第4話「酒の過ち」

——朝、僕は割れそうに痛む頭を抱えて、目を覚ました。ぼんやりとした視界に、リビングの天井が映る。どうやらソファに寝ているようだ。

霞むように像を結び始めた視界を遮るように、可愛らしい笑顔が僕を覗き込んできた。この笑顔、可愛いという印象と寸分違わない。まるで何かを演じるようで完璧すぎる。

「おはようございます。兄様!」

突然の明るく元気な声に、さらに頭がズキズキと痛む。

「——えっ、ああ、お、おはよう……」

この子は……そうだ、ラウムと名乗る悪魔が、僕の護衛?にと呼んだ女性だった。何だかずっと夢を見ていたようだったが、僕が悪魔の罠に落ちたのは現実だったようだ。

僕に向けられているこの笑顔は、僕を絡めとることに成功した喜びなのか、それとも他に意図があるのか……二日酔いの頭でこれ以上深く考えても結論を誤るのは明白だし、今は考えるのをやめよう。

「さぁ、兄様、愛しのレイにお目覚めの口づけを……」ソファから起き上がれない僕に、少し目を閉じたレイの顔が近づいてくる。

悪魔の罠に落ちた身だ、もう失うものはない——ここは素直に彼女の好意を受け入れ、その可愛さに溺れてみるのも悪くはないだろう。彼女の口づけに応じようと、諦めと期待を胸に目を閉じた瞬間……

「レイ!」

突然響いた大きな声に、頭の中で鈍く響く痛みがさらに増す。

気づけば、僕はレイに手を伸ばしかけていた——声の主に視線を向けると、メイド姿のアンナが、険しい表情でこちらを睨みつけている。彼女はレイの名を呼んだが、その声の強さから察するに、僕を止めることが本当の目的だったのだろう。


不機嫌そうな表情を浮かべたレイは、「もう一息でしたの……」と鋭い視線でアンナを睨み返した。そんなレイを無視して、アンナは僕のそばに腰を下ろし、顔を覗き込んできた。

——美しい。僕を見つめる深緑の瞳に吸い込まれてしまいそうだ。むしろ吸い込まれたい。悪魔の罠に落ちた身だ、彼女の瞳に吸い込まれひとつになるのも悪くはない。

「ご主人様、二日酔いなのではありませんか?」

「ああ、飲み過ぎたようだ……」——分かっていてあの声を出したのか……アンナが本気で僕を止めようとしたのがよく分かった。

「しばらくお待ちください」アンナはすっと立ち上がり、キッチンへ向かう。

まずは水を一杯ほしいのだが、声を出すのもつらい。気休め程度でもいいから、今すぐに楽になるものが欲しい。

「何をしますの?」レイもキッチンに向かったようだ。

未だにぼんやりとした意識の中に、二人の会話が割り込んでくる。

「二日酔いの薬を作ります」

「それならレイのものを……」

「いえ、私のものだけで大丈夫です」

どうやら僕のために、何かを作ってくれるようだ。少し気になる内容だが、酔っているせいで聞き間違えたのだろう。

「レイも知っていたのですか?」

「もちろんですわ。古くから二日酔いには愛する人の……」

「静かに!ご主人様に聞こえてしまいます」

「では、レイから準備しますわ……」

何やら物騒な会話が聞こえてきたが、その内容には似合わない甘く優しい声が僕を包む。こんな声に包まれながら、もう少しくらい眠ってみるのもいいかもしれない。——僕は心地よく意識を手放した。


「——ご主人様……」

アンナの優しい声で目覚めた僕は、レイに支えられながらふらつく身体を無理やり起こす。

「ご主人様、これをお飲みください」

僕はアンナが差し出した、薄い黄色の液体が入ったグラスを受け取った。

「——これは?」

「二日酔いのお薬です」

たしかに薬のような色合いをしているが、飲んでもいいのだろうか?

