29話 決して変わらない現実
二人はバッティングセンターを後にして、暗くなった道を歩いてゆく。その時、大沢は視線を感じた。このおぞましさ、身に覚えがある。
「小林、こっちだ」
「どうした大沢くん。あ、なんだ……アイツら」
振り向くと、遠くに黒い格好をした男が何人もいる。追いかけて来る。そして、とめどなく湧き出てくる。足がすくんだ。逃げろ、悲劇から。細胞からの信号が、電気の様に大沢の体中を駆け巡る。
「小林、明るいところへ逃げよう。どう考えても二人じゃ敵わない」
大きな道路へ向かって走る。街灯から街灯へ。だが、こちらにも黒い男。今度は反対に。逃げれば逃げるほど、路地裏に追い込まれる。そして。
「し、しまった。行き止まり……」
覚悟を決めて二人は振り向く。もう一度、漆黒に染まった闇を振り向く。その黒の男たちをかき分け、大沢の人生をズタズタにした悪魔は現れた。
「ほお、こいつはいい。てっきり大沢だけだと思っていたら、小林チャンピオンもいたのか。一石二鳥だぜ」
モグラ、吹野英だった。気持ちの悪い顔で、ここに来た理由を二人に告げた。
「……不服そうな顔だな。憎めばなんでもできると教えたはずだ。俺は復讐したくなっちゃったんだよ」
モグラが握った拳は音を立て、憎しみを呼び覚ます。
僕はこの男に強さを求めた。何時間でもモグラと練習試合をした。罵声を浴びてサンドバッグやミットを叩いた。そして、その度に強くなった。この男に近づきたかった。真理と本当の自分を犠牲にして。
モグラは真実を教える。聞きたくない。耳をふさぎたい。金切り声の様だった。
「大沢。お前は俺が洗脳した。お前はその運命から逃げられない。小林。チャンピオンなのは俺と変わらん。所詮暴力であるボクシングの意味を、そろそろ分かってきたはずだ」
だが、そんなモグラに小林は余裕を見せる。慣れた手つきでカバンからグローブを取り出すと肩を回した。こんな男の強さなどたかが知れている。僕自身が洗脳されたワケではない。小林は軽く挑発した。
「それはどうでしょうね? 僕は昔から大会を欠かさず見ていた。アンタが優勝した時も覚えている。モグラさんは、心から嬉しそうでしたけど?」
「黙れ。お前たちは、運命の大会を目前にして棄権することになる。せいぜい一日早い人生最後の試合を楽しめ」
モグラは大沢の前に立つ。体格差は桁違いだ。モグラはデカい。
「大沢よぉ。この前はやってくれたな。最後に俺が教えたものを、俺が折ってやる。一本か二本か、それは気分で決める」
「僕は見ていればいいですか?」
小林がニヒルな笑いを見せると、モグラは「来い」と合図をした。
「小林の相手はコイツだ。見苦しい仲良しで争ってな」
現れたその人物に、二人は戸惑いを隠せない。彼女を信頼していた。人一倍の強さを持っているから、いつでも無鉄砲に明るいはずじゃないか。記憶がごちゃごちゃになる二人は、思わず後ずさりした。
「い、猪俣! どうして、モグラ先輩と……」
猪俣は何も答えない。肩で息をしている彼女は、目が死んでいる。モグラは愉快極まりないと言わんばかりだ。そして無慈悲に命令した。
「こいつは俺の右腕だ。サイボーグとしてよく働いてくれたよ……行け」
流れるような動きで近づき、猪俣は小林に飛び蹴りを放つ。あくまでスポーツ選手として強い小林は、もろに痛打をくらった。そればかりか、牙をむき出しにした彼女は、ノーガード戦法で次々攻撃を仕掛ける。
「しっかりしろ! 僕は君を殴りたくない。猪俣さん!」
小林の言葉も虚しく、猪俣はラッシュを仕掛ける。
「こ、壊す……壊すのです、小林翼を……」
訳も分からず、何かをつぶやき続ける猪俣。彼女は小林に飛び掛かり、大きく振りかぶった!
……
鈍い小林のジャブが、猪俣の頬を痛める。ボクシングは暴力なのだろうか。小林にも迷いが生じた。でも、今のパンチは憎しみじゃない。これが強さ、これは優しさ……
僕は猪俣を殴ってしまった。僕は暴力を振るった。軟弱な許しを求めるかの様に、小林は叫んだ。
「目を覚ませ! 君はこんな人間じゃないはずだ!」
「……っ。ううう」
だが、モグラはがっくりとなったその背中を蹴り飛ばした。ここまでは想定内だ。まだ、彼女はコントロールできる。
「どうした猪俣。ロケットを川に捨ててほしいのか」
そのモグラの一言で、猪俣は大きく飲み込まれた。短いあの記憶が、お母さんを呼んでいる。お母さんが小林くんを殴れって言っている。
「ぐわああ! こ、小林……小林、消えろぉ!」
そんな二人に興味がなくなったのか、モグラは大沢に近づく。逃れられない宿命。先輩、後輩の関係は、いつしか名の無きものとなっていた。
「俺と勝負だ、大沢。俺を殴ってみろ」
「……憎しみの拳ですか。無力の拳ですか」
「真の力だ。高田真理のためだった、本当の強さ。強くなりたいという人間の強さ……来い。捻り潰してやる」
モグラは近づく。まるで無防備な状態で。言いたい事を言え。俺が受け止め、書き換えてやる……大沢は一気に距離を詰め、拳を振りかざした!
