"ながさき まさこさん"について

まだ学校だよ

第1話 ながさき まさこさんが消えていく

「白Tありますか?」

 間を置いて2回囁かれた。

 空気が漏れるような声だが、終電間近の地方駅だと嫌に際立って聞こえる。

 俺に向けられているのはわかっている。だが、何も答えなかった。

 地方都市の駅前、東口のロータリーを挟んだバス停のベンチ。そこには俺と声をかけてきた30代くらいの男性しかいない。

 西口の飲み屋街から酔っ払いの笑い声が微かに聞こえている。

「あの……白Tを売って欲しくて」

 ヘラヘラとした声色が煩わしい。

 俺は、視線を上げて東口を見た。23時30分の終電に駆け込むサラリーマンやパンプスを履いた女性。あと数分でこの駅は、今日の役割を終える。

「聞こえてますよね?」

 男性の声に舌打ちで返した。

「……すみません」

 男はそういって、俺と同じベンチに1人分の距離をとって座る。

 酔っ払いに絡まれているわけでも、この男が変質者というわけでもない。俺は売り手だし、こいつは客だ。

 だが、23時30分でなくてはいけない。1分前でも、1秒前でもいけないんだ。

 23時30分ちょうどでなくてはいけない。

 東口に吊られている時計が音を立ててやっと23時30分を告げた。

 だが、萎縮した男は、横目で俺に視線を送るだけで何も言わない。

「……買うんじゃないの?」

 男は、首ごと視線を持ってきて、花を咲かせるみたいに笑った。

 荒れた口元から覗く歯は、溶けているのか乳歯にように小さく脆い。

「はい! 買います! 買いますとも!」

 空いていた1人分の距離を男は、無遠慮に詰める。風呂に入っていない人間特有のすえた臭いがした。

「何枚?」

「白Tを2枚で」

 俺は、視線は動かさずに、着ていたアウターの内ポケットから手のひらサイズのPP袋を取り出す。

「4万、現金で」

 男が、慌てた様子でパンツのポケットを漁り、握った拳を突きだす。

 開かれた拳には、くしゃくしゃの1万円札が4枚あった。

 雑にそれを受け取り、空になった男の手のひらへPP袋を2つ乗せる。

「あり、ありゃ、ありがとごじぇます」

 興奮で呂律の回らない男は、口から漏れ出る唾液をジュルジュルと吸い、逃げるようにその場を去った。

 地方都市の駅前、東口のロータリーを挟んだバス停に、沈み込むような静寂が訪れた。俺は夜を見上げて息を吐く。

 あと1週間もすれば、本格的な冬が訪れるだろう——微かに白さを持つ息を見てそう思った。

 冬は、あまりこの仕事をしたくない。

 深夜に近づくにつれて気温が下がる中、小さく体を震わせて、このバス停で客を待っていると惨めな気持ちになる。


 もっとまともな人生があったんじゃないか。

 今からどうにか巻き返せるのではないか。

 20年生きたどこで間違ったのだろう。

 将来の夢は、もう覚えていない。

 だが、薬物の売人になる、というのが夢ではなかったはずだ。


 寒さが寂しさと虚無感に変わって、アウターのポケットに両手を入れる。

 右手にくしゃりとした感触が伝わった。 

 1分も掛からずに手に入れた4万円——簡単に稼げた紙幣だけが、寂しさと虚無感をかき消してくれる。

「白Tを売っているだけ」

 小声でつぶやく。

 俺は、あくまで2万円の白Tを売っているだけだ。商品を渡すときに、パケに入った1gの粉末を渡してしまう。

 客が優しいから目的の商品と違っても笑って許してくれる。


 ……というのが建前だ。

 

 東口のバス停に座ってる男に終電が終わった23時30分に「白Tを売ってくれ」と声をかけろ。薬が1g欲しいなら1枚、2g欲しいなら2枚……それが本音。

 建前を受け入れれば、何も恐ろしいことはない。

 俺の裏に控える反社会的な人間も笑ってくれるし、明瞭会計に従って現金を渡してくれれば、望み通りの快楽を味わえる。

 それでいいじゃないか。俺だって、突然襲ってくる虚無感と寂しさをかき消すのに、毎日必死だ。

 誰だって、苦しんで生きている。


「白Tを売ってくれませんか?」

 また声が掛かった。

 男性ではなく、凛とした女性の声だ。

 俺は声の方を見る。キャミソールだけを着た女性が微笑んでいた。

「何枚?」

「……1枚」

 俺は、頷いて右手を突き出す。

 女性は、微笑んだまま動かない。

「……金が先ね」

 女性は、やっぱり微笑んだままだ。しばらくそうして、薄い唇を動かす。


「ながさき まさこさんって知っています?」


 俺は首を横に振った。

 違法薬物の使用者を相手しているんだ。脈絡のない会話は多々ある。

 感情の起伏が激しい客もいるし、自分の排泄物を盗まれないようにポケットに入れている客もいる——こういう客には、当たり障りなく接する。

 騒ぎを起こされて面倒になるのはごめんだ。

 女性は、骨ばった腕を口元に当てて「嘘だぁ」と目を丸くした。

「知らないんですか? ながさきまさこさんのこと」

「ごめんなさい。どなたですか?」

「髪が長くて、白い肌のとても綺麗な人なんです。私の憧れです」

 女性は、そういって恍惚とした表情でため息を吐いた。

 彼女の生暖かい息が、俺の顔にかかる。鮮魚店のような臭いがして、咳払いをする。

「いいですね。話を聞いただけで美人なのが伝わります」

「そうでしょ! そうでしょ!」

 女性に両肩を掴まれる。伸び切った爪先が、鋭く食い込んだ。白い粉を吹いた彼女の肌がよく見える。

「……とりあえず、白T買った方がいいんじゃないんですかね? ほら、今日は寒いですし」

 俺の言葉で、女性から恍惚とした表情は消えた。無言で、ポケットを漁り、綺麗に折り畳まれた2万円を差し出す。

 自分のポケットに入れてから、PP袋に入った薬を渡す。

 だが、女性は受け取らなかった。

 女性の視線は、俺に向いている——いや、俺の後ろに向いている。

 振り返ってみたが、停車したタクシーが1台あるだけだ。それもすぐに走り出してしまう。深い暗闇と西口の喧騒が微かにあるだけだ。

「ほら、みて。ながさきまさこさんがいる」

 女性は、ずっと背後を見ている。俺は、丁寧に女性の視線を辿っていく。

 やっぱり何もいない。それで恐ろしくなった。

 俺の手のひらにある1gの白い粉末——これが作り出した幻覚に、彼女は囚われているんだ。

 薬物が作り出した幻覚が、彼女の住む世界に存在している。

「あぁ! 消えていく!」

 女性は、そう叫んで、俺の手から薬を奪い取り駆けていった。

 遠ざかる女性の悲鳴のような「消えないで!」という叫びが、終電の終わった東口に溶けていく。

 俺は、冬にしてはあまりに薄着の彼女の病的な背中を、夜に飲み込まれるまで見ていた。


——ながさき まさこ


 終電の終わった東口には誰もいない。

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