第5話「小鳥の晩餐」

アンナとレイの部屋を片付け終わると、いつもの静けさが戻った。

知紗がいなくなってから、ずっと静まり返っていた家が息を吹き返したようで少し嬉しい。その代償として、疲れきってしまった僕はソファに腰を下ろし、深く息を吐く。

「夕食の支度をいたしますね」——静かな中にアンナの声が優しく響いた。彼女はキッチンに向かいながら、「レイはご主人様に、お茶を淹れてください」とひとり言のようにつぶやく。

少し落ち込んでいたレイは、アンナの言葉に目を輝かせ、「兄様にお茶を淹れますわ!」とキッチンへ向かう。

そんな、何とも微笑ましい光景に心が安らぐ。料理をしたことのないレイに、簡単な役割を与えるあたり、アンナはとても面倒見がいいのかもしれない。


しばらくぼんやりしていたら、「兄様、お茶をどうぞ」とレイが笑顔でお茶を運んできてくれた。

「ありがとう、レイ」僕は淹れたてのお茶を一口含んで、湯呑みに目を落とす。

「うん。優しい味だね……」とは言ってみたが、かろうじてお茶と判別できるほどの薄味。

「兄様に喜んでもらえて幸せですわ」喜んでるレイに、それ以上のことは言わないでおこう。

「後は寝具をどうするかだけど、今日中に手に入れるのは難しいよな……」

何かを焼きながら、「ご主人様、私たちは眠る必要がありません」とアンナが僕に教えてくれた。

「そうですの。食事も必要ありませんわ」頬を赤らめたレイが、上目遣いで僕を見つめ、話を続ける。

「兄様のお力を注入して頂ければ、その、大丈夫ですの……」

力を注入とは——?きっと、魔力の事だろう……うん。注入方法とか、その辺の詳しいことは聞かないでおこう。

「では、レイの夕食は要りませんね!」

僕に抱きつこうとしていたレイを止めるように、突然、キッチンから少し大きな声が響いた。

「アンナ、ごめんなさい。今日の夕食は楽しみですの……」

よく話が読めないが、人とは違う存在なんだし、そんなものだと理解しておこう。

本当はちゃんと聞いた方がいいのは分かっている。でも、今はまだ……知らない方が、心が楽だった。


成り行きで同居することになった二人の生活用品をどう調達するか——超薄味……いや、優しい味のお茶を飲みながら思案している僕と、その様子をニコニコしながら眺めるレイに、「夕食ができました」とアンナの声が届いた。

ダイニングに移動すると、テーブルに大きな皿が一つ置かれている。——が、ものすごく違和感がある。

「これは、鳥——だよね?」

そう、焼かれた二十羽ほどの小鳥が、大きな皿に盛り付けられている。ひと目で鳥とわかる姿……丸焼きというものだろうか?

「はい、鳥です」アンナは笑顔で答えてくれたが、いろいろと気になることが多すぎる……

「——どこで手に入れたの?」

「獲りましたわ!」

レイの言葉を聞いて、冷たい汗が額を伝う。

「……獲った?」

「はい、レイと一緒に獲りました」

この二人が小鳥を獲ったのか?なんてたくましいんだ。


——串もなく、ただ皿に積み上げられた小鳥二十羽の丸焼き。そこに潜む情報量の多さに、思考の処理が追いつかず、じっと焼かれた鳥を見つめている僕に、レイが話を聞かせてくれる。

「兄様が寝ている時に外に出てみましたら、たくさんいましたの」

たしかに、この周辺は自然豊かで、鳥もたくさんいる。だが、「獲ってもいい鳥なのか?」僕が率直な疑問を口にすると、「獲ったらいけない鳥もいるのですか?」アンナが急に困惑の表情を浮かべた。アンナと同じくらい僕も困惑している。

この二人は一体いつの時代を生きていたのだろうか——だめだ。これ以上疑問を増やすのは愚策でしかない。二人のことはいずれ分かるときが来るだろう——まずは生活、というか常識に少しずつ慣れてもらおう……

「獲ったらいけない鳥のほうが多いかな」

「それは誰が決めていますの?」

レイが不思議そうな表情を浮かべ、僕を見ている。

「法律で決まっているんだ」

「法律とはなんですの?」

「うーん、みんなが守らないといけない決まり。と言ったら分かるかな?」

「万民法のようなものですわ——」

レイはどうやら納得したようだが、万民法って中世ヨーロッパの話じゃないのか?