やめてぇっ! 知也くん、目を覚まして!
「……どうした。なぜ殴らない」
大沢は止まった。
「殴りません。暴力として……人を殴りたくありません」
その瞬間、モグラの一撃で大沢は倒れた。その大沢に、モグラは馬乗りになって殴り続ける。
「ふざけるな! だったらあの時、なぜ俺を殴れたんだ!」
「人を殴っていいのは、ボクシングだけです!」
「黙れ!」
モグラは一瞬手を止めた。
大沢をスパーリングで殴る度に思った。弱い。弱すぎる。そのくせ、俺に負けた次の日も、平気な顔でボクシングの強さを乞う。俺が憎しみを教えているのか、俺が憎しみを教わっているのか。
その記憶を消去すると、モグラは全てぶちまけた。
「教えてやる。なぜ高田真理が自殺したか。それは、お前が曖昧だからだ。お前の一番の弱さだ。真理が好きとも嫌いとも決められない。努力も中途半端。そして、認めることさえできない」
モグラは醜い拳で大沢を殴る。真理が憎しみに溢れていたら、こんな風に僕を殴っただろうか。モグラは言う。人間の理を。
「決して変わらない現実を、本当に分かっているのか! お前の歪んだ曖昧の狭間で、女の子は車道に飛び出したんだぞ!」
「その通りです! その通りです!」
リングに倒れ憎しみに溺れた、あの時の血。切れた唇から、グロテスクなものとなって流れる。
「大沢くん!」
小林はモグラを突き飛ばそうとする。だが。
「うわっ!」
猪俣が足払いで小林を止めた。
その時、裏返った声が響いた。
「猪俣さんっ!」
アホンだった。
「猪俣さん、ロケットを持ってきたよ! 早く!」
猪俣が目を覚ました。
「アイツを押さえろ!」
モグラの一言で、他のヤツらがアホンを止めに掛かる。アホンは全ての感情を込めて、猪俣にロケットを投げた!
……
「残念だったな」
モグラはロケットを空中で奪った。猪俣の目は、また曇り始めた。モグラはそれを高く掲げると連中に言った。
「もう満足した。お前ら。大沢、小林、猪俣、そしてアホ面をやっちまえ」
その場は大混乱となった。大沢は戸惑う。小林は立ち向かう。猪俣はしゃがみ込む。アホンは何もできない。モグラは諦めた。こんなガキと本気で遊んでいた自分が、つまらなくなってしまった。
「どいつもこいつも無力だ。正義、弱さ、口先だけ……全部憎しみだ」
だが、次の瞬間。ここにきて、おバカな展開が待ち受けていた。
「バウウっ! ワフワフ!」
犬がモグラにかみついた。
「な、なんだ、この犬は! やめろ、やめろ!」
優美はロケットを取り返し猪俣に渡した。そう。優美は人間の考えることなんて、全部お見通しなのだ。この人からこれを奪って、それからこうして……はい、どうぞ。
「あ、ありがとう。お母さん、お母さん! 私だよ、蚕だよ」
すると、今度は人間が現れた。街灯の逆光で見えなかったが、次第に誰か分かった。こんなカッコイイ登場でなくてもいい気がする。だけど、街灯の位置まで変えたら、それはそれでおかしい。まあ、そういう理由にしておこう。
「もう終わりですよ。モグラさん」
そこにいたのは隆だった。
「なんだ、テメエは。確か天唐高校の教師だったな」
「その通り。高田隆といいます。よろしく……ところで」
隆は側に優美を連れ戻す。この物語の主人公は……そう、この僕だ! 愛犬をなでながら、隆はひとつひとつ教えてやった。
「あなたの今回の計画、最大の成功は猪俣を味方につけた事です。こうしてこのケンカも有利に進めたし、学校から散々個人情報も盗んでくれた。だが、それは最大の弱点でもあったのさ。猪俣の仕業と分かってしまえば、これほど簡単な話もない」
主人公、大沢知也・高田隆。ライバル、小林翼。カギを握る少女、猪俣。忘れてはならないアホン。そして最後に二人の少女。この物語の終わりが近づいてきた。遠くからパトカーのサイレンが響く。
「あの日、弁当箱を忘れたから、職員室へ優美と探しに行ったんです。その最中に、猪俣は個人情報のファイルをすり替えていた。その時こそ、僕は猪俣の存在に気が付かなかったけど、彼女は優美にこれをくわえさせた」
隆はモグラに何かを突き付けた。見覚えがある。そんなにカッコつけられた物でもなかったが、世の中、何が役に立つか分からない。ラベルに「超・極秘‼ NEMURO」って書いてある。
「これが最後の切り札だ! くわえさせたのは、このビデオテープ。ちなみに、内容は僕と坂野のキスシーン。いや、キス未遂シーン。はい、どうぞ」
正義、弱さ、口先だけ……その憎しみの全てに、終止符を打った。隆が最後のヒーローだ。
「猪俣からのメッセージだと思った。アンタは僕の手のひらで泳がされていたのさ。ちょっと泳がし過ぎちゃった気もするけど」
……
「あ、なんだよ! 結局お前が一番バカだ、みたいなその目!」
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