19話 坂野のあだ名は、緑ちゃん
「緑ちゃん、ありがとう来てくれて」
一本の電話で、坂野は大沢との約束を果たせなくなった。完全には断ち切られていない。細く長い糸で物語は続いている。意識はしていたが、目を背けていた。別れを告げたかったが、少年は彼女を許さなかった。そしてその少年は今日、蘇った。
「健太郎くん。目を覚ましたんだね」
病院で眠り続けていた遠藤健太郎は、まさに今日、意識を取り戻した。坂野の恋人。いや、こんな男を恋人だなんて認めていなかったが、自暴自棄になって否定することも出来なかった。
彼は幽体離脱をしていたのだろうか。今日意識を取り戻さなければ、自分が捨てられると知っていたのだろうか。まだ二人が中学生だった頃まで、話を戻そう。
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「坂野さん。遠藤くんのテスト、カンニングをしましたね」
先生に指摘され、坂野は驚いて言い返した。
「そ、そんな。そんな事していません」
遠藤健太郎は、その中学で一番優秀な生徒だった。それに対し、坂野緑は勉強ができない自分が嫌いで仕方なかった。今でこそ天唐高校きっての優等生の坂野だが、それはもう少し後の話だ。
「先生」は素晴らしい職業だと思う。が、この先生は違った。
「困ります。本当に遠藤くんの隣の席は、見逃せない」
テストを取り上げられた。こんな毎日を耐えていたけど、遠藤くんと険悪になるのは耐えきれない。だって、遠藤くんは……そんな想いを、先生が知る由もなかった。
「やっぱり。坂野さんでは答えられない様な問題が正解になっている。いいですか、坂野さん!」
その時、急に声を上げたのが当の遠藤健太郎だ。優等生とは何か。そんな定義はないが、間違いなく優等生である彼が大声を上げた。こんなことは初めてだった。
「せ、先生! 僕、緑ちゃんのテストをカンニングしました!」
教室中がざわざわした。健太郎は、行き当たりばったりな言い訳をする。
「ええっと、緑ちゃんが正解の問題を、僕がカンニングしたんです。だからですね、僕がいけないんです!」
今度は健太郎のテストを先生は取り上げる。私の中での優等生の定義は、私のいう事に口答えをしない。この男子は、言うこと全てに従うはずなのに……カっとなる感情だけで声を荒げた。
「では、この坂野さんと遠藤くんの答えの違いを、どう説明するんですか!」
正直、健太郎自身も何をしているか分かっていないのだろう。言い訳の仕方なんて知らない。普段は何気なく挙手をして、何気なくクラスが満足することを言う。
しかし、まさに今、あわあわと取り繕う彼を見て、その場の生徒が全員笑った。
「先生! 僕、お腹が痛いです! 緑ちゃんに保健室、連れて行ってもらいたいです!」
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それからだ。二人が一緒に勉強するようになったのは。放課後、教室に残って彼が勉強を教えると、坂野はみるみる力をつけていった。
もちろん健太郎も、彼女のためだけに全てを考えていた。気が付くと頭が坂野のことでいっぱい。だけど、自分が知っているのは「勉強」だけ。それを教えること以外には何も思いつかなかった。勉強を絡めないと、坂野と会話ができなかった。
「すごいよ、緑ちゃん! この調子でいけば、天海女子高校に行けるかもしれない」
でも、言いたい。僕は違う事を言いたい。勉強には答えが用意されている。でも……その時、健太郎は答えのない、いや、不合格なら追試などない勇気を出した。
「あのさ、緑ちゃん! あの、その、この映画見に行かない?」
滅茶苦茶に舌を嚙んでいた。しかも、ビックリするくらい大きな声。
坂野には何が起こったか分からなかったし、驚いてすぐには言葉が出ない。だけど、彼女にとってもこれほど嬉しい一言はなかった。
「えっ! ありがとう! ずっとその映画見たかったの!」
「緑ちゃん、面倒くさいぞ。そんなに見たいなら、言ってくれればいいのに」
そう言って健太郎はすぐに慌てた。一回合格すれば、あとは何でも大丈夫なワケないよな。疲れるな。もっと疲れたいな。
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「こうして緑ちゃんを目の前にしていると、天国にいるのか、現実なのか、分かんないね」