「申し訳ございません!ご主人様!」

納得した顔でうなずいているレイの隣で、アンナが突然、謝罪の言葉を口にした。

「私が無知ゆえに、ご主人様にご心配をおかけしました。どのような罰でも謹んでお受けいたします」

見ると、アンナはまるで心まで垂れているかのように、頭を深く下げている。そのせいで、さらに強調された巨大な双丘が僕の視線を奪い、煩悩を呼び覚ます。

「じゃあ、そ、その……おっぱ……」——しまった、思わず心の声が漏れてしまった。

「なぁぁぁ!兄様!レイにも罰を与えてくださいまし!」なぜか、レイが慌ててブラウスを脱ぎ始めた。

「じょ、冗談だよ。冗談」僕は慌てて手を振り、少しの情欲があったことを隠すように真剣な表情で言葉を紡ぐ。

「僕は二人に罰を与えようなんて思ってない。それにさ、もう獲っちゃったものは仕方ない、命を粗末にするようなことはしたくないし、冷めないうちに食べよう」

——よし、良からぬ考えがあったことを隠すには完璧すぎる話ができた……はずだ。

顔を上げたアンナは、目に少し涙を浮かべていた。それなのに、僕を見ると、はにかむような笑顔を浮かべる。

「はい、ご主人様の温かいお心遣いに……」そう言いかけて、「罰を望んだのは、私自身だったのかもしれません……」と少し視線を逸らした。

レイは、つまらなそうにブラウスのボタンを……なぜかゆっくり、惜しむように留めると、アンナの肩を優しくたたき、「アンナだけが悪いのではありませんわ」と優しい眼差しで彼女に微笑んだ。

僕は大変な勘違いをしていたようだ、レイは、自分も何かを触ってほしかったのではなく、アンナだけに責任を押し付けることが嫌だったのではないか?ブラウスを直すときのつまらなそうな顔は……うん、見なかったことにしておこう。


ともあれ、もう一つ解決しなければならない問題がある。

「ところで、これはどうやって食べたらいいのかな?」

目の前に盛られた丸焼きの鳥を見ながら呟く僕を見て、レイが小首を傾げる。

そのまま、しばらくじっと僕の顔を見つめていたが、ふいに笑顔を浮かべ、「そのまま食べられますわ」とおもむろに一羽の丸焼きを手に取りかじりついた。

「美味しいですわ。アンナも召し上がってくださいまし」

「レイ、ご主人様より先に手を付けてはいけません」

アンナがレイを窘めるが、気に留める様子はない。

「兄様は食べ方が分かりませんの。アンナも教えて差し上げないといけませんわ」そう言って、もう一羽を手に取り、アンナに手渡す。

アンナは確認するように、「そうなのですか、ご主人様?」と僕をじっと見た。「うん。本当に知らないんだ」と答えると、レイが手渡した小鳥を、一瞬ためらってから受け取る。

「骨は外してありますから、そのまま食べられます。ですが、小さい骨が残っているかもしれませんので、お気を付けください」

アンナも小鳥にかじりついた。

「——そうなんだ」

メイド服姿の美しい女性と、可愛いを体現したような女性が、小鳥の丸焼きを素手で持ちかじりつく姿は、とても異様な光景だ。

「さあ、兄様も召し上がってくださいまし」

レイの勧めに、僕は一羽の丸焼きを手に取り、意を決してかじりついた。

「……美味しい!」塩と胡椒のシンプルな味付けながら、焦げ目がついた皮は香ばしく、柔らかい肉は程よい歯応えを残している。

「ご主人様、お口にあったようで嬉しいです」

「ああ、本当に美味しいよ」

僕の好みを知っていたかのような、シンプルな味が口に馴染む。

夢中になって黙々と小鳥にかじりつく三人。周囲から見れば何かの儀式をしているように見えるかもしれないが、美味いので仕方がない。

僕がよほど美味しそうに頬張っていたのか、レイが笑顔で話しかけてきた。

「兄様、これはアンナが丁寧に料理していましたわ。レイも羽根を取るのを手伝いましたの」

なるほど、野生の小鳥をこれほどに料理するのだから、やはり手の込んだ料理のようだ。——だが、この二人が小鳥の羽根をむしり取る姿はシュール過ぎる。


そんなことより、これは本当に美味い。だが、この味には何か足りない気がする。

僕の頭の引き出しが次々に開かれ、答えを見つけた。——そうだ、ビールだ!

