第三話 ―― 食事とトイレ

 泣き止んだぺぺは元の静かな女の子に戻っていた。ときどき手のひらを丸めて目を擦っている。

 米を研ぎ、炊飯器にセットしてスイッチを入れ、開きホッケをパックから取り出して、コンロの下のグリルで焼いた。

 たちまちジュージューと香ばしい匂いが漂ってきた。期待を込めてぺぺを振り返ると、目を閉じて顔を上げ、すんすんと鼻を動かしている。顔をしかめてはいない。美味しく食べてくれると良いんだけど。

 冷蔵庫のすしパックもあらかじめ出しておく。ついでに豆腐を一丁取り出し、ざるを取り出して乗せておく。野菜庫から青ネギを取り出し、小口切りにして小皿に乗せておく。

 ぺぺはぴょこんとカウンターから顔をのぞかせ、僕の手の動きをじっと目で追っている。今にも手を出してきそうで、包丁を使うときは目を離せなかった。


 ホッケは焼き上がり、白米も炊き上がった。寿司のパックの蓋を開け、醤油皿を並べた。ネギをのせた冷や奴も美味しそうだ。

 テーブルクロスの上いっぱいに並べられたのは、帰ってきたぺぺとの最初の晩ごはんだった。

 ぺぺは向かいに座る僕を凝視したまま、じっとしている。肩幅の狭さが頼りない。黙って食べ始めるかと思ったが、行儀がいいのか、人間のご飯は自分の食べ物じゃないと感じているのか分からない。

「ぺぺ、食べようか」

 僕はぺぺの顔を見ながら手元の箸を持った。茶碗を持ち、ご飯をひと口食べた。ぺぺも自分の箸を持つが、当然この高度な操作技術を必要とするツールをすぐに扱えるわけがない。両手に一本ずつ(逆手で)握りしめて怖い顔をしている。

「使い方を知りたいかい?」

 立ち上がってぺぺの頭を撫で、彼女の後ろに立った。

「まず片手で二本とも持ってごらん」

 ぺぺは左手に二本をまとめた。左利きなのかも知れない。僕は自分の箸を持ち、ぺぺの左手のそばでつかむ動作をして見せた。

「僕の動きを真似してごらん」

 開いて閉じる動作を繰り返している箸の動きをしばらく見つめた後、ぺぺは箸を押さえる指の組み方を変えて、ふにゃふにゃと動かすことが出来た。彼女の知能の様子が伝わってくる。

「惜しい。この指はここで支点となるんだ。こっちはもう少し上に……」

 ぺぺの手を包み、指の位置の正解を教えていく。彼女の指はあまりにも白く滑らかで、人間のそれよりもしなやかな弾力があるように感じた。僕の浅黒いごつごつした指は、まるで岩石のようだった。


 五分もしないうちにぺぺは、カチカチと箸の先端を正確に合わせられるようになった。知能云々ではなく、動体視力なのか、動くものへの執着の強さなのか、僕は舌を巻いた。

 僕は自分の席に戻り、大事な作法が抜けていることに気がついた。いただきますをしていない。長い間独りの食事をしていたせいか、すっかり行儀が悪くなっていた。

「ぺぺ、一度箸を置こう。順番を間違えていたよ。ご飯を食べるときは最初にこうするんだ」

 僕は合掌した。ぺぺもすぐに真似をする。わずかに頭を下げる。

「いただきます。言ってごらん」

「……いただきます」

 まったく同じように出来た。あんな自由気ままなぺぺが僕のいう事を素直に聞いている。

「さ、おあがり」

 ぺぺはさっそく、湯気をあげている開きホッケに箸を伸ばした。目を細め、眉間に小さく皺を作り、ホッケの真ん中あたりに箸を突き刺して持ち上げた。

 僕は呆れてテーブルに頬杖をついてしまった。やれやれ。

「ぺぺ、ゆっくり覚えていこう。今日は箸をおいて、手づかみで食べようか」

 持ち上げたホッケの横から顔を出し、ぺぺの丸い目が僕を見た。

「手づかみ……?」

「焼き魚は好き?」

「……すき」

「好きなように食べてごらん」

「……ロンみたいにたべたい」

「……」

 僕は力が抜けてしまった。ぺぺはずっと、床に敷いたランチョンマットの上で食事をしていた。椅子に座れる人間の大きな身体、自在に動く指、僕と同じテーブル…。

 あのアパートの小さいテーブルで何か食べていると、君は器用にソファの縁に座り、僕をじっと見ているのが好きだった。ぺぺの気持ちが伝わった。

 そんなひたむきな目をしないでくれ。

「わかったよ。じゃあ魚を皿に戻して」

 ぺぺの箸の訓練は小一時間ほど続き、習得と同時進行でホッケと白ごはん、それに冷や奴を綺麗に平らげた。ぺぺはうっとりとした顔になり、満足そうに椅子の背もたれに細い身体を預けている。僕だったら音を上げているところだ。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、コンロの換気扇の下で飲みながら、煙草に火をつけた。