「ありがとう……」

「それを飲んで、少しお休みになれば治ります」

先ほどぼんやり聞こえてきた物騒な会話に加え、二人からの不穏な目線を感じて、恐るおそるそれを口に含んだ。少し酸味のある不思議な味だが、二日酔いには飲みやすい。

「少し酸っぱいけど、すっきりしていて飲みやすいね」

どこかで嗅いだことのあるような香りと、草のような、甘いような、少し金属的な……不思議な味だった。

「すぐに良くなりますわ。それにはレイとアンナの……」

「レイ!」

レイの言葉はアンナに遮られた。いや、これが何かは探らないほうがいい。僕はもう悪魔の罠に落ちた身だ。知らないほうがいいこともある。

「ご主人様、ベッドでお休みになってください」

「ああ、そうさせてもらうよ」

アンナが身体を支えてくれる。立ち上がれば、ベッドまではなんとか移動できそうだ。

「レイが添い寝いたしますわ」

「待ちなさい」

「離してくださいまし!」

僕についてこようとしたレイは、どうやらアンナに捕まってしまったようだ。ありがとう、アンナ。——できれば大きな声も控えてほしかった。


ふらつきながらも、なんとかベッドに身を投げてしばらくすると、昨夜の不思議な出来事が断片的に脳裏に浮かぶ。そして、今の状況から、それが酒を飲み過ぎてみた夢ではなく、現実だったのだと改めて認識し、少しずつ鮮明になる記憶を辿る。

普通なら理解しがたいことが次々と起こり、酔い潰れて目が覚めたら二人の女性が家にいる。そんなあり得ないことを受け入れている僕も、普通に考えれば理解しがたい存在だろう。

理解しがたいことを理解しようとするのは無駄な話だ。今を受け入れて、少し休んだら先のことを考えなきゃな。

二人が僕のために作ってくれた物騒——いや、心のこもった薬のおかげもあってか、そんなことも考えられるようになっていた。

「心なしか楽になった気がするな……」僕はしばらく現実と夢の境を彷徨っていたが、やがて穏やかに夢の世界へと導かれた。


——目が覚めると、朝の頭痛が嘘のように治っていた。感覚的にはもう夕方に近いようだ。

「仕事がなくてよかったな……」と寝返りを打った僕の目に、濃い赤い瞳の可愛い顔が映る。

「——おはようございます、兄様」

顔を近づけ、小声であいさつをしてくるレイ。うん、可愛い。全てが可愛い。

「……おはよう。何してるの?」

僕の問いに、レイは笑顔を見せながら、小声で答える。

「寝ている兄様を見ておりましたの。では兄様、お目覚めの口づけを……」

ゆっくりと近づいてくる可愛い顔に、胸の鼓動が高まる。だが同時に、どこからともなく大きな声が聞こえてきそうな気がする。

まずは、心を落ち着けてレイに話しかけてみることにした。

「レイ、ひとつ聞いていいかな?」

「何でも聞いてくださいまし」

口づけは冗談だったのか、レイはにっこりと微笑んでいる。

「僕は昨日、椅子の上で寝てしまったと思うんだけど……」

「そうですわ。呼んでも起きませんでしたの」

「朝はソファに寝てた……」

話しながら起き上がろうとする僕の背中を、レイが優しく支えてくれる。

「アンナが運びましたの」

「アンナが?」

起き上がった僕は、思わぬ答えに驚いて振り向いた。

「そうですの。お姫様のように抱っこされた兄様は、とても可愛らしかったですわ」

レイはなぜか頬を赤らめて、僕を見つめている。……アンナがお姫様抱っこで僕をソファまで運んだ?信じがたい——椅子で寝ている僕を彼女が抱き上げたというのか?

いろいろと疑問が湧くが、ここにいても答えは見つからないだろう。僕は寝室を出て、レイと一緒にリビングへ向かった。


扉を開けるとソファに腰を下ろしていたアンナが、僕の方を振り向いた。

「おはようございます。ご主人様」

「おはよう、アンナ」

彼女は少し首を傾げ、心配そうな顔で僕を見ている。「お加減はいかがですか?」と尋ねてくる、その仕草も表情も全てが美しい。

「すっかり良くなったよ。ありがとう」

安堵の表情を浮かべたアンナだったが、すぐに「ところで——レイは何をしていたのですか?」と厳しい口調に変わった。だが、その言葉とは裏腹に、瞳の奥には優しさが滲んでいるようにも見える。

「兄様を見ておりましたの」

レイがアンナから目を逸らす——この二人は仲が悪いのだろうか?

「ご主人様の邪魔をしていたのでは?」

「大丈夫だよ。レイは邪魔をしていないし、僕はゆっくり眠れた」見ると、レイは嬉しそうに僕を見つめていた。

僕は「昨日寝てしまった僕を、アンナがソファまで運んでくれたって、レイに聞いたんだけど」と昨晩の事をアンナに確認してみた。

「はい、とても幸せそうな顔でございました」

アンナがうっとりとした表情になり、レイもうつむいて頬を染めている……二人の口元には、含んだような笑みを湛えていた。

「ありがとう……」

もうこれ以上は聞かないほうがいい、知らないほうが幸せなこともあると、僕の中の何かが訴えてきた。


謎の薬のおかげもあってか、二日酔いもすっかり治った僕は、二人にこれからの話をしようと、アンナの対面に腰を下ろした。

それを見たアンナが静かに席を立ち、僕の右隣に腰を下ろす。その行動の意味は分からないが、右隣がアンナのこだわりなのだろうか?