「ビールが欲しくなる味だな」

「それはどこにありますの?」

「冷蔵庫に入っていたと思う」僕がキッチンにある冷蔵庫を指差すと、「冷蔵庫?」とアンナが冷蔵庫を見つめながら、首を傾げている。

「アンナ、あれを開けてごらん」

うなずいたアンナは冷蔵庫に向かうと、恐るおそる扉を開けた。

「中が冷たいです!」

レイも席を立って駆け寄り、「何が入っていますの?」と興味深げに中を覗き込む。

「食べ物や飲み物が入っているんだ。冷やしておくと長持ちするからね」

かっこよく言っているが、僕にとっては、食品をゆっくりと腐らせる機械になっていた……

「兄様、ビールはどれですの?」

「銀色の缶がビールだよ」

小さく顔を動かし中を探したレイが、ビールを手に取った。

「冷たい!すごく冷えていますわ!」

「それを一本取ってもらえないかな?」

「はい、兄様!」

レイが缶を大事そうに抱えて、運んできてくれた。——たったそれだけの動作が、すごく可愛く思える。


冷蔵庫を眺めていたアンナが、期待を込めた目で僕に振り向いた。

「あっ、あの、ご主人様——私もビールを飲んでみたいのですが……」

「うん、僕一人で飲むより、一緒に飲んだほうが美味しいからね」

レイが冷蔵庫に戻り、再びビールを手に取る。

「レイもビールを飲みますわ!」

「レイはダメ!」

「なっ!」僕の制止に、レイは絶望の表情で立ち尽くす。「ど、どうしてですの……」

「お酒は二十歳にならないと飲んだらダメなんだ」

「そんな……それも法律ですの?」

レイが本当に十八歳なのか分からないし、サキュバスに法律が適用されるのか分からない。しかし、十八歳だったと聞いたし、何よりレイがビールを飲む姿は絵的によろしくないと思う。

「そうなんだ。もう少しの我慢だね」

レイは恨めしい目で僕を一瞥した後、そっとビールをアンナに手渡した。

「レイ、ありがとうございます」

アンナは礼を言い、彼女の手から丁寧にビールを受け取る。

「レイはその赤い缶のを飲むといいよ」

赤い缶を手に取り、物珍しげに眺めている。

「見たことのない実の絵が描いてありますわ」

「マンゴーのジュースだよ」

レイは「二十歳と言っていれば……」と呟き、マンゴージュースの缶を抱きしめた。

ジュースを手に席に戻るレイを待って、僕はビールを開けた。僕を見ていたアンナも、真似るように缶を開けた。

「どうやって飲みますの?」レイは缶のふたをじっと見ている。

「貸してください」アンナはレイからジュースを受け取り、ふたを開けて返した。

「凄いですわ。アンナ、ありがとうございます」

アンナは興味深そうに、レイは恐るおそる口をつける。

「美味しい!」「美味しいですわ!」どうやら二人とも気に入ってくれたようだ。

「兄様、これは濃い甘さがお口を幸せにしますわ!」

「ご主人様、これは、苦味とシュワシュワが癖になります!」

「気に入ったのなら、遠慮せず飲んでいいよ」

お礼というわけではないだろうが、二人は満面の笑顔を僕にくれた。


思ったとおり、小鳥の丸焼きとビールの相性は抜群だった。

何も食べていなかった僕は、あんなに苦しんだ朝の二日酔いもすっかり忘れて、ビールと小鳥を楽しんだ。

「ふぅ——美味しかった」

「ええ、美味しかったですわ」

「でも、この鳥をもう獲れないのは、残念です……」

アンナが少しつまらなそうにしているが、もし獲ってもいい鳥だと分かれば、この二人はどれだけの数を獲ってしまうか分からない。

——敢えて調べたりせずに、獲ってはいけない鳥だとしておこう。

「——何か別の方法を考えようか」

「そうですね……」と呟いたアンナが、ふと窓の外を見つめる。少し哀愁が漂う表情に、僕は罪悪感を覚えた。

「冷蔵庫のものは自由に使っていいから」

「ありがとうございます。いろいろ興味深いものが入っていました」

レイは飲み終わったジュースの缶を、大事そうに抱いている。

「これは兄様に頂いた宝物ですの……」

「後で洗って差し上げますね」

アンナの優しい言葉に、レイは嬉しそうに微笑んでいる。


食事を終え、そのまま自然な流れで雑談をする。こうやって話をしながら自宅でご飯を食べたのはいつぶりだろう。

これが悪魔の罠であったとしても……僕は目の前にいる笑顔の二人に感謝している。

不思議なのは、人見知りでかつ、人付き合いの苦手な僕が、二人を当然のように受け入れられていること。まるで、以前からこの二人と一緒に暮らしていたかのようにすら感じる。

