18話 茶が舞う里の、奈落の底

「おかしいなあ」


 みんなが帰ったボクシング部で、河合先生は頭を抱える。みんなでハイタッチ! 肩を叩いて笑いあった日々は一体どこへ。河合の頭の中はおおよそ分かったが、小泉は丁寧に聞いてあげた。


「どうしたんですか?」

「いやね。昨日、あれだけフィーバーしていたボクシング部に、マネージャーを希望したのは小泉だけなんだ。おかしいなあ。アナウンサーも欲しかったんだが」


 小泉はモップの柄で、コツンと河合を叩く。ボクシング部の顧問という立場も忘れ、タキシードに身を包む河合。色々な意味で、お世辞にも似合わなかった。そのことを、オブラートに包んでいる様な、そうでない様な表現で小泉はくぎを刺した。


「あのですね、女子は『フィーバー』なんて言っているオヤジは嫌いです。それも、かなり」


 その時、猪俣とは違う鋭さを持つ小泉は、その気配を確実に捉えた。やはり現れたか。でもまあ、一対一でけなしあうのも悪くない。小泉に逃がすお情けは湧いてこなかった。


「私についてくるだけじゃ、勝てないわよ」


 見ると扉の陰に坂野が隠れている。小泉は坂野もコツンと叩く。


「まったくもう。部活が終わってから来たって、大沢くんには会えないよ」

「ごめんなさい……」


 小泉は少々驚いた。どうも本気で謝っている。ケンカを売りに来たとばかり思っていたので不意を突かれてしまった。が、借りを作らせるのもアリか。ふう、とため息をつくと時計を指差した。


「明日の朝8時半」

「え?」

「明日の朝8時半に、大沢くんをデートに誘う。つまり、あなたにとってのタイムリミット。今から追いかければ、大沢くんに会えるよ」


 それを聞いても困った顔をする坂野に、小泉はやれやれといった感じだ。小泉は中学生の頃から理解している。男子をどうしたら落とせるか。女子をどうしたら蹴落とせるか。曖昧な概念に明確な答えを持っていた。

 でも、ここまで素直な人は初めてだ。とりあえず、普通に思いついた事であしらった。


「動く勇気のない者に勝利なし。あなたも今日から、マネージャーになりなさい」


 すると坂野は胸を張った。一矢報いるぞ! って、感じだが、内容は少しインパクトに欠けた。威張ってもいいとは思うが。


「帰宅部には、帰宅部のプライドがある!」


 小泉は思った。この女子に、まともな戦法は効かない。よく思う。定石を知らない初心者は、時に上級者を打ち負かす。さてさて。二十分後、彼女は何を思うかな? 小泉は定石以外の一手で迎え撃った。


「もうひとつヒント。彼は今頃、いつもの喫茶店に行ってるよ」


🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵🍵


 アホンと帰っていた大沢。ところが、いつもと違う場所でアホンは別れた。


「じゃあね。大沢くん」

「おい。どうしたんだよ、帰らないのか?」


 アホンは空を見上げていた。どこかで見た空。だが、曇りかけていた。


「僕は猪俣さんが好きだ。共学になってよかった」


 それだけ言うとどこかへ駆けてゆく。大沢は直感的に分かった。今ここでアイツを引き止める重要性を。だが、胸騒ぎがした時にはアホンは見えなくなっていた。追いかけるか。


 しかし、一人の人物が息を切らせて来たので、気持ちがそれてしまった。


「大沢くん! 今日も喫茶店に寄るの?」

「いいや、全然。ゲームセンターに行こうと思ってたけど」

「あ、あの女ぁ……」


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 いまさらだが、喫茶店の名前は「茶舞里奈」という。読み方はサブリナ。学生のカップルも多い。二人もそう見えるのだろうか。コーヒーをふたつ、と頼むと「彼女さんの方はミルク、いりますか?」と、店員に尋ねられた。


「私、天唐高校になってよかったって、今、初めて思うよ」


 ふいに呟いた坂野。その理由は単純だった。今日も二人で勉強……嬉しい瞬間だ。小気味いい音を立てて、ボールペンが走る。坂野は少しうっとりしながら話した。


「唐海高校と合併したから、大沢くんと同じテスト対策をして、同じ目標に向かって頑張る。こんな甘酸っぱい気持ち、生まれて初めてだよ。よかった。天海と唐海が合併して」


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「きーっ! なんで吾輩が教頭の仕事をやらにゃならんのだーっ!」

「いやあ、もうゆかい。下原さん、大丈夫ですか? こんな甘酸っぱい気持ち、生まれて初めてだよ。よかった。天海と唐海が合併して。でも、本当に甘酸っぱいのは、帰ってからのお楽しみ」


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「大沢くん……来週のテスト、学年の77位より成績がよかったらさ」

「よかったら?」

「一緒に映画を見に行かない? あの時の約束、果たせてないし……」


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「緑ちゃん、面倒くさいぞ。この映画、そんなに見たいなら、言ってくれればいいのに」

「だって。健太郎くんにも、都合があるでしょ」

「緑ちゃんに合わせるよ。僕だって、少しくらいなら無理できるよ」

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「……あの、大沢くん?」


 大沢は真剣に悩んでいる。そう。僕は今、重要な時期なのだ。あ、テストがあるから重要なのダ。そして今、僕は天秤にかけているんダ。いやいや。もちろん女の子を天秤にかけるなんて、言語道断、なんてどうだん……なんちゃって。


「そうだな。明日の朝8時半に電話するから、待ってくれないか?」


 バンッ!


「だ、ダメよダメよ! 今すぐ決めて!」

「お前、机を叩くの好きだよな。それに『今すぐ』に『来週のテストで77位』を決めるのか?」

「うう。そりゃそうだけど」


 すると、あっさり答えが返って来た。嬉しい。坂野は誰かに勝ったという、卑怯な欲が沸いて出た。小泉さん。私は私なりのやり方があるけど、あなたみたいに濁ってないわ。一瞬優越に浸ったが、すぐに消した。大沢の次の一言を聞き逃してはならない。


「そうだね。明日、映画でも行こうか。喫茶店で一緒に勉強することはあっても、遊びに行くことはなかったもんな」


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 坂野は久しぶりにドキドキしていた。洋服ダンスを開けてみる。


「ううん。なんかダサいなぁ」


 女子高に入ってから、坂野にとって私服はどうでもよくなった。改めて見ると全部紺色。サクッと洋服でも買おうかな。


 それから男のコの好きそうなポニーテールにするべきよね。で、スカートの丈は、そうそう、このくらいで。香水もちょっとだけ。あの香りが彼は好きなはずよ。


 ……ここら辺の感情なり事情は、作者の虚しい想像(妄想)である。

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