「それでさ……二人はここで暮らすんだよね?」

状況から考えて、それ以外の選択肢はなさそうだが、確認のために聞いてみた。

レイが僕の左隣に腰を下ろして、「もちろんですわ」と笑顔を向ける。

「私はご主人様にお仕えする身ですので、離れるわけにはまいりません」

どちらかを向くと、二人のペースに流されそうな気がした僕は、正面を向いたまま話を続ける。

「使っていない部屋があるから、そこを二人の部屋にしようと思うんだけど——」

レイが僕の腕にしがみつき、柔らかいものを押し付けてくる。

「どうしてですの?レイは兄様と同じ部屋がいいですわ」

アンナが僕の腕をしっかりとつかみ、巨大な双丘に挟み込む。

「私にはご主人様を守るという使命がございますので、おそばを離れるわけにはまいりません」

僕はこの手に弱いと思われているようだ……不本意ではあるが、この手に弱いのは認めざるをえない。

「護衛っていってもさ、ずっと同じ部屋にいなくてもいいと思うんだ」

何気にアンナに目を向けると、悲しげな瞳に涙を浮かべながらも、微笑もうとしている。

「ご主人様は私を遠ざけようと?」

「当然ですわ!兄様が愛しているのはレイだけですわ」

レイはアンナに勝ち誇ったような笑顔を向けているが、いろいろ間違いが起こりそうなので、「レイも別の部屋だよ」と一応念を押しておく。


——どうやら、二人は何か勘違いをしているようだ。たしかに唐突で説明不足だったかもしれないと反省し、僕は部屋を別にする理由を説明し直すことにした。

「そもそも同じ家に住むんだし、部屋が別になるくらいなら、護衛にも問題はないんじゃないかな?——それに見られたくない事や、見たくない事もあるだろうし……」

レイは思案するように、立てた人差し指でこめかみをなぞる。

「——そういうことですの」

なぜか分からないが、頬をほんのり赤く染めたレイが、僕の強く腕にしがみついた。

「兄様、レイは……我慢しますわ」

「分かってくれたんだ。ありがとう、レイ」

「我慢して、三人同じ部屋でいいですわ……」

レイは頬を赤らめて上目遣いで僕を見つめているが、彼女の思考がどこに向いているのか理解できない。

「なんでそうなった……」

「二人一緒に可愛がってもらえるなら、部屋を分けなくてもいいと思いますの……」

「——そういう意味で部屋を分けるんじゃなくてさ」

アンナも強く腕にしがみつき、なぜか頬を染めている。

「あの——ご主人様……初めての時だけでも二人きりになれませんか?」

それはもう、平時は三人で楽しむことが確定していませんか?

「レイが見ていて差し上げますわ」

「では、私も見ますよ?」

「もちろんいいですの。アンナの時より喜ぶ兄様を見せて差し上げますわ」

ちょっと待て……何を見て、何を見せるって話なんだよ。

「それは、私が先でいいということですね?」

「レイが先ですわ!」

誰が後も先もないし、当事者であろう僕は、完全に無視されてる気がするのだが……これが、護衛という職業の人たちの思考なのか。『先が思いやられる』という言葉の意味を、僕は今ようやく理解した。


これ以上黙っていると、良からぬ被害が及びそうな気がして、「あっ、あのさ……二人とも……」と会話を遮って無理やり話を戻す。

「二人を僕から引き離したいってことじゃないんだ。まずは一度部屋を見てくれないかな?それぞれの部屋があると、部屋に個性が出て、家の雰囲気も良くなると思うんだ」

僕は何を言ってるんだ——さっきの会話をしてた人が、こんな理由で納得するわけないだろう。

直後、レイが僕の腕を離して、すっと立ち上がった。

「兄様がそこまでおっしゃるなら、レイは喜んで部屋を見にいきますわ」

——納得する人が一人いた。

アンナが僕をお姫様抱っこして立ち上がった。

「ご主人様がそのようにお考えとあれば是非もありません。見に行きましょう」

もう一人も納得した——が、なぜ抱きかかえた?……もしかして、納得したような素振りで、抱きかかえるほうが目的だった?

