第四話 ―― 微睡み

 ようやく一息ついた。二十歳前後の凄い美人が三歳児、いや、中身はしゃべる猫だ。

 僕は振り回されている。

 洗い物を流しに下げ、テーブルを拭きながら、それでも僕は楽しくて仕方がなかった。

 時計を見ると夜の九時四十分。カタカタ窓が鳴っている。風が出てきたようだった。ぺぺはおとなしくソファに座り、テレビを見ている。この家のテレビがついているのは一体いつ以来だろう。

「……ぐっ!」

 背中にぺぺが勢いよく抱きついてきた。何の気配もない不意打ちに息が詰まる。

「ロン、おひげがしろいよ」

 ぺぺは両手両足でピッタリ僕にくっつきながら、耳元でつぶやく。

「……ぺぺ、時間のことは分かるのかい?」

「…………うん。なんとなく」

 ぺぺは足をおろし、僕の背中にほおずりしているようだ。つぶやく声が小さくなった。

「……君がいない間に、僕は年を取ったんだ」

 僕はまた自分の指先に視線を落とし、箸を掴むぺぺの、透き通るように艶やかだった指先を思い出し、あらためて自分の老いを感じた。

「……そんなことないよ」

 ぺぺは、ほとんど聞き取れないくらいの囁き声でそんなことを言った。

 エプロンを脱いでふきんと一緒に流しの脇に置き、冷蔵庫から牛乳を取り出して透明なコップに注いだ。

「のみなさい」

「……ありがとう」

「牛乳は好き?」

「すきだよ。でもロン、あんまりくれなかった」

「よく覚えてるなあ。あれはね、猫の君の身体に牛乳は合わないからだったんだ。僕はそう教えたと思うけど、猫だった君には僕の言葉は…」

「……わからなかった」

「やっぱりそうか、そんな気がしてたよ。人間でも合わない人が大勢いるし、もし君がお腹を壊したらと思うと、たっぷり飲ませるわけにはいかなった」

 ぺぺは好奇心でいっぱいの顔をして、両手でコップを持って僕を見上げていた。

「いいよ。のみなさい」

 手元のコップの中の白い牛乳を見つめ、赤い舌を伸ばすが届かない。彼女の舌には猫のような突起は見当たらなかった。少し赤みが強いように見える。

「ぺぺ、飲み物はこうやって飲むんだ」

 ぺぺからコップを取り上げて、ふちを口にあてて傾け、少し飲んだ。もう一度ぺぺに持たせてやる。今度はうまく飲めた。両手でコップを包み、少しずつコップと一緒に顔が上を向いていく。喉を鳴らして飲み干した。

「ぺぺのおひげも白いよ」

 ティッシュを一枚取って彼女の口のまわりを拭いてやる。ぺぺは何のことを言われたのかわからず、ただ僕を見上げている。

「さ、ぺぺ、そろそろ寝床を決めよう」


 この家には仕事部屋と寝室、あとはリビングを挟んでもうひとつ部屋がある。先のことは分からないが、今日はぺぺが戻ってきた日だ。寝室に布団を一組持ち込んで、枕を並べて寝ることにした。

 ぺぺと一緒にマットレスに敷布団、シーツにタオルケット、掛け布団と枕を次々に運び込む。

「ロン、あたし……」

「ぺぺ、君はもう猫じゃない。ちゃんと布団に入って寝るんだ」

「……」

 どうなるか分からないが、明日は日曜日だ。なんとかなるだろう。


「ぺぺ、洗面所に行くよ。洗顔と歯磨きだ」

「……うん」

 不服そうな顔をしているが、かまわず連れていく。

 小さなシンクの上の鏡が少し傾いていたので叩いて直し、夕方買ってきたぺぺ用の洗顔セットをひろげる。

 洗顔か。残念ながら僕には年頃の女性の洗顔の知識がない。明日調べてみよう。

 ぺぺに目をつぶらせ、お湯で濡らしたタオルで押えるように拭いて、今日は済ませた。彼女は僕の手を押しのけて嫌がったが、猫だった時の猛烈な拒絶に比べたら楽なものだ。

 樹脂製のコップを取り出し、簡単にすすぎ洗いをして水を注ぎぺぺに渡す。青みがかったグレーのコップだ。

「ぺぺ、水を口に含んで、僕と同じようにするんだよ」

 僕は自分の緑色のコップから水を含み、ぐちゅぐちゅとゆすいで見せる。ぺぺは少しだけ口を開けて僕を見上げ、すぐに同じようにして見せた。優秀な教え子だ。

「ぺぺ、ちょっと口の中を見るよ。……あーんして」

 僕があーんと口を大きく開くと、彼女も真似をして大きく口を開いてくれた。鏡の上の蛍光灯しかないので、それほど詳細に見ることはできないが、案の定、上下四本の犬歯が少し大きい。かといって鋭く尖っているわけでもない。むしろ、瑞々しく柔らかい唇に、僕の岩のような指が当たることの方が気になった。

