第五話 ―― 骨壺
強い風に森の木々が煽られている。時折窓がガタガタと揺れていた。雨が降るかも知れない。
僕は目を開けて、天井のシミを眺めている。たっぷり眠った充足感があった。いつもはこんなに深くは眠れない。
ぺぺがいない。
部屋を見渡し、箪笥の上を見て、ベッドの下のぺぺの布団を見た。いない。ベッドから降りて時計を見ると九時近かった。ぺぺとの再会から始まった様々な出来事の疲れもあったが、我ながらよく眠ったものだ。
どんなに狭い家の中でも、ぺぺは忍者のように姿を消すのが得意だった。一緒に暮らしていた頃からそれに慣れていた僕は慌てなかった。リビングを通り抜け、冷蔵庫から水のボトルを取り出して一口飲んだ。
おい待てよ。彼女を亡くして、もう二度と塞がらない心の大穴が出来たはずだろう。
あれだけ喜んだのは誰だ?お前自身だろう!
それが昨日戻ったばかりのぺぺが姿を消しても慌てないなんて、図々しいにもほどがある。そう考えた時、僕の心臓は早鐘を打ち、額に嫌な汗が浮かんだ。
「……ぺ、ぺぺ! どこだい?!」
何も聞こえない。僕は真っ青になり、やめてくれ、もういかないでくれと祈りながら、家中を走りまわった。風はますます強く、森が騒々しくざわめいている。
ぺぺがいない。どこにもいない。
僕は汗まみれになってリビングの真ん中に立ち、考えた。仕事部屋も見たしトイレも見た。浴室も見た。誰も使っていない部屋も見た。階段を上り、屋根裏も今見てきた。どこにもいない。
僕は絶望し、もう一杯水を飲もうと冷蔵庫からボトルを出した。
キッチンの窓の向こうにぺぺがいた。僕は息を吸い込んだ。あの場所だ。
ぺぺはすっくと立ち、こちらに背中を向けている。遠い海の方を向いている。
パジャマが風に押されて忙しく揺れ、細い身体のラインが浮かんでいた。風にちぎれた枯れ草が飛ばされ、すぐに見えなくなった。
僕は身体をかがめ、飛ばされそうな風に逆らい、ぺぺの横に立った。
「寒くないのかい?」
「……平気。ロン、おはよ」
「……おはよう。……何してるんだい?」
「…………何でもない。朝ごはんは? ……あたしお腹空いた」
そう言ってぺぺが顔を向けた。僕は何とも言えない違和感をその静かな表情に見つけていた。
昨日のぺぺじゃない。一晩で成長したのか。
森はさらに大きい音を立て、濃い灰色の低い雲が東の方へすごい速さで流れていった。
暗い朝。ダイニングテーブルの上に吊った電気をつけて、二人で卵サンドを食べた。半熟のゆで卵を潰して、薄く切って水に晒した玉ねぎと一緒にマヨネーズで和えただけの簡単なものだ。遅い朝ごはんだった。
ぺぺは昨日よりも背筋が伸び、綺麗な指を上手く使って、マーガリンを塗ったパンに卵を乗せて二つに折り曲げ、おいしそうに食べている。僕はコーヒー。彼女は温めた牛乳を小さいスープ皿に入れ、木のスプーンで飲んでいる。
「……ロン、向こうに海があるね」
「…………どうしてわかったんだ」
「匂いがするもん」
当たりだ。ここから町を抜けてなだらかな長い坂道を下っていった先に小さな湾があり、漁港がある。
僕はコーヒーカップを片手に席を立ち、コンロの脇に置いてあった煙草の箱を探したが見当たらない。灰皿も使い捨てのライターも消えていた。どこかに移した記憶はない。換気扇の横の作り付けの棚に入れたカートンもなくなっていた。
振り返り、もくもくと卵サンドを片付けているはずのぺぺの顔を見た。
彼女は両手をテーブルの上に揃えて、瞳孔の開いた真っ黒い目で僕を見返していた。
作り付けの棚を右から順番に見て行き、僕は独り言をつぶやいた。
「……えーと…………煙草が……無いなぁ」
「…………おかしいな……どこに置いたんだろう」
ちらっとぺぺの顔を振り返る。彫像のように同じ姿勢で、顔だけがこちらを向いてピタリと静止している。だるまさんがころんだをやってるわけじゃない。
顔に書いているとはこのことだ。犯人はこの手癖の悪い猫だ。でも暴く術がない。
僕は煙草をあきらめた。何の証拠もないのにぺぺを責めるわけにはいかないし、何より、ぺぺが戻ってきたことの方が煙草なんかよりも大事なことだ。
ぺぺは涼しい顔をして、残りの牛乳をせっせと口に運び、最後は皿のふちに唇を当てた。行儀がいいとは言えないが、すっと伸びた背中で暖めた牛乳を飲み干す様子は、まるで見てはいけない儀式のようだった。
「……ぺぺ、ごちそうさまかな?」
「うん。ロン、ごちそうさまでした」
「いただきます」と「ごちそうさま」は教えたが、「ごちそうさまでした」は教えてない。日本語の能力が昨日のぺぺとは一味違うのを感じる。
この後の予定を考えながら食器洗いをはじめた。スポンジに洗剤を含ませて、皿やコップを洗って、シンクの横においた水切りのラックにのせていく。
「ぺぺ、洗う物持ってきて」
パンとスープの皿、それにスプーンを持ったぺぺが僕の手元を覗き込む。真剣だ。
「……ロン、あたしもそれやりたい」
「……え? そうかい? じゃあ手伝ってもらおうかな」
ぺぺと入れ替わり、泡だらけのスポンジを手渡した。ぺぺは顔色をわずかに変えた。見ると唇をかんでいる。昨日からずっと、知らない物事に敢然と立ち向かっているぺぺ。僕は頼もしく感じた。
