第九話 ―― ドア
十一時を過ぎていた。リビングに座るぺぺの髪を乾かす作業が続いている。濡れたまま寝かせるわけにはいかないし、髪にも良くないかも知れない。
タオルをさらに二枚用意して、こすらないように押さえていく。
いつのまにか雨は上がったようだった。廂から水滴が落ちているが、もう雨音は聞こえない。
ぺぺは背筋を伸ばし、顎を突き出して薄く目を閉じている。今夜は濃いスモーキーブルーにベージュの縁取りが入ったパジャマだ。
「よし、どうだい? これならもう冷たくないだろ?」
さらさらになったぺぺの髪をひと束持ち上げて彼女に触らせる。彼女の毛はとても細い。それなのに、ばらばらにハネたりせず、まっすぐなのが不思議だった。
「……ん」
ぺぺは満足そうに微笑み、すっと立ち上がると、黙ってタオルを持つ僕の胸に抱きついた。目を閉じて、さらさらの頭を擦り付けている。ひとしきりすりすりし終わると、そのまま動かなくなった。
「わかってるよ。眠いんだよな」
両手のタオルをソファに放り投げて、ぺぺがくっついたまま寝室に運んだ。
僕のベッドにぺぺを寝かせ、部屋を出ようとすると、パジャマの袖をぺぺの小さい手がつかんでいた。
「電気を消して暖房を落としてくるよ。先に寝てなさい」
ぺぺの手を取って布団の中に入れてやる。とろんとした目はもう眠っているようだった。
寝室のドアを開けたまま、家中の電気と暖房、ボイラーのスイッチをオフにして回った。
冷蔵庫から水のボトルを出してコップに注ぎ、椅子に座って飲んだ。消灯した家の中は暗く、僕は寝室から漏れるわずかな光を見ていた。
昨日の午後にぺぺが現れてからの僕は、良くも悪くもとても活発だ。もし彼女が戻ってこなければ、僕はこの土日を無為に過ごし、何の感情も湧かないまま眠りにつき、明日の朝からまた機械的に仕事をするだけだったろう。
ぐずぐずしているとぺぺが僕を探しに来るような気がして、コップを流しに置いて寝室に戻った。
ぺぺが眠っているのを確認して電気を消し、ぺぺのために敷いたベッドの下の布団に入り、目を閉じた。
目を開けた。時計を見ると午前三時を回っている。昨夜のようなことは起きていない。上体を起こしてベッドに目をやると、ぺぺはベッドのこちら側に身体を移動していた。片手を頭の下にして、黒髪が顔を覆っている。
このまま放っておくとベッドの縁からこちら側へ落ちてきそうだ。すでに布団から白い膝が飛び出している。
きっと目を醒まして僕を探し、僕が下で寝ているのを見つけて、安心してそのまま力尽きたんだろう。
僕は彼女の身体を押し戻そうと、十センチほど突き出した膝を押した。つるつるした冷たいぺぺの膝。
「……ん、んん」
まずい。起こしてしまったら厄介だ。
僕はぺぺの移動をあきらめて、冷たくなった膝に布団をかけ直した。ため息をひとつついて、再び布団にもぐり、そのまままた眠りに落ちた。
何かの落ちる重い音にまた目を醒ました。顔に息がかかる。視界の左に、驚いたように大きく目を開けているぺぺの顔があった。ぺぺはベッドの上を見上げ、また僕を見た。
真っ黒い瞳が瞬き、楽しそうに光っている。
「ロン、落ちちゃった」
くすくす笑っている。その笑顔の上に、遅れて布団が落ちてきてぺぺは埋まった。
月曜日の朝だ。昨日一日中降った雨が、今朝は嘘みたいに晴れている。
昨夜、落ちてきたぺぺと布団を押さえつけて寝かせようとして失敗し、彼女に逆襲された。身体を入れ替えられ、布団で嫌というほど押しつぶされた僕が降参するまで、ぺぺは大はしゃぎだった。降参した僕が布団から顔を出すと、すでにぺたりと顔を伏せて眠ってしまっていた。
ぺぺの登場で疲弊した僕は先行きに不安を感じていたが、それは自己中心的だ。突然この世界に戻り、しかも人の姿となったぺぺ。慣れない身体、知らない言葉、それに知らない家だ。その精神的、肉体的な負荷は僕には計り知れないものだ。
