第八話 ―― 湯気
再び現れた猫の耳が濡れるのを嫌ってせわしなく動き、次の瞬間、人間だったら頸椎がおかしくなりそうな早さでぺぺが頭を振った。飛び散る飛沫。僕はよろけて湯船の脇に立ててある蓋を倒しそうになった。
顔にかかった髪をかき分けて、ぺぺの濡れた片目が僕をじろりと見据えている。猫の耳は向こうに倒れたままだ。
「ごめんぺぺ。……耳、だいじょうぶか?」
「……平気。……でもきらい」
ぺぺは両手を使って顔の水気を払い、両目が現れた時には、頭の上の耳は湯気に溶け込むように消えていた。
「じゃあ最後に、ここも流して湯船に浸かろう」
僕は狭い浴室にしゃがみ、つるつるとしたぺぺの下腹部にお湯をかけながら、淡い毛が生えている陰部に指先を触れた。
「……!」
ぺぺは反射的に腰を捩らせたが、逃げ出しはしなかった。ただ、僕の肩を強く握った。
僕はぺぺを湯船にいれ、自分の身体も手早く流した。狭い湯船に二人同時には入れない。僕はスポンジとソープの使い方を話し、泡立てて自分の身体を洗っていく。
おとなしく肩までお湯に浸かり、ぺぺは少し赤くなった顔で僕を見守っている。黒い髪が湯気をあげる水面に揺れている。
僕は眼鏡を外した。途端に視界がぼやけてぺぺの表情も読み取れなくなる。風呂に入ると多少見えやすくなるが、それでは追いつかないほど僕の目は悪い。畳んだ眼鏡を棚に置き、僕はこれだと思った。見えなければ、生理現象は起きまい。
洗髪も済ませてぺぺと交代する。ぼんやり霞む僕の視界。お湯を弾き立ち上がる彼女の濡れた身体、流れ落ちる水の音、彼女の息づかいと甘い香り。僕は想像力と聴力が増幅されていることに気がつき、戦慄する。
肌を触れ合いながら身体を入れ替えるころには、僕はまた昨夜のようになっていた。これじゃ逆効果だ。僕は硬くなったそれを彼女に見つからないように、急いで湯船に体を沈めた。
僕が入ると湯船からお湯が溢れる。洗い場に洪水が押し寄せ、流された小さな樹脂製の椅子が間抜けな音を立て、ぺぺの笑い声が浴室に響いた。
「僕がやったように自分の身体をスポンジとソープを使って洗ってごらん。その椅子に座るんだよ」
ぺぺは浴室の鏡の方を向いて座り、ちいさな棚に並ぶポンプ式のボディソープにスポンジをあてがい、猫パンチの要領で猛プッシュをはじめた。一音に聞こえる恐ろしい連打。良く見えないがきっと無表情だ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て!」
何の音だろうとぼんやりしていた僕が慌てて止めた時にはすでに夥しい量のソープが噴き出していた。
僕は湯船から身体を乗り出してぺぺの腕を押さえ、まるで時間が止まったように、ぺぺの持つスポンジに溢れる白い液体を見て、空になったであろうボトルを見て、そして僕の目の前で、驚いて大きく目を見開いているぺぺの顔を見た。
……彼女の視線の先は僕の股間だった。
僕は逆再生のように湯船に戻り、見苦しく勃起してしまった自分を恥じてうつむいた。ぺぺの顔は真っ赤だった。五十年以上生きてきて恥ずかしい思いは何度もしてきたが、これほど恥ずかしい目には遭ったことがない。飼い猫に発情している自分を見られたのだ。ぺぺに僕の硬くなった……醜い現実を見られたのだ。
「や、やだ……ロン……」
恥じらうような小さい声が聞こえる。僕は今すぐ死んでしまいたかった。でもここが堪えどころだ。
「……これは! ぺぺ! ……これはな! ……さっき、話したろ? ……男女の、違いなんだ」
ぺぺはもうこちらを見ていない。肩をすくませて背中を見せている。なんてことをしてしまったんだ僕は。
「……ロン……あたしだってそれくらい知ってる。……気にしないで」
ぺぺが立ち上がった。出ていく気だ。
「ぺぺ、待ってくれ! ……髪を、君の髪を洗わないと、僕が洗ってあげるから」
