猫のひと
山羊衡平
第一話 ―― 再会
立ち止まり耳を澄ませる。汽笛が鳴っていた。こんなところで聴こえるはずがない。いよいよ僕の頭がおかしくなったのか。海はこの先のなだらかな坂道をくだっていったずっと先だ。何か嫌な予感がする。
どうでもいい。僕と汽笛は何も関係がない。
土曜日の午後。空は晴れている。誰もいない国道わきの歩道。遮るものもないこの寂しい道に、西からの冷たい風が吹き渡り、十月後半の枯れ始めた雑草を揺らしている。
両手にスーパーのレジ袋を提げて、自宅へ続く歩道を歩いている。袋の中には肉や野菜、卵、牛乳、缶ビールの六缶パック、切らしていた醤油といくつかの調味料。それに、いい歳をしてまた始めた煙草のカートンが入っている。
歩道の縁石は歪みやひび割れが酷く、隙間から細い草が惨めな顔をのぞかせている。まもなく冬が来る。すぐに声もなく枯れてしまうだろう。
路傍の草むら、歩道から五メートルほど先だ。野良猫が僕を見ている。黄色っぽい縞の猫。毛艶が良いし、きっとまだ若い猫だ。野良猫特有の冷めた目で、歩き去る僕を見送っている。
僕は立ち止まった。猫を見つけると僕は見境なく切ない気持ちになる。お節介と知りつつその若い猫に声をかける。
「冬支度をはじめた方が良い。もうじき雪だよ」
猫の冬支度って何だろう。おそらくただ死ぬだけだ。誰も見ていない場所で雪に埋もれて凍りつくだけ。自然の摂理だ。無様に抗うのは人間だけだ。
黄色っぽい縞の猫は、僕の言葉など聞かずに草むらへ消えた。
僕だって同じだ。冬を越そうと考えたことはない。でも不思議と死なないだけだ。自ら命を絶つような真似ができないだけだ。
もう十二回も冬を越えて僕は生きている。君はいない。でも僕はまだ生きてる。
歩道を右に曲がると、森の入り口に古い家が一軒だけ建っている。今の住処だ。築何年なのか見当もつかない。何色でもない土壁は惨めに剥がれ落ち、傾斜のついた屋根の縁が歪んでいる。屋根に上ったことはないが、きっとひどい有様だろう。
古物店や映画の中でしかお目にかかれないような古びた真鍮の鍵を取り出しガチャリと回す。耳障りな音を立ててドアを開ける。
暗い上がり框にレジ袋を置いて腰掛け、薄汚い革のブーツを脱ぎかけてため息が漏れた。無様に眼鏡が曇る。
生きる意味がない。生きてる価値がない。それが今のところ、生きている以外のことは全部死んでいる僕の結論だ。
履くのも脱ぐのも面倒な紐靴ばかり。自分で選んでおいて腹が立つ。
その場で缶ビールの紙パックを破いて一本取り出し、ぬるいまま飲んだ。飲みながら引き戸を開け、安物のテーブルとソファセット以外何もないリビングを通り、ダイニングテーブルの上に二つのレジ袋を下ろして、ビールをまた一口。
買ったものをそれぞれの収納に入れ終わると何もすることはなくなった。椅子に腰かけて残りのビールを飲みながら、しんと静まる暗い家の中を見る。
目を閉じて、次に目を開くと、すぐに明日か明後日になってしまうような毎日。僕は何も感じない。平日は機械のように仕事をして、休日はこのように必要最低限の買い物以外何もしない。ときどき、ぺぺ、君のことを思い出して泣く。それだけだ。
午後三時を過ぎた。僕は椅子に腰かけたまま、三本目のビールをすすっている。
床が揺れている。少し酔ったのか? ……いや違う、本当に揺れている。小刻みな振動が少しずつ大きくなり、家のあちこちからミシミシと嫌な音がする。
地震の揺れ方ではなかった。地鳴りのような重低音。家のどこかで何かが倒れる音。裏の森では鳥たちが不吉な警告のように鳴いている。
家が潰れる――そう覚悟した瞬間、揺れが止まった。
三半規管に残る不快な感覚に頭を振る。直後、家の裏手から大気が破裂するような轟音が響いた。
ドオオン!!
