第二話 ―― ギンガムチェック
僕は寝室から白いシーツを一枚持ってきて大きく広げてぺぺにかけた。シーツの下でぺぺは、猫そのままの動作で布の塊と格闘してぐるぐる巻きになり、ようやく見つけた隙間から顔を出した。目を見開き、黙ってこちらを見ている。
「ぺぺ、ちょっと立ってごらん」
ひとつ忘れていた。機嫌よくこちらを見上げてにこにこしているぺぺからシーツを剥ぎ取る。すぐにむすっと怒ったような顔になるが、僕は気にせず、立ち上がった彼女の背丈や身体のサイズを目視でチェックした。ぺぺの華奢で細長い身体は、背骨の存在が疑わしい。まっすぐ立っているのに、ゆらゆらと柔らかなカーブを描いていた。
手を伸ばして僕からシーツを取り返したぺぺを手伝って、身体にシーツを巻き付けてやる。さっきと同じように隙間から顔を出したぺぺが不思議そうな顔をしている。
「……ロン、なに?」
「そのまましばらく座ってて。君に必要なものを買ってくるから」
「……わかった。まってる」
すでに正しい発音ができている。人間サイズのぺぺの脳に「ヒト」がインストールされていくのを想像した。きっとそれなりに時間が必要なんだろう。
まさかこの姿で外へ出かけたりはしないはずだ。それでも念のため家中のカーテンを閉め、ドアの施錠を確認し、車のキーを持って外へ出た。
玄関から右手に車寄せのスペースがあり、ドブネズミ色のマツダ・ファミリアが見える。僕と同じくらい古い車だ。近所のスーパーは歩いて十五分ほどだし、取材や撮影も今はほとんどないからエンジンをかけるのは二週間ぶりだ。
冷え切ったシートに座りイグニッションを回す。二回点火を拒否され、三回目で車体を震わせて始動した。暖機する時間を惜しんで重いハンドルを回し、先ほど買い物したスーパーへ向かう。
ぺぺ。あの子はどうやって戻って来たんだろう。十二年前、あのアパートで彼女が息を引き取り、身体が冷たくなり、すこしずつ固くなっていくぺぺの亡骸を抱いたまま、大声でぺぺを呼び続けた。
二日後に君の身体は葬儀社で焼かれ、僕は小さな骨壺と位牌を受け取った。君は死んでしまったんだ。
あの夏の匂い、夏草が伸び、咲いていたいっぱいの花。家の裏手で起きた出来事は、八月に死んだぺぺの命日の再現なのか。
妖怪の類は信じないけどそれでも良かった。誰も説明なんてしてくれない。今分かるのは、あの子がいる現実だけだ。それが猫又だろうが幻覚だろうが、あるいは僕の脳が見る夢だろうがどうでもいい。
スーパーの二階にある婦人服売り場。想像よりも品揃えが豊富で助かった。下着から部屋着から冬服まで、カゴ三つ分の買い物を終えていちど車に戻り、次に一階の生活用品売り場へ走った。若い女の子の肌には何が必要なのか。迷っている暇はない。基礎化粧品らしいものをいくつかと、念のため生理用品もカゴに入れていく。物は小さいのにいちいち値が張るが気にしない。その足で食品コーナーへ移動し、開きホッケ、パック寿司、ツナ缶などの缶詰類、そして懐かしい猫缶もいくつか買った。猫缶なんて食べないかも知れないけど、きっと忘れてはいないだろう。
外はもう暗い。時計を見ると十七時を過ぎていた。車に戻り、レシートは見なかったことにして財布にしまった。買ったものが全部役に立つと良いんだけど。
僕は来た道を急いで戻って行った。
町を抜ける国道が森に入る手前を右に曲がると、真っ暗な森の手前の家がヘッドライトに照らされる。電気くらいつけておくべきだった。
