第六話 ―― 種族
家全体を揺らすほどだった風がやわらぐと、すぐに雨が来た。大きな音を立ててあっという間に地面を黒く濡らした。かなりの雨量のようだ。
僕は窓辺から離れ、目でぺぺを探した。仕事部屋のドアの前で中の様子を窺っている。あの部屋は掃除しなかったから、気になるのかも知れない。
「ぺぺ、入ってもいいよ」
僕はそう言って、部屋に入っていくぺぺの後に続いた。
六畳ほどの部屋の奥にL字の天板を入れて、その上に二台のモニタが椅子を囲むように並び、天井すれすれの大きい書棚が四台、左右の壁に沿って並んでいる。ぺぺは目を細め、大きさも色もさまざまな本の背表紙を眺めている。きっと匂いを嗅いでいるんだろう。ぺぺはときどき僕を振り返り、何か言いそうになっては口を閉じ、四つ全部の書棚を眺め終わると、僕に向き直った。
「……ロン、ここはお部屋の匂いがするね」
それだけ言うと、ぺぺはうつむいて、ぽろぽろと涙をこぼした。
お部屋とは、きっと猫だった彼女が死んでしまうまで僕と一緒に暮らしていた、あのアパートの部屋のことだろう。あの部屋に置いていた本のほとんどは、いまはここにある。
僕はぺぺの頭をそっと撫でた。
「よく覚えてたね。あの部屋にあった本はここにある。思い出してるのかい?」
玉のような涙をあとからあとからこぼしながら、ぺぺは顔をあげた。
「……あたし、ロンをおいて死ぬのが嫌だった。あなたが一人になってしまうから」
僕は驚き、胸が締め付けられた。
「…………君の、言うとおりだ」
声が震えるのを抑えられない。あとは言葉にならなかった。あの時、ぺぺは、僕を案じながら死んでいったのだ。なんてことだ。
僕は彼女の心配した通り、何もかも投げ出し、自分の人生をまるで消化試合のように無為に費やした。空っぽの十二年を僕はほとんど覚えていない。覚えているのは、ぺぺのことだけだった。
彼女は僕の背中に両手を当て、僕のシャツを涙で濡らしている。天井を見上げながら、僕は涙を堪えている。
ぺぺが人間の姿となって戻って来た理由を聞きたかった。でもなぜか聞けなかった。聞いてはいけない気がしたのだ。きっとぺぺは、いつか本当のことを知らせてくれる。何の根拠もなく、僕はそう考えていた。
雨はさらに激しく森を打ち、屋根を叩いている。
僕は椅子に座り、あいかわらず続けている仕事の話をぺぺに聞かせてみた。猫だったぺぺにもこんな話を聞かせていた。当たり前だが、あの頃とまったく同じ表情をして聞いている。僕は少しだけ笑った。ぺぺも楽しそうだ。
「じゃあロン、明日はその‟打ち合わせ”で出かけるの?」
「そうなんだ。だからぺぺには留守番をしてもらいたい。朝から出かけて、多分戻るのは二時すぎくらいになると思う。……大丈夫かな? 君はもう猫じゃないからね」
猫じゃないのに誰にも姿を見られてはいけない。おかしな話だ。ぺぺは僕から見ても普通じゃないところが多すぎる。しかも誰もが振り返るほどのとびきりの美人だ。目立ちすぎる。かといって、ずっとこの家に隠し続けるわけにはいかない。家猫だったぺぺに、広い世界を見せてやりたい。
僕は辛抱強く、何度も繰り返し、誰にも見られないように行動することをぺぺに理解させた。家猫だったぺぺが人間に変わったことさえ上手く消化できていないのに、僕は誘拐犯が人質の行動を制限するような話をしている…。
「…………言うとおりにする。……でもロン、あたしはいつだってロンと一緒がいい」
ぺぺが僕をにらんでいる。真っ黒な瞳が細くなり、小さな炎が揺れている。
「……これは僕らの暮らしの基礎になることだ。いいかい? 僕はときどき別の町へ出かける。でも君を他人に見られるわけにはいかないから連れていけない。……分かってくれるまで説明するよ。僕だって君を一人にはしたくないんだ」
「……言うとおりにするって言ったでしょ。……ロン、もういいよ」
僕はこの町の行政機関、特に警察が永遠に怠け者でいることを願った。もしぺぺが発見され、行政の手に落ちれば、彼女はきっと酷い目に遭う。ぺぺを守るためなら、いくらでも嘘をつこう。彼女は何も言わないが、死を超えてここにいるぺぺは、きっと想像もできないような経験をして、僕のために戻って来たのだから。