何を言ってるんだ僕は。今日中にできることはやってしまおうという考えの方を優先するなんて。
「…………わかった。早くして」
ぺぺは立ち止まってくれた。こんなに僕を信頼してくれて嫌いな風呂にも入ってくれたのに、僕はそんな彼女を見て勃起した。なんてみっともない男なんだ。
僕は彼女をもう一度座らせ、後ろに立ってシャンプーを五回ほどプッシュした。女性の髪を洗ったことなんてほんの数回しかないしそれも大昔だ。
ぺぺの小さい頭を指の腹で解いていくと、セミロングくらいの長さの真っ黒い髪が、シャンプーの泡でどんどん白く盛り上がっていく。浴室を甘い芳香が満たしていく。
「目を開けちゃだめだぞ」
今にも折ってしまいそうな長い首筋と小さい肩が現れ、僕はあまり見ないようにしながら、なめらかな生え際も丁寧に泡立てていった。それでも、その工芸品のようにシンプルで奥深い、謎を秘めた身体から目を離すことができない。
手のひらで目を覆ってやり、シャワーで洗い流す。なだらかだった肩がまたすくめられ、この小さい身体のどこにあんな跳躍を生む爆発力があるのか、僕にはさっぱりわからなかった。
丹念にすすいだ後、仕上げのクリームを髪に馴染ませていく。顔にかかる髪を分けてやると、不安そうな顔のぺぺと目が合った。
「……良く洗った後はこれを使うんだよ。君の髪質に合うかわからないから、何日か様子を見てみよう」
ぺぺは自分でそのとろみのある黒髪を触り、また僕を見た。
「……ロンがやってよ。ロンやって?」
僕は逆らえない。あんな姿を見せられても彼女はまだ僕を信頼してくれている。そんな彼女の要求を拒否できるはずがない。
僕はまだ老人とは言えない。老いを感じているが、中身はてんでまだまだガキなのかもしれない。元猫とはいえ若い女の子に右往左往させられ、あまつさえ、娘ほども年下の女の子の身体に欲情し、バカみたいにおっ立てているのだ。
「……自分でできるようになるまでだぞ」
ぺぺは僕にやってくれと言っているのだ。いつできるようになるんだ?
にこっと笑ったぺぺが僕に体を向けて両手を差し伸べた。綺麗な曲線を描く細長い身体がくにゃりとねじ曲がり、僕に巻きついた。
「ロン、大好き」
クリームが垂れてぬるぬる滑るぺぺの乳房が僕の身体にやわらかく押し当てられた。僕に密着し、するすると滑り上がってきたぺぺの顔が僕の耳の横に来て、そのまま僕の耳たぶを強く噛んだ。
何をどう言い訳しようが手遅れだった。僕は射精してしまった。
彼女の腕は僕の背中をしっかり抱いていたし、僕は彼女を押しのけることはできない。抵抗できなかった。
ビクンと跳ねた僕の身体の振動がぺぺにも伝わり、彼女は僕の目を覗き込み、視線を下に向けて息をのんだ。
「……ロン、ごめん。あたし……」
「…………いいんだ」
僕はのろのろと身体を起こし、黙ってシャワーでそれを流した。
ぺぺの身体にもたっぷりかかっていて、僕は目のやり場が無かったが、黙々と洗い流した。浴室の壁にもその暴発は飛び散り、さながら凄惨な殺人現場のようだった。
淡々と作業を終え、ぺぺに上がり湯も使わせて僕らは浴室を出た。棚に積んだタオルを取り、ぺぺの髪をタオルに包んで軽く揉み、全身の水分を拭き取った。僕は感情のスイッチを切っていた。一度出してしまったのでもう大丈夫だ。足をあげさせ、指先を拭いてやり、細い太ももの間の翳りもタオルで拭いてあげた。
彼女は伏し目がちになり、僕らは何も話さなかった。
自分の身体を拭いて下着を履き、彼女の頭をタオルで包み、用意した新しい下着とパジャマを着せてあげた。
僕は彼女にかしずく年老いた執事のように、買い物リストにドライヤーを加えた。
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