ガリガリに瘦せていた。でもそれは、確かに好きだった健太郎……彼は嬉しそうに坂野を見つめる。ゾンビ。坂野には彼がそう見えた。ゾンビは坂野に話しかける。
「映画を見に行く約束をしたっけ。あの時、緑ちゃんが『その映画、ずっと見たかった』って……嬉しかった」
「そんなワケないじゃない。健太郎くんが好きだって言えば、どんな映画でも見に行ったよ」
健太郎は震える手を差し出す。もう少しで届く。病に侵され痩せた手が、坂野を求める。健太郎は優しい金切り声をあげた。
「ごめんね……ずっと会いたかった」
坂野は思い切りその手を払いのけた。
違う世界を、違う思いで生きてきた。乗り越えた思いや、諦めた思い。それすら知らない彼が、許せなかった。健太郎くんは眠っているだけでよかったのに、私は過呼吸になる事も、やるせないため息をつく事もあった。
二人の間には悲しい時間が流れる。
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緑ちゃんへ
ごめんね。僕は優等生なんだ。それも、僕の体が耐えられないくらいに。父さんは僕が「優等生」でいてほしいだけなんだ。
僕は意識がもうろうとするほど、毎日勉強をしていた。父さんは、一日も僕を休ませなかった。
本当は緑ちゃんに告白された日の夜に、死んでいるはずだった。その日、僕を保健室に運んで「健太郎くんのことが好き」って、君が言わなければ僕は死んでいた。その日から僕は、君が心の支えだったんだ。
でも明日、君とデート……いやデートなんかじゃないか。だけど、映画を見に行くはずだったのに、父さんは塾のテストを受けろと言った。
もう耐えられない。さようなら、緑ちゃん。こんな僕の代わりに、素敵な男の子を見つけてね。
遠藤健太郎
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そんな苦い過去が二人の頭によぎった。それなのに健太郎は、さも嬉しそうに話し始めた。まるで、それが坂野にとっても嬉しい事と言わんばかりに。
「不思議なもんだね。奇跡だったらしいんだ。こうして僕が目覚めたのは」
「奇跡を起こす意味なんてない。今、言いたいことは、それだけ」
坂野は憎しみの涙が溢れてきた。長い時を経て忘れたものが、溢れてくる。終わった映画に続きなんて欲しくなかった。聞こえる人にしか届かないモスキートーンを、坂野は思い切り叫んだ。
「電話一本でも掛けてくれたら、飛んで行って健太郎くんを止めた! 素敵な男の子を見つけてね……? 私は健太郎くんなんて大嫌い。人を勝手に支えにして、支えにならなければ逃げて。どうして。どうして、いつも明日の明日になって、私の気持ちを踏みにじるの!」
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坂野はしばらく泣いていた。が、少し落ち着いたようだったので、健太郎は尋ねた。
「さっき言っていた、大沢くんについて教えてくれない? 僕はそれで区切りをつけられそうだよ。そうしてほしい」
坂野は正直に「大沢知也」を健太郎に話した。すると彼は天井を仰いだ。
「僕は、もうすぐ死んでしまうんだ」
「健太郎くん! まだ言うの!?」
「違う! 僕の命はどっちみち、1週間しか持たないんだ」
健太郎は缶コーラを飲んで「昔と少し味が変わったかな」とつぶやく。ここまで追い詰められないと、人間は大切なものが分からないのかもしれない。
眠りの中、暗闇を走り続けた時間と、天国への階段を昇るまでの間。ほんの僅かな隙間しかない、好きな人との時間。無駄にしたくはなかった。
「僕は死のうとした。その思いは叶ってしまったんだよ。少しずつ体をむしばんで、僕の寿命はあと少しで終わろうとしていた。だから、父さんが最期に危険な薬を使って、僕の意識を取り戻したんだ。どうせ死ぬなら、僕に謝りたいってね」
まだ若干18歳。死を間際にした人間にできるとは思えないくらい、彼は笑顔だった。心のモノクロームがエピローグとなってゆく。紡いできた思いなんて嫌いだったのに、坂野は口をぽかんさせるのが精一杯だった。健太郎は今度こそ遺言を告げた。
「その大沢くん。そして緑ちゃん。お互いが大切な人を失うことになるね。もう、僕は緑ちゃんにとって『大切な人』じゃないけど。約束するよ。僕と同じように、自分で死を選んだ高田真理さんと、天国で君たちを見守っている」
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