僕はガスストーブをつけて冷え切った家を暖め、コーヒーを淹れて、昨日のシチューの残りを温め直した。少し考えてツナとレタスの簡単なサラダを作り、納豆のパックも出して並べた。
開け放った寝室のドアから、タオルケットを肩に巻いたぺぺが食事の匂いに釣られて出てきた。
「おはようぺぺ」
「ロン……おはよ。さむい」
「ストーブにあたりなよ。近付き過ぎたら駄目だよ」
ぺぺはストーブの前で小さく丸まった。
朝ごはんを食べ終わり、僕はぺぺの昼ごはんにロースハムとチーズ、それに卵のサンドイッチを作った。食パンに食材をのせて、よく切れる包丁で三角に切っていく。
皿にのせてラップをかけ、ぺぺにラップについて教えた。
洗面所で並んで歯を磨きながら、僕は気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「ぺぺ、もしかしたら猫の姿に戻れないか?」
ぺぺは歯ブラシを咥えたまま止まり、僕を見上げた。
「……たとえば、思い切り身体に力を入れるとか、……呪文? ……いや、そんな漫画みたいなわけがないか……」
もしぺぺが猫の姿に戻れるなら、僕らの生活は昔のような穏やかさを取り戻せるかもしれないと思っていた。彼女の異常な跳躍力や信じられない素早い身のこなし、猫に変身が出来ても不思議じゃない。
「……やってみる」
ぺぺは歯ブラシを口から出した。
ぺぺは静かに目を閉じて、ぱかっと目を開くと、今まで見たことの無いような真剣な顔をした。
目の端が吊り上がり、顎の筋肉が膨らみ、身体中の筋肉がこわばって行くのが見てわかる。ぺぺは小さな手のひらを上に向け、腰の前に揃えると硬く握りしめた。さらに力を入れていく。
やわらかい髪が電気が通ったようにバリバリと折れ曲がり、浮き上がった。
爛々と燃える瞳が妖しい光を放ち始め、ぺぺの身体のまわりの空気が陽炎のように歪でいる。
僕は目を擦り、見間違いじゃないとわかると、思わず後ずさった。こんなぺぺを僕は知らない。
「ぺぺ、やめろ!」
怖ろしい形相になりかけているぺぺ。額に太い血管が浮き、深く濃い青の目が僕をにらみつけた。洗面台の上の鏡や洗濯機がガタガタ鳴り、洗面台の上のコップが床に落ちて水をぶちまけた。
「やめろ! ぺぺ! やめるんだ!!」
僕が真っ青になって怒鳴ると、瞬きするよりも早くぺぺはぺぺに戻っていた。
洗面所の空気がわずかに白くなり、揺らいでいた。
震える手のひらを開いたり閉じたりしながら、ぺぺは小さく舌を出した。
「えへへ。だめだった」
「……あ、あぁ」
僕は額に汗を浮かべていた。あのまま放っておいたら、一体どうなっていたのか。ぺぺがこの世界にいる神秘が、一体何を意味するのかを知らずに余計なことをしたら、何が起こるか分からない。猫に戻るどころか、怪物になってしまう予感があった。
飲み込んでいた震える息を吐きだし、ぺぺの顔を見た。けろっとして歯磨きを続けている。
僕はぺぺの頭に手をのせ、滑らかな毛並みを撫でた。ちがう、髪の毛を撫でた。元通りやわらかかった。
少しでも不在時の不安を減らしたかったのに、逆に違う不安を抱えることになった。
「くれぐれも昨日の言いつけを守るように」
「わかってるよロン。心配しないで」
これが心配しないでいられるか。無自覚に笑うぺぺが恨めしかった。
僕はきちんとスーツを着て、ひげも整え、資料の入ったカバンを横に置いて靴を履いている。
「素敵だよ、ロン」
ぺぺはにっこり笑って僕にカバンを渡し、手を振って送り出してくれた。
僕は玄関のドアを開けて外に出て、閉める間際にしつこく念を押した。
「いいかい、僕以外の人が来ても絶対にこのドアを開けちゃだめだからね」
ドアは閉まり、ぺぺとの間の空間が切り離された。
猫のひと 山羊衡平 @yagikohei
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