僕は犯罪者になることがほぼ確定したというのに、まるで長いトンネルを抜けたような、明るい気持ちになっていた。
雨がひどくなり、家の周囲は白くけむり、まるでこの世の果てのように孤立し、外界からの断絶を感じた。
これでいい。僕はこの世界のすみっこで、ぺぺとふたり、静かに暮らそう。……僕はできもしない夢想を嗤った。
「ぺぺ、しっかり頼むよ。君がなぜ戻って来たのか僕には分からないけど、君のその姿は……」
人間が暮らすために作られた世界で、ぺぺは人間の身体を伴って再生した。それは猫よりも遥かに自由に活動できるということだ。
「猫だった時よりもいろんなことができるだろう? ……でもそれは君がどこへでも行けるということではないんだ。君は人のように見えるけど、人とは違う。……きっと人間たちは君を捕まえる。捕まえられるのはイヤだろう?」
ぺぺはこくりと頷いた。猫は追いかけられるのを嫌う。
「……ロン、あたし……猫がいい。……でも、ロンと話すのは好き。……ロンの声が好き」
僕の服の襟を、ぺぺは細長い指で、摘んだり引っ張ったりしている。
「僕も君の声が好きだよ。君の言葉も好きだ」
ぺぺは恥ずかしそうに視線を落とし、僕に背中を向けて部屋を出て行った。思っていたよりもジャージが良く似合っていた。
部屋を出て、ぺぺを探す。彼女はダイニングのそばのベランダへ続く大きい窓の前に立ち、猫だった時と同じようにじっとしている。
僕はリビングのソファに座り、予定を考える。
明日は月曜だ。仕事の打ち合わせのために街へ出なければいけない。片道一時間近くかかるため、帰りはどんなに急いでも午後になるだろう。
今日中にできることは全部やってしまおう。
ぺぺは知らないはずの言葉を次々に取り込み、会話も巧みになってきている。放っておいても身につくのかも知れないけれど、ここで人として暮らす上で知っておくべきことは知識として持たせたい。
火についてからはじめ、生活に必要な知識を系統だてて話した。そして社会の存在とその意義、そして流通の仕組みについて話した。
「……みんなで暮らすの? ロンは?」
僕はもう一度流通について話した。
「人間は生きるための仕組みをたくさん作って、それに囲まれて暮らしてる。この仕組みが無いとお店には何も無くなってしまうんだ。ぺぺが食べてた缶詰は、僕には作れないんだよ」
そして貨幣経済の簡単な仕組みを話し、僕は財布から硬貨と紙幣を出してぺぺに見せた。人間はこのために殺し合うことを話した。
「たくさんあるといいの?」
百円硬貨を齧ろうとするから取り上げた。
「そうだね。これさえあれば何でも買える。でもお金じゃ買えないものの方が大事なんだ」
不思議そうに僕を見る君がまさにそれだ。
法と国家の話は歴史を遡り、人種の違いについて話し、戦争について話した。宗教については触れなかった。
「…………それは、縄張り争いと同じ?」
「……そうだよ。僕ら人間は世界中で殺し合って、土地やお金を奪い合ってる」
戦争で死んだ人の数を教えた。桁数も教えなければならなかった。そしてそれがいまだに続いていることを教えた。
僕が悲しい顔をすると、ぺぺも悲しい顔をした。いつのまにか夜になっていた。
地球についての長い話をした。僕というフィルタによって多少の偏りが生じるのはやむを得ないとしても、人類の歴史は明らかに虐殺の歴史だった。僕は愚かな人類に属することを恥じ、何度も言葉を詰まらせた。
人間そのものの多岐に渡る営みの話を、まったく何も知らない誰かに話す機会は無いだろう。けれど、もしもその機会に恵まれたなら、僕が言葉を詰まらせた理由が分かるだろう。
血まみれの醜い歴史しか持たない人間たちを、生物界の仲間と認め、愛情を捧げてくれる純粋無垢な生き物たちを思うとき、僕は泣かずにはいられなかった。人類は何ひとつ、この星に暮らす生き物たちに誇れるような種族ではないことを思い知った。
いつの間にかぺぺは僕の膝にあごをのせて僕を見上げていた。
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