ナカやんは、ながさきまさこって人知ってる?」

 彼はまだグラスに口をつけていて、大きく喉を上下させている。

 だから、俺は話を続けた。

「今日来た客の女の人が言っていたんだ。ながさきまさこさんって知ってますか? って。薬でヨレた人の妄想かと思っていたけれど、妙に頭に残ってさ。その人、ながさきまさこさんが消えちゃうって走って行ったんだよ」

 ナカやんがグラスから口を離し、大きくゲップをした。


「……知ってるよ! ながさきまさこさんの事」


 俺の口から驚愕の声が漏れた。

 これはただの与太話に過ぎなかった。

 薬に蝕まれた客もいるから、気をつけようねってだけの話のつもりだった。

 それなのに、正常であるはずのナカやんも、その人物を知っていた。


「ながさきまさこって誰?」

「ながさきまさこさんは、とても美人な人なんだよ。黒髪で細身の女性」


 そういってナカやんは、ながさきまさこさんについてを語り出す。

 語り出しは


 ——ながさきまさこさんは、俺を褒めてくれるんだ


 だった。


 

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"ながさき まさこさん"について まだ学校だよ @school_stay

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