「ロン?」

「……ん? ……なんだい?」

「それなに?」

「え? ……あぁ、これは煙草と言って、煙を吸って楽しむんだよ。身体に良いものじゃないから、一緒がいいなんて言うなよ?」

 彼女と暮らしていたころ、煙草になんて興味もなかった。振り返ると、ぺぺは静かな目をまっすぐに僕に向けていた。

 僕は煙草をもみ消してテーブルに戻り、ビールを飲みながらパック寿司と冷や奴を食べた。


 ぺぺが椅子の上でもぞもぞ揺れている。僕は最後の寿司を口の中に放り込み、ビールで流し込みながらぺぺの様子を見守る。お腹いっぱいなのにどうしたのかな。……しまった。配慮が足りなかった。きっとトイレだ。

 ここにはあの猫砂のトイレはない。あったとしてもそんなもので用を足させるわけにはいかない。

「ぺぺ、おしっこか?」

 ぺぺは小さくうなずいた。あたりだ。

「こっちだ。おいで、動けるかい?」

「だいじょうぶ」

 ぺぺの手を引いて、テーブルのすぐそばのトイレのドアを開ける。少し考えて、これしかないと思った。

「ぺぺ、ほんの少しだけ我慢しろ。僕がトイレを使うから、見て覚えるんだ。まず履いてる物を下ろして」

 僕はズボンとパンツを一度におろして便座に座った。もちろん座っただけだ。

「こうして座ったらおしっこするんだ。うんこもここでする。終わったらこれだ」

 水洗トイレのレバーをガタンと下げて水を流し、僕は立ち上がってパンツとズボンをはき直した。

 ぺぺがいない。

 彼女は一瞬でトイレから逃げ出し、ダイニングテーブルの後ろで低く構え、身体を横にして髪を逆立てている。そうだ。水洗トイレの渦巻く水流だ。まったく、僕はどうかしていた。猫がこんなものを見たら逃げるに決まってる。

「ぺ、ぺぺ! 悪かった。でも信じてくれないか。これは怖いものじゃないし、これから毎日ここで君は用を足さないとならないんだ」

 手招きする手の動きを見たぺぺの怒りがみるみる収まっていくのがわかった。僕の動作を覚えているのか。

「……ほんと?」

「ほんとだ! 僕がぺぺを騙したことなんてないだろ? ……良く知ってるだろ」

 ぺぺは小走りで戻ってきた。まずい、きっともう限界だ。彼女は大急ぎで下着まで脱いで、便座の上にぴょんと飛び乗って足を乗せた。向きが反対だ。

「うわ! 違うよぺぺ、乗るんじゃなくて座るんだ!」

 もう遅かった。しゃーっと気持ちよさそうな水音をさせて、上手に便器の中へ用を足している。なんて格好だよ。お尻が丸見えだ。

 終わった後、ぺぺは頭を下げて便器にたまった水たまりを見つめている。きっと砂を搔きたいんだろう。僕は一分ほど待って声をかけた。

「ぺぺ、そこのレバーを下げて」

 首を捻じ曲げて見上げるぺぺ。思い出したように水を流すレバーを下げた。大丈夫だ。信じてくれたんだ。ザーッと流れて渦を巻く水を、ぺぺは逃げずに黙って見下ろしている。

 最後はトイレットペーパーだ。猫の習性がそのままだとしたら……。僕は決心してぺぺに言った。

「ぺぺ、濡れてて気持ち悪いだろ? 人間は用を足し終えたら、これを使って拭くんだ」

 僕は両手を使ってくるくると紙を巻き取って見せた。

「いいかいぺぺ。これは拭くための大事な紙なんだ。オモチャじゃないから遊んじゃだめだ。わかるかい?」

 彼女はすでに両手を目覚ましい速さでぐるぐる回し、一瞬で全て巻き取ってしまった。芯の筒がカラカラと鳴っている。

 僕はがっくりと肩を落とし、ぺぺの手から蜂の胴体みたいになった紙のかたまりを抜き取り、三回巻いた分くらいを切って渡した。誰だ、ヒトをインストールしてるなんて言ったやつは。

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