「あの……降ろしてくれない?」

アンナが「昨夜は幸せそうな顔をしておられましたが?」と不思議そうに僕の顔を覗き込む。ここにきて、泥酔した僕の醜態をぶち込んでくるあたり、相当な手練のような気がしてきた。

「——酔ってたからかな……今は降ろしてくれない?」

「では、また酔われた時に」と残念そうな顔をして、アンナは僕をそっと降ろしてくれた。

それと、なぜ、レイが「兄様、可愛らしいですわ」と頬を染めているのか、僕には分からなかった。でも、なぜか恥ずかしい。


だいぶ遠回りをしたが、何とか理解を得たと都合よく解釈して、僕が仕事場として使っている部屋に三人で向かう。

机と本棚とパソコンくらいしか置いてないから、全部僕の寝室へ運べばいいだろう。

「この部屋だけどさ、仕事で使っているものを寝室に移動すれば空になるから、どっちか使わない?」

「レイが使いますわ!」レイは瞳を閉じ、大きく息を吸い込むと、頬を赤らめた。

「この部屋には兄様の匂いが染み付いていますわ……兄様の匂いに包まれて過ごせるとは、至福の極みですの」

部屋の匂いになぜか恍惚な表情を浮かべ、両手で顔を隠してしまったレイを、アンナが抱え上げ三人で別の部屋に向かう。

僕の寝室の隣にある和室だが、しばらく使わないようなものを置いているだけで、ここにある物は捨ててしまってもいいくらいだ。

「今は散らかってるけどさ。片付けたら使えるよ。とりあえず別の部屋に移動すればいいから」

「なぁぁぁ、ずるいですわ!兄様の部屋の隣じゃありませんの!」

「レイが先に選んだのでしょう」

アンナは流し目でレイを見下ろしながら、少しばかりの優越感を漂わせている。

「か、代わって差し上げますわ……」

「結構です!」とアンナは部屋に入り、興味深そうに足元を確かめ始めた。

「この床は変わっていますね」

「畳だよ。この上に寝ると気持ちがいいんだ。他の部屋にもあっただろう?」

「レイも気になっていましたの。これは床に直接寝ますの?」

「それも気持ちいいけど、布団を敷くんだ」

「面白いですわ」レイも興味深そうに畳の上を歩いている。

正直、もう少しわがままを言われると思っていたので、二人があっさり部屋を決めてくれたことに、とりあえず安心した。


——さっそく、僕たち三人は部屋の片付けを始めることにした。

そもそも大した荷物もない上に、大きな荷物はアンナが軽々と運んでくれたおかげで、部屋はあっという間に空っぽになってしまった。

空になった部屋を掃除していると、突然レイが「兄様!」と何か閃いたように声を上げた。

「レイ、どうしたの?」

「ベッドが欲しいですわ」

そう言えば、寝具があるのは僕の部屋だけだった。今日にでも揃えたいところだが、時間的に無理がありそうだ。

「ご安心ください——今日から私はご主人様がお休みの際に同衾いたしますので」

安心の要素が僕には理解できなかったが、アンナは掃除の手を止め胸を張っている。

「うん。アンナの分も買おうね」

アンナが両腕で胸を寄せながら「枕として使っていただいてもよろしいのです……」と僕に近づいてきた。

「——あっ、うん。いい枕になりそうだね」

その誘い方は反則ですよ。こんな間近で見せつけられると、今晩その枕が恋しくなってしまいます。

「ぐぬぬ……そんなの大きいだけですわ……」レイが両手で自分の胸を押さえながら、悔しがっている。

「さ……さあ掃除を済ませたら、夕食にしようよ」このままでは、また二人の不毛な争いが勃発しそうな気がした僕は、話題を変えて掃除を再開する。

「そうですね。夕食の下ごしらえは済んでいますので、すぐに作れます」

「アンナは料理ができるんだ」

「ええ、得意です。幼い頃から母親に鍛えられました」

アンナの言葉は僕にとって意外だった。やっぱり人間の女の子として育てられていたんだ。

「レイは?」

「——料理をしたことがありませんわ」レイは少しうつむいて、両手を握りしめた。

「ご主人様、毎日のお食事は、わ・た・く・しにお任せください」アンナは勝ち誇った顔で押入れのふき掃除をしている。

「——レイにも出来ることがありますわ」と悔しがるレイに、アンナが一瞬目を向けたような気がした。


荷物を移動し、掃除も終わった。外に出した不要なものは、明日にでも回収をお願いするとして、あとはそれぞれに任せて大丈夫だろう。

ともあれ、片付いた部屋を見ていると、二人がどんな風にするのか、少し楽しみになってきた。

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