三ツ星の残飯&ワンルームの晩餐 ~割烹見習い・多田野律子の「おいしい」収支報告書~
月影 流詩亜
第1話 手取り16万の衝撃と、サバ缶のひつまぶし
午後十一時半
更衣室のロッカー前で、私は薄っぺらい封筒を丁寧に、しかし内心では爆弾処理のような慎重さで開封した。
中から出てきたのは、今月の給与明細だ。
「……はぁ」
ため息が、コンクリートの壁に吸い込まれて消える。
額面の支給額を見れば、二十三歳の新米調理師としては、まあ悪くない数字だ。
けれど、私の視線はもっと下、右下の「差引支給額」に釘付けになる。
十六万二千円……
そこには、健康保険、厚生年金、雇用保険、所得税、住民税といったお馴染みのメンバーに加え、ニュースで話題になっていた「支援金」の名目で、新たな数字が引かれていた。月数百円。コンビニのコーヒー一杯分にも満たない額かもしれない。
でも、その数百円があれば、特売の玉ねぎが三玉買える。納豆なら三パック入りのタレ付きが三つ買える。
誰かの子育てや未来のために使われるお金だというのは分かる。頭では理解している。けれど、深夜まで立ちっぱなしで足を棒にし、先輩に怒鳴られながら鍋を磨いた対価から容赦なく引かれていく数字を見ると、どうしても心が荒む。
『誰か、私の「お腹空いた」も支援してよ』
誰にともなく心の中で毒づき、明細を財布ではなく、カバンの中に雑に放り込んだ。
私の職場、割烹『道草寄り道回り道』は、味は三ツ星だが労働環境はブラックホールだ。
賄いは昼に出るが、夜は忙しさのあまり食いっぱぐれることも多い。今日もそうだ。胃袋が空っぽで、内側からギュルギュルと抗議の声を上げている。
帰宅途中、私は吸い寄せられるように二十四時間営業のスーパーに入った。
閉店間際の店内は、戦の後のように静まり返っている。
鮮魚コーナーの照明は半分消え、刺身のパックは全滅。惣菜コーナーに残っているのは、衣がしなびたコロッケと、なぜか売れ残っている激辛麻婆豆腐だけ。
私は迷わず缶詰売り場へ向かった。
ここなら、まだ選択肢がある。
棚の前で、私は二つの缶詰を手に取り、睨み合いを始めた。
右手には、百五十円の水煮缶。
左手には、二百八十円の味噌煮缶。金色のパッケージが眩しい、ちょっといいやつだ。
その差、百三十円。
今の私には、この差がとてつもなく重い。百三十円あれば、明日の朝食の食パン一斤と牛乳が買える。合理的に考えれば、水煮缶を買って家にある調味料で味付けをするのが正解だ。
でも……私は今日、大将に三回怒鳴られ、客の理不尽なクレームに頭を下げ、そして給与明細に打ちのめされた。
今の私の心と体は、強烈な「優しさ」と「甘え」を欲している。
「……いいわよ。今日の私は、私が甘やかす」
私は震える手で水煮缶を棚に戻し、金色の味噌煮缶をカゴに入れた。ついでに、見切り品コーナーにあった半額の大葉も掴む。
これが、今の私にできる精一杯の贅沢だ。
◇
築四十年、風呂なしシャワーのみ、家賃五万円のワンルーム。
玄関を開けるとすぐにキッチンがあるこの部屋が、私の城だ。
制服の匂いが染みついた服を脱ぎ捨て、Tシャツとジャージに着替える。
手を丁寧に洗い、髪を一つに縛り直すと、私は「見習いの多田野律子」から「この城の料理長」へと変貌する。
「さて、やりますか」
カセットコンロに小さなフライパンを乗せ、火をつける。
買ってきたサバの味噌煮缶を開ける。
そのまま食べても十分美味しいはずだ。二百八十円もするのだから。
でも、私は料理人だ。缶詰特有の「あの匂い」……金属臭さと、少しこもったような魚の臭みを、そのまま口に入れることはプライドが許さない。
熱したフライパンに、缶詰の中身を汁ごとあける。
ジュワアアッ! と激しい音が狭い部屋に響く。
すかさず、チューブのおろし生姜を三センチほど投入し、料理酒をひと回し。
ここからが勝負だ !
菜箸でサバの身をほぐしながら、中火で炒りつけていく。
これは「乾煎り」の応用だ。水分を飛ばすことで魚の臭みを消し、味噌の香ばしさを凝縮させる。焦げ付く寸前、味噌がチリチリと音を立て、甘く濃厚な香りが立ち上ってきたところで火を止める。
どんぶりに、実家から送られてきた米で炊いた熱々のご飯をよそう。
その上に、水分が飛び、味が凝縮されたサバ味噌をたっぷりと乗せる。
そして、仕上げだ……店の冷蔵庫の隅で干からびかけていたのを、「勉強に使います」と言ってもらってきた『
これを指でひねり潰しながらパラパラと散らす。
最後に、千切りにした大葉を天盛りにすれば……
「『サバ缶のひつまぶし風』、完成 !」
実食です……見た目は茶色一色ではない。大葉の緑と、実山椒の深い緑が、二百八十円の缶詰を「料理」へと昇華させている。
私はちゃぶ台の前で手を合わせた。
「いただきます」
まずはそのまま、一口。
口に入れた瞬間、強烈な味噌のコクが広がる。
炒めたことで水分が抜け、サバの身はホロホロと解けつつも、しっかりとした食感を残している。缶詰臭さは微塵もない。そこに、実山椒のピリリとした痺れが駆け抜け、後味を爽やかに引き締める。
「……んんっ、おいし」
思わず声が漏れる。
白いご飯が進む……止まらない。
労働で失われた塩分と糖分が、細胞の一つ一つに染み渡っていくようだ。
半分ほど食べたところで、私は立ち上がり、ヤカンで沸かしておいたほうじ茶を注いだ。
サラサラと、茶漬けにする。
熱いほうじ茶に味噌が溶け出し、茶色のスープができる。
それをズルズルとかき込む。
香ばしさの二重奏。味噌とほうじ茶、そして大葉の清涼感。
胃袋が温まり、強張っていた肩の力が抜けていく。
あんなに不満だった給与明細のことも、大将の怒鳴り声も、熱いお茶と一緒に胃の腑へ落ちて昇華されていく。
ふぅ、と大きく息を吐いた。
丼は空っぽだ。
二百八十円と少しの手間で、私はこんなにも満たされた。
支援金で数百円引かれようが、手取りが少なかろうが、私にはこの「技術」がある。
どんな安い食材でも、最高のご馳走に変える魔法を知っている。
これさえあれば、私は東京の片隅で、明日もなんとか生きていける。
「……ごちそうさまでした」
空になった缶詰を洗いながら、私は小さく笑った。
明日の賄いは、何を提案しようか。
大将が捨てようとした野菜の皮、こっそりキープしておいたんだっけ。
私の収支報告書、今日の幸福度は間違いなく黒字だ。
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