後ろからぺぺを包み込むようにして、二人羽織のようにいつものレクチャーを始める。
「……えへ」
「えへじゃない。洗剤は滑るからしっかり持つんだよ」
要領を掴んだぺぺは何をやらせても素早く正確だ。泡が切れるときちんと洗剤を補充して、ぶくぶくと新鮮な泡を作り、熱心な顔で食器の汚れを落としていく。僕は安心して彼女の横に立ち、洗いあがった食器を拭く係になった。
ぺぺのおかげであっという間に洗い物は片付いた。僕は一息つき、次の仕事に取り掛かる。その前に着替えよう。
「着替えちゃおうかぺぺ」
ぺぺは窓辺にまっすぐに立ち、暗い日曜日の景色を眺めている。
この家から続く細い道はすぐそこの国道へ通じている。東へ曲がるとすこし離れた隣町。西へいくと住宅街があり、その奥には商店街がある。昨日買い物をした大型スーパーもそこだ。
空はあいかわらず暗く曇っていて、昨夜から止まずに風が吹き渡っている。
昨日買ってきた大きな紙袋から包装された衣類をいくつか取り出し、窓辺のぺぺに渡した。ぺぺは僕から目を離さずにひとつひとつ受け取り、傍らに積んでいく。
一度僕を見はじめると、彼女はなかなか視線を外さない。こんなに見つめ続けるのはどうしてだろう。猫だった時のぺぺは、いくらなんでもこんなに吸いつくように僕を見たりはしなかった。良く光るぺぺの青い瞳。
おかしな話だが、僕はシャム猫のぺぺの方がわかりやすかった。
僕の目の前で彼女はパジャマを脱ぎ、今日の服を着た。
人になったからと言って、彼女は人間の女性らしく恥じらうこともなく、たんたんと機械的に着替えていく。
透明な素肌があらわれ、青い血管が浮いている。肩幅や胸郭が狭く、鎖骨が小さく見える。肋骨の間隔は広く、わずかに低く見える乳房の位置。なのに絶対的にバランスが素晴らしい。
やはり人よりも背骨の数が多いのかも知れない。僕は医者ではないからはっきりしたことは何も分からない。僕がぺぺを大学病院に連れていくなんてあり得ないから、彼女の正体は謎のままだ。でも僕がヘマをして、ぺぺが世間に知られてしまったら……。僕は考えるのをやめた。
今日のぺぺはグリーングレーのジャージの上下だ。淡いベージュのラインが入っている。
手を後ろで組んでくるくる身体を回すぺぺ。洋服を拒否することはないから、案外いろいろな色を纏うことが嫌いではないのかも知れない。
僕は階段下の収納から電気掃除機を取り出した。奥の部屋へ運び、巻き取り式の電源ケーブルを伸ばしてコンセントに差し込む。掃除機を使うのは半年ぶりだ。仕事の提出期限の都合でこの家に人を呼ばざるを得なかったことがあり、それ以来ということになる。
スイッチを入れて、すぐに後悔した。
一緒に暮らしていたころは、ぺぺをトイレに避難させる配慮を忘れなかったが、今はどうしても人間の姿に騙されてしまう。
だが、僕の心配は杞憂だった。スイッチを入れた瞬間、ぺぺは不快そうに顔をしかめて僕の脇から離れた。彼女はとことこと部屋の外へ出ただけだった、ドアの影から冷ややかな視線を掃除機に向けている。
「……大丈夫だよぺぺ。見たことあるだろ? 掃除機さ」
僕が振り向いて声をかけると、ぺぺは僕の方を見ようともせず、掃除機のノズルを目で追っている。騒音が嫌いなのは人になっても変わっていないようだった。
僕が家中に掃除機をかけてる間、ぺぺには濡れた雑巾を持たせて拭き掃除を頼んだ。二時間程度の掃除だったが、いつも僕が作業を一人でしていたのが、ぺぺが強力な猫の手となったおかげで予定よりも早く終えることができた。離れたところで黙々と働くぺぺの姿が見えると、僕は何とも言えない気持ちになった。
「助かるよ」「ありがとう」
時々すれ違う時に僕は声をかけたが、彼女は不思議そうに僕を見つめるだけで、特に何も言わなかった。でも僕には分かった。ぺぺは掃除が好きだ。あの顔は間違いない。
だいたいの作業が終わり、埃を落とすという当初の目標は達成された。だからと言ってぺぺが家中を自由に飛び回っていいわけではない。教えなければいけないことはまだ山ほどある。
「お疲れ様、ぺぺ。助かったよ。どうもありがとう」
「ぺぺは平気だよ。ロンこそお疲れ様」
彼女は少しはにかんだような、ほのかな笑顔を浮かべている。表情のバリエーションが増えているようだ。
僕はリビングに戻り、最後にぺぺの祭壇を手早く拭いていく。写真と水と位牌と香炉を一度どかして、乾いた布で拭いたあと、一番奥の骨壺を持ち上げて僕は声を上げた。軽すぎる。
僕は骨壺を床に置き、骨覆を解いて壺の蓋を外した。ぺぺの骨がない。欠片すらない。その壺はまるで新品のようだった。
振り向くとそこにぺぺが立っていた。彼女は無表情に、僕の手元の骨壺を見下ろしている。
僕は毎日ここでぺぺの死を嘆き続けた、これは彼女の生きた証だった。ここにいるぺぺの出現と共に消えてしまったのか、それとも……。僕が空っぽの骨壺を元通りに骨覆で包むと、ぺぺが僕の頭に手をおき、撫でた。彼女の手のひらがあたたかい。僕は黙り込み、壺を元の場所にそっと戻した。
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