車を止め、バックシートいっぱいのスーパーの袋を無理やり一度に抱え出して玄関を開け、ソファに座っているはずのぺぺを呼んだ。
「ぺぺ! ただいま!!」
「おかえり、ロン」
返事がすぐそばから返ってくる。ぺぺはシーツを巻き付けた姿のままで玄関にうずくまっていた。光る両目が僕を見上げている。
一緒に暮らしていた日々、僕が仕事から帰ると、ぺぺは玄関のだいたいこのくらいの位置に座り、じっと静止して僕を迎えてくれた。
「ソファに座ってろって言ったろ?」
「……すわってた。でもロンかえってきたからまってたの。いまのロンのクルマのおとでしょ。ぺぺおぼえてるよ」
あぶなくまた涙が零れそうになり、僕は慌てて靴を脱ぎ、たくさんの袋を家の中に運んだ。ぺぺはくんくんと鼻を鳴らし、シーツを引きずってついて来た。
こんな幸せなことが起きていいのか。僕は我慢できずダイニングの椅子に座った。ぽろぽろと涙が流れた。ぺぺが来て、何も言わず僕の頭を抱いた。
僕は、ぺぺがもう抱かれるだけの猫ではなく、僕を抱くことのできる身体を持っていることに気がついた。憤然と、細いぺぺの肩に手をかけて立ち上がった。泣いてる場合じゃない。この子に服を着せ、ごはんをあげなくては。
シャム猫のぺぺは、淡いクリーム色をベースに、顔と手脚が黒へと変わるグラデーションが美しく、サファイア・ブルーの瞳が優雅だ。その見事な配色に僕が良くあわせていたのは紺色だった。
女の子なのに紺色?と思うかも知れないが、暖色のカラースキームはあまり似合わず、グレー系やブルー系ならだいたい似合っていたのを覚えている。
最初に目についてカゴに入れた、藤色の花の刺繍が綺麗なブラジャーとショーツを取り出してぺぺに着せてみる。サイズも間違いなかった。少なくとも僕から見て、ぺぺの青白い肌にはベストマッチと言っていい。自画自賛だ。
今後は自分で好きなものを選ぶはずだ。だからきっとこれが最初で最後の機会になる。僕は親のような気持ちになっていた。親になったことなど一度もないが。
自然素材ばかり選んで買ってきた。猫なんだからきっと化繊は苦手だろう。
次は薄いグレーのコットンのキャミソール。水の中の植物のように掲げた細長い腕にかぶせてやる。髪が持ち上がり、襟足がのぞいた。猫ではないことを主張するように生々しい。うなじから背中に続く曲線、小さな肩甲骨が深い影をつくる。まるで薄い陶器のように壊れそうで、僕は少し怖くなった。
ぺぺは頭が出ると、閉じていた目をぱかっと開けて僕を見つめ続けている。
「……ロン、かゆい」
「だろうな。服なんて着たくないだろうけど、ぺぺにはもう毛皮がないからね」
「僕がいろんな服を着てたことは知ってるだろ? 人間は服を着て体温を調節する弱い生き物なんだ。人になってしまった君は、これからはそれに慣れないといけない。わかるかい?」
「……わかんない」
「ははは。そりゃそうだね」
僕が笑うと、ぺぺは嬉しそうに、にっこりと笑顔を浮かべた。僕はバカみたいに口を開けて固まった。なんという美しい笑顔だろう。
無垢というだけでは言い表せない不思議な明るい力を感じた。そもそもぺぺの顔の造形は人間基準でも美形だが、何かが違う。はっきりとはわからない。でも人間のバランスとはどこか違って見える。
「慣れてくれよ。……これからは毎日服を着るんだから」
毎日服を着る。それはこれから先も毎日が続いていくということだ。自分で言った言葉を反芻した。奇跡なんて信じたことがなくても、この不思議を表す他の言葉を僕は知らない。ぺぺと暮らせるんだ。奇跡以外何がある?