そんなことを考えながら、アンナとレイの会話に耳を傾けていたが、やがて心地よい眠気が訪れ始めた。

「そろそろシャワーを浴びて寝ようと思うけど、二人はどうする?」

「シャワーとは?」

「使い方を教えるから、後で使うといいよ」

僕たちは浴室に移動し、二人にシャワーの使い方を教える。

「何てことですの……このような小さなものから湯があふれてきますわ」

「そうですね——これはご主人様の力でなせる技のようです」

二人は何やら勘違いしているようだが、簡単な説明で使い方は理解してくれたし、理屈はどうでもいいだろう。

「好みの熱さで湯浴みとは……貴族でも持てないような贅沢な道具です」アンナは僕に理解できない価値観で感心している。

「そうですわ。レイはさっそく兄様と一緒にシャワーを嗜みますの」

服を脱ぎはじめたレイを、アンナが黙ったまま抱き上げた。

「ご主人様、私たちは冷蔵庫の中の物をいろいろと調べたいので、どうぞごゆっくりなさってください」

「離してくださいまし!」

レイはどこまでが本気なのか分からないが、あんな可愛い子と一緒にシャワーなんて……こっちが恥ずかしいから助かった——少し惜しい気もするが……


シャワーを終えて、リビングに戻ると、冷蔵庫の前でアンナとレイが話している。

「見たことのないものが多いですわ……」

「——そうですね。少しずつ食べてみるのはどうでしょうか?」

「ここは料理の得意なアンナにお任せしますわ」

そんな会話をしている二人に、僕は一冊の本を差し出す。

「この本を見たらどうかな」

離婚直後、気晴らしに自炊を始めようと思い購入していた料理本だ。ちょっと活躍した……はず。

「これは?」

アンナは受け取った料理本の表紙を開き、目を落とした。ページをめくりながら、時折、興味深そうに小さくうなずいている。

「読めるの?」

「ええ、初めて見る文字ですが、なぜか読めるようです」

写真が多いので参考になればと思っていたが、意外な返事が返ってきた。

「これを私に下さるので?」

「参考程度にしかならないかもしれないけど」

「——ありがとうございます」

アンナは本を大事そうに大きな胸に抱いて、穢れのない笑顔で僕を見つめる。

こんな純粋な笑顔ができる子の胸に、劣情のこもった視線を向けてしまった僕の心は、ほんの僅かな致命傷を負った……


猿よりも深く反省している僕の手が、不意に後ろから引かれて振り向くと、「兄様、あれは何ですの?」とレイがテレビを指差す。

「あれはテレビだよ」

「どうやって使いますの?」

僕はリモコンを手に取り、テレビをつけて、レイに渡した。

「——人が中にいますわ!」

「いや、映像だから。気にせずそれを触ってみて」

使わせて少しずつ慣れてもらうことにした。——決して、説明が面倒になったのではない。

レイが慎重にボタンを押すと、画面が一瞬で切り替わり、草を食べるシマウマが映し出された。

「兄様……レイは人を奇怪な生物に変えてしまいましたの……」

レイは目を見開いて、リモコンを持つ手を震わせている。

「さっきのシャワーと同じで、便利な道具。本当に人が動物になったわけじゃないからね」

レイはほっと息をつき、「これも道具ですの……安心しましたわ……」とリモコンを胸に抱きしめる。

「これはレイがいただきますわ!」

アンナに本をあげたのを見ていたのだろう——まあ、好きに使ってくれたらいいけどさ。


「ご主人様」ふいに背中から声がかけられる。一人だった家で声をかけられるのが、不思議でなんか照れくさい。

振り向くと、アンナが微笑んでいた。それを、僕は当然のように受け止める。やはり不思議だ……

「そろそろお休みになられては?」

「ああ、そうさせてもらおうかな」

リビングを後にする僕の背中から、「兄様、お休みなさいませ」「おやすみなさいませ。ご主人様」と二人の優しい声がかけられる。

「おやすみ」

部屋に戻った僕は、ベッドに横になると、一つため息をついた。

『——不思議な一日だった。でも、悪くなかったな』

そして、すぐに意識を手放した。こうして夢のように過ぎた奇妙な一日を終えた。

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