第七話 ―― 口笛

 雨はずっと降りつづけている。どこかの町で土砂崩れなどの水害が起きているかも知れない。

 僕の長い話はえんえん五時間以上続き、ときどき休憩をはさんだ。ぺぺに水を飲ませ、僕はコーヒーを飲んだ。

 何度目かの休憩で、僕がコーヒーのフィルタの入っている棚を開くと、そこに煙草が一本だけあった。

 ぺぺは知らない顔をして、両手でコップを持って水を飲んでいる。僕はその煙草を、ぺぺの骨壺の前に置いた。

 午後七時半。雨音がずっと一定なので、僕は時間を忘れて話し続けていた。ぺぺも辛抱強く僕の話を聞き続けた。

 リビングで二人でテーブルを挟んで座り、少しでも君が人として生きやすくなればそれでいい。そう思って話しはじめたのだが、想像していたよりもずっと長い話になった。


 ときどきぺぺは質問をした。そのたびに前に話した話題に戻ったり、まだ話していない話題に飛んだりしたが、彼女は決して話上手ではない僕から目を離さなかった。真っ黒い瞳が好奇心の光を放っている。

「あたし、ロンがこんな物知りだなんて知らなかったな。びっくりした」

「……ぺぺ、僕がいくつだと思ってるんだい? この程度のことは誰でも知ってることだよ。君も人でいる時間が長くなっていけば、すぐに自分で知っていくことばかりさ」

「…………ロンが教えてくれる方がいい。……あたし、まだ聞いてあげられるよ?」

「……そうかい? ……でももうこんな時間だ。続きはまた今度にしてご飯にしよう」

 僕は立ち上がり、キッチンへ向かった。ぺぺもついて来た。喉がざらざらだった。


 ぺぺに炊飯器をまかせ、僕は野菜を刻み、鶏のもも肉をひと口大に切り、塩コショウをふった後、小麦粉をまぶし、鍋にバターを溶かして肉を焼いた。ぺぺは僕の隣で米を研ぎ、慎重に水を捨てたりしている。

 僕はその愛らしい姿を見ているうちにすっかり楽しくなり、下手な口笛を吹いた。『タイム・イズ・タイト』という昔の曲だ。僕が首でリズムを取っていると、ぺぺが口笛に合わせて肩を揺らしはじめた。僕が菜箸で鍋を叩くと、ぺぺはシンクのへりを手のひらでぺんぺん叩いた。

 僕らは笑い合い、ぺぺはぞっとするほど美しい笑顔を浮かべて飛び跳ねている。


 今日の晩ごはんは、鶏肉と白菜のクリームシチューだ。トマトのサラダも作った。

 牛乳もたっぷりで喉にやさしい上、煮込んだものなので猫の消化を妨げたりはしないだろう。そもそも、消化器官が猫と同じなのかどうなのか…。

 ぺぺがスープ皿に舌をそーっと近づけている。髪が汚れるからと僕が注意すると、ぺぺは両手で顔の横で揺れている髪をつかみ、おさげのようにして皿から遠ざけた。

「ぺぺ、舐めてもいいけど、スプーンも使いなよ」

 ぺぺは頷きながら、おいしそうにシチューを舐めている。明日、髪留めを買っておこう。

 昨夜の訓練の甲斐もあり、彼女は箸の使い方をマスターしていた。驚くべき習得の早さだった。もしかしたら言葉や話し方と同様に、肉体を操る術も勝手に習得しているのか。僕はぺぺがここにいるという事実だけに満足し、その他のことについて無頓着すぎたかも知れない。

 いずれにせよ、僕たちは二日目にして、二人きりの食事を心から楽しんだ。僕はときどき箸をおき、明日の注意事項を追加した。


・もし僕以外の誰かが来ても絶対にどのドアも開けないこと

・常に家の外を警戒すること。窓から知らない人が見えたら姿を隠すこと

・食事はテーブルに用意してあるものを昼の十二時になったら食べること

・飲み物は冷蔵庫から好きなものをコップに注いで飲むこと

・眠くなったら僕の布団で寝てもいいよ ←追加


「冷蔵庫にバナナがあるから、おやつ代わりに食べてもいいからね」

 僕は冷蔵庫からバナナの房を取り出し、ぺぺに見せた。

「こうやって、一本ずつ取って、皮を剥いて食べるんだ」

僕は半分ほどバナナの皮を剥いてやり、手渡した。ぱくっと頬張るぺぺ。目が輝いている。

「バナナ好きかな? 果物はいろいろあるから、今度はリンゴやミカンも買ってきて食べようか」

「……バナナ甘いね。好きだよ。リンゴとミカンてどんな果物なの?」

 ぺぺは猫だったから、素材そのままの味が口に合うのは間違いなかった。僕はいろいろな果物の名前を教えてやり、バナナについては、さっきまで話していた国についての話題に追加して、フィリピンという国についての僕の知識と、このフィリピン産のバナナが日本に輸入されている経緯について話した。