次は部屋着として買ってきた綿素材のセットアップだ。上は濃紺、下は白っぽいグレー。上着を着せたあと、ぺぺの後ろから手を伸ばしてパンツの履き方を教える。右足を入れた方に左足も入れて転がりそうになるぺぺを支える。二度三度同じことをして笑い転げるぺぺを見て、僕も一緒に笑った。わざとやって遊んでいたのだ。
最後にモコモコした素材のオレンジ色のルームシューズを履いたぺぺを、姿見のある部屋に連れて行った。ぺぺは鏡を理解できる猫だったから、きっと自分の姿をすぐに知るだろう。
真顔で鏡像の自分と対峙するぺぺ。頭を傾けたり、手足を上げたり下げたり。鏡のそばに近づいて、ほっぺたを引っ張ったり、口を開けたり閉じたりして、最後は部屋の真ん中にぺたんと座り、五本の長い指を見つめだした。
「どう? 自分の姿は」
「………」
彼女は何も答えない。
「ぺぺ、お腹空いたろ」
「おなか、すいた」
ふっと顔をあげて即答するぺぺを見て、僕はまた、あぁ、ぺぺなんだな。と感じる。
「お前が人になって、何が食べられるのかまだ分からないから、いろいろ買って来たんだ。一緒に食べよう」
「……ロンといっしょ?」
「そうだよ。君は僕と一緒にテーブルで食事するんだ」
「…………わかった」
ぺぺをダイニングテーブルの椅子につかせて、僕はキッチンで支度をはじめた。カーキ色のエプロンを上の棚から出して身に付ける。
その時、ふと思い出した。
棚の奥から生成りに濃紺のギンガムチェックのテーブルクロスを出してきて、ぺぺの目の前にひろげた。ぺぺはすぐに目を丸くして、僕とテーブルクロスを見比べた。
「ぺぺ、おぼえてる。……これ、あたしの」
「そうだよ。君が猫だった時に使っていたランチョンマットと同じ柄だ。とっといたんだよ。使う日が来るとは思わなかった」
「……これ、だいすきだった」
「そっか、君の口からそれを聞けて嬉しいよ」
「……ぁ、あ、ぁああああぁん! ……ぅああああぁん!!」
突然ぺぺは大声で泣き出した。まるで三歳児だ。
「あた、あたし! ……ロン! ロン! ロン!」
ぺぺは泣きながら立ち上がり、僕にしがみついて泣き続けた。
「どうしたんだい? ぺぺ……」
「ロン! あいたかったの! ……ロンにあいたかった!」
ぺぺはわんわん泣きながら、僕の腰に爪を立てている。
「……ここはあのアパートじゃない。ここはあそこからは凄く離れてるんだ。ぺぺ、お前どうやって僕の家の前に現れたんだ」
僕はあの不思議な現象を思い出しながらぺぺに聞いてみたが、彼女は頭を振るばかりだった。きっと説明できるようなことじゃないんだろう。
大声で泣く彼女を撫でながら、この子の強い意思が死を克服するさまを想像した。ばかばかしい。強い意志だけで生き返るなら世話はない。この世はよみがえった死人だらけになってしまう。
それにしても、何も手がかりが無いのは怖い。ひょっとしたら僕はとっくに狂っているのか?
ちょっと待った。僕の手のひらに当たるこれはなんだ。
僕はぺぺの頭に、黒髪を押しのけてシャム猫の黒い耳が生えていることに気付いた。触ってみる。ぴくぴくと逃げる薄い皮膚と、内側を守る生えそろった細い毛。僕は髪をかき分けて人間本来の耳のあたりを探ると、そこにはちゃんと耳たぶがある。
この子がぺぺだという確信はあったが、これには度肝を抜かれた。感情の高ぶりで実体化するのか?
やがてぺぺは泣き止み、頭に生えた猫の耳も、わずかな陽炎の揺らめきを残して消えてしまった。
家の裏手に現れたあの夏の気配と同じように。
僕の指に、あの薄い耳の皮の感触だけが残った。
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