「はいぺぺ。これは歯ブラシだ。歯と歯茎を清潔に保つために掃除をする道具だ。これからは朝晩二回、寝る前と朝起きたら必ず磨くんだよ」

 ぺぺのために買ってきた薬用の歯磨き粉を、ぺぺの小型の歯ブラシに少しだけつけてやる。僕のにもつけて、シャカシャカと実演する。

 猫だったぺぺは歯磨きを嫌ったため、食事と併用できる歯磨きおやつが唯一の歯磨きの機会だった。やはり怪訝な顔をして、僕の方を見ない。

「こんなふうにするんだよ」

 言いながら僕は、こちらを見ようともしないぺぺに腹を立て、ぺぺから歯ブラシを取り上げた。

「ぺぺ、いーーって言ってごらん」

「いーーーー」

 彼女の唇を指で少しめくりあげ、剥きだした歯にブラシを当てると、ぺぺは嚙みついた。

「こ、こら、噛むやつがあるか。口を開けて!」

 ブラシを引っぱると、目を丸く見開き、ガッチリ嚙みついたぺぺが身体ごと付いて来る。こういうところはまだぜんぜん猫だ。

 やっと歯ブラシを取り戻すと、ぺぺは抗議をはじめた。

「いーーや! いや! ロン! にがい! これいや!」

 異物を口に入れられた猫の条件反射かと思ったら、味について怒られた。幼児向けのイチゴ味のやつを買っておけばよかった。仕方なくブラシを一度洗った。

「今度は苦くないよ。口を開けて」

 目を閉じたぺぺは、今度は素直に僕のご奉仕に従ってくれた。


 口元を拭ってやり、僕も簡単に洗顔(ぺぺに見せるため)と歯磨きをした。家中の電気を消してまわり、ボイラーも消して寝室へ入る。セミダブルのベッドの下のスペースに、ぺぺの布団が敷かれている。

 買っておいたパジャマを出して着替えを促すと、ぺぺは一瞬で裸になった。

「う、うわ! パンツは履いてていいんだよ。ブラジャーは、ええと? どうなんだろう……楽な方が良いか」

 また調べ物が増えた。

 パジャマは丁度シャム猫の被毛のようなクリーム色のものがあったので、今日はそれを着てもらった。とても似合う。猫度がまた上がった気もする。

 僕もパジャマに着替えた。ぺぺを布団に入れてタオルケットと掛け布団をかけてあげる。彼女は濃い灰色のタオルを巻いたそば殻の枕をぽんぽんと自分で整えて、僕を見上げた。

「おやすみぺぺ。電気消すよ」

「……おやすみ」

 部屋の電気を消し、眼鏡を畳んでベッドサイドに置き、ぐったりと疲れて布団に入った。


 どのくらい眠っただろう。胸が苦しい。呼吸器がやられたのか。肺気胸を疑い、嫌な気持ちになる。悪い夢の感覚。煙草を吸っている僕を見つめていたぺぺ。

 ……違う。目を開けると、すぐそこにぺぺの顔があった。真っ黒い瞳が十センチ先にある。

「うわっ!!」

 声をあげた瞬間、ぺぺが消えた。目に見えない速さでかき消えた。僕は胸を押さえてせき込んだ。冗談じゃない。四十キロ近い重さが圧迫していたのだ。

 布団を跳ね上げて上体を起こし、眼鏡をかけてぺぺを探す。どこにもいない。ベッドを降り、部屋を出て探そうと引き戸に手をかけてぎょっとした。箪笥の上にぺぺがいた。両目がきらりと光っている。

 彼女は二メートル近い高さの箪笥の天板と、天井の隙間にぴたりと張り付いて静止し、僕を見おろしている。

「……ぺぺ、怒らないから降りといで」

 一体どうやったらこんなところに登れるんだ。ぺぺはもう猫じゃない。

 両手で箪笥の端をつかみ、跳び箱を飛ぶようにしてぺぺは音もなく床に降りた。箪笥の天板に跳び箱のできるスペースなんてない。あまりの素早い動きにまったく目が追い付かない。僕はかける言葉を失った。

 部屋の電気をつけ、降りたままの位置でまっすぐ立っているぺぺを見た。その顔には表情が無い。呆気に取られて何も言えずにいると、彼女はとてとてと近づき、ずうずうしく僕の腰に腕を回して抱きついた。新しいパジャマが埃だらけだった。やれやれ。これで明日の仕事が決まった。掃除だ。

「……ぺぺ、明日は掃除だ」

 パジャマの埃を払ってやると、また抱きついてくる。

「……どうしたんだい?」

「ロンといっしょがいい」

「………」

 僕は途方に暮れた。仕方なく布団に入り、掛け布団をめくって手招きする。ずっと無表情だったぺぺが、花咲く愛らしい笑顔になる。見ろよ。本当に花が咲きそうなのだ。

「いいの?」

「……いいよ。早く入りなさい」

 五十代の独身男性と無垢な二十代女性(元飼い猫)の同衾だ。ぺぺが猫のままだったら何も考えることはないのに、これはとても困る。でも今突き放したらぺぺは必ず泣き出す。選択肢はなかった。

 まるで蛇のようにするりと僕の胸の中に収まるぺぺ。顔にかかる髪がくすぐったい。

 あの干した布団のような、猫独特の太陽の匂いを期待した僕の予想は外れた。毛皮を着ていないぺぺがそんな匂いを発するはずがないのだ。もうぺぺは猫じゃないのだ。……代わりに、若い人間の女性の甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。これには困った。

 最後にベッドで女性と抱き合ったのは何年ぶりだ? ……余計なことを考え始めた僕自身が硬くなり始める。みっともない。これは猫だぺぺだといくら自分に言い聞かせても、僕の身体は言う事を聞かず勝手に反応を続け、完全に硬く勃起してしまった。情けない気持ちになりながら、腰を彼女からそっと離した。

 その時、ぺぺがごろごろと喉を鳴らしはじめた。僕は闇の中で目を開いた。どうやったら人間にこんな真似ができるのかさっぱりわからない。でもそれはまぎれもなく、ご機嫌になったぺぺが鳴らすあの音だった。

 激しく勃起しながら、懐かしさのあまり涙を流し、鼻をすすっているうち、僕は安らかな気持ちになっていった。

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