 今度地球儀も買ってあげよう。


 午後九時、僕は浴室に行き『ふろ自動』スイッチを押して湯船に蓋をした。今日の最後の仕事だ。ぺぺに風呂の入り方を教える。二十分もあれば湯船にお湯がたまってボイラーは止まるから、もう僕は逃げられない。

 昨夜の情けない生理現象の記憶がまざまざと蘇り、僕は憂鬱になりながらリビングに戻った。いつの間にか眠ってしまったが、ぺぺの喉が猫のように鳴らなければどうなっていたのか。

 ぺぺは屋根裏に上る階段の途中に座り、僕を見つめていた。猫の時もそうだったが、身体が大きくなってもピタリと静止している生き物は見つけにくい。

「ぺぺ、これからお風呂に入るよ。覚えてるかな? お風呂」

 ひゅ、と息を吸い込む音が聞こえた。ぺぺの小さな顔がみるみる青ざめていく。

 風呂が苦手な猫は多い。猫だったころのぺぺには僕も相当手を焼かされたのだ。


「あたし、お風呂はいいよ。お腹いっぱいだから」

 知恵を付け始めている。

「だめ。人はお風呂に入って清潔に暮らすものなんだ。あきらめなさい」

「!」

 案の定ぺぺは風を巻いて飛んで逃げようとした。おそらく階段を蹴って飛び出したのだろうが、軌道を予測していた僕は、弾丸のようなぺぺの身体を空中でがっちり捕まえた。

 怖ろしい勢いに大人の身体の僕がぺぺと一緒に七メートル近く飛び、リビングのソファを飛び越えて床にどすんと落下した。ぺぺは僕から逃れようと僕の腕をぎゅうぎゅう押してくる。僕は両腕を彼女の背中に回して抱きしめているから簡単には逃れられない。

「いやっ! いやだったら! 離してロン! あたしお風呂はやなの!!」

「だめだ! 言った通りだ! 人は風呂に入るんだ!」

 僕はぺぺが全力を出していないと感じた。もしぺぺが本気で怒って爪で攻撃してきたら、僕の身体はささらのようにずたずたに切り裂かれるはずだ。猫だった時と何も変わっていない。

 やがてぺぺは身体の力を抜いた。顔が笑っていた。

「……懐かしいだろ?」

「ロンに捕まるのひさしぶり……」

 床に座り、話をつづけた。健康でいて欲しいからという理由で説得する僕に彼女はため息をつき、しぶしぶ折れてくれた。絵に描いたような嫌そうな顔をしていたが。


 浴室から電気的なメロディが聴こえてきた。脱衣所に入るなり、すぐに裸になるかと思ったぺぺが身体を硬くして突っ立っている。僕は入り口のドアを背にして服を脱いだ。逃がさないためだ。そして愚図るぺぺのジャージを問答無用で脱がしていった。脱がせやすい服で良かった。僕の指先は震えていた。

 見ないようにしても目に入ってくるぺぺの身体。その人間離れした機能を感じさせる美しすぎる骨格があらわになる。明らかに人間だが、わずかにバランスが違う。何が違うのか確かめたくなる妖しい欲望が僕の好奇心を刺激し、その青白い裸から目が離せなくなる。

 ぺぺが眼を細くして見上げていた。

「…………やだ。何? 見ないで」

「……あ、いや。何でもないんだ。入ろう」

 僕は我に返り、急いでドアを開け、湯気で白く煙る浴室にぺぺを促して入った。上気した顔を見られたくなかった。


 シャワーの湯でぺぺを濡らしていく。丁寧に足先からはじめ、彼女の血行、高い体温と早い鼓動を怖れ、ぬるめのお湯で温めていった。ぺぺは握った手首を胸の高さで揃えて微動もせず、僕をにらんでいる。

「……熱くないかい?」

「…………平気。早くして」

 この言い方は猫の時と同様にこれからも僕に洗われると考えている。

「さっきも言ったろ。今日は一緒に入るけど、これからは一人で入ってもらうからな」

「…………絶対やだ」

 僕は黙って頭からお湯をかけた。

「やだ! きらい!!」

 黒い髪が顔に張り付き、ぺぺがさらに身体を硬くする。暴れないだけ立派だった。

「……え!?」

 僕はシャワーをぺぺの頭から離した。ぺたりと後ろ向きに伏せた猫の耳が、濡れた彼女の髪を押し上げて現れた。

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