家が持ち上がったと錯覚する衝撃に肝を冷やした。すぐそばだ。
キッチンの窓から外を覗いた。三時過ぎにしては外が妙に明るい。彩度が高い。鮮やかなのだ。木々の葉や地面の雑草の緑、土の色。全てが目に刺さり、僕は瞬きを繰り返す。網膜がおかしくなったのか?
誰かが倒れていた。そこだけが周りから浮かび上がるような光を放っている。僕は眼鏡のブリッジを押し上げて目を凝らした。間違いない。人だ。
僕の身体は勝手に震えだし、鳥肌を立てている。何が起きてるんだ。どうして僕の家の裏で誰かが倒れてるんだ。どうしてここなんだ。
裏口のドアを開け、サンダルで外へ出ると空気に違和感がある。十月の気温ではない。冬の近さを伝えていた冷気がどこにもなく、ほのかに暖かい。僕はその異常な景色の中心へおそるおそる近づいて行った。
震えが止まらない。足元の風景が狂っている。枯れかけた雑草が青々とした夏草に変わり、色とりどりの花が咲き、陽炎が揺れている。
十月の寒さの中、ここだけが夏の濃厚な草いきれと温かい土の匂いに満ちていた。
咲き乱れる花のベッド。その真ん中に裸の女の子が横たわっていた。二十歳前後の若い女性だ。
僕はその姿を見て血の気が引き、すぐに血の気が戻った。身体の震えは止まり、鳥肌は消えていた。
それは、ぺぺだった。
僕は地面に膝をついた。あり得ない現実。芝居がかってると思ったら、君も僕と同じ目に遭うといい。立っていられないから。
さらさらとした真っ黒な髪が彼女の顔を覆っていても、あの美しい被毛ではなく、滑らかな人の肌だとしても、細長い人間の手足だとしても、この子は僕が十二年前に亡くしたシャム猫のぺぺだった。理屈じゃない。わかるんだ。
そっと彼女を抱き上げた。花びらが舞っている。猫のようには軽くない、ずしりとした人間の重みと熱。そうだ。猫のようにぺぺの身体は熱かった。猫のように? 猫だ。いや、猫のひと……とでもいえばいいのか。
彼女の身体からぽくぽくと伝わる鼓動の速さ。それは人間ではない。間違いなくぺぺだった。どうして人間の身体になって戻って来たんだろう。
僕の胸に頭を預けているぺぺの顔。青白く透き通る肌、長い鼻筋、細いあご。僕は呆然とぺぺの顔を覗き込んだ。
ぶるっと震えて、ぺぺが目を開ける。透明なサファイア・ブルーの瞳が僕を見上げた。瞳孔が縦に窄まっている。ちいさい口がみるみるうちに笑顔を作り、もぐもぐ動いた。
「ロン!!」
ぺぺに抱きつかれ、僕はその勢いに耐えきれず尻餅をついた。その瞬間だった。夏の匂いは消え、咲いていた夏の草花は風にさらわれ、夢のように消えてしまった。
鮮やかな八月が一瞬で十月の物寂しい色に戻り、冷気も戻っていた。僕は魔法の時間が終わったことを知った。
「……ぺぺ、ぺぺ?」
ぺぺは眠るように動かない。僕はおろおろと青ざめ、急いで彼女を勝手口から家の中へ運び入れた。
リビングのソファにぺぺを静かに横たえ、額に手をあててみる。熱い。猫だから当たり前だ。僕は体温計を取りに走った。三十八度台ならきっと大丈夫だ。僕は慌て過ぎていた。ソファに足を引っかけ、大きな音を立てて転んでしまった。
立ちあがろうと膝をついて顔をあげると、無邪気なまるい目で僕を見る、ぺぺの写真と目が合った。
そこはこの家で唯一毎日掃除をするぺぺの祭壇だ。小さな写真たての隣にはちいさな位牌と香炉。ぺぺが使っていた器は毎朝水を替えている。一番奥には金襴の骨覆に包まれた骨壺が置いてある。
分からない。矛盾している。ぺぺは死んだんだ。……僕の腕の中で。
ソファのきしむ音がする。振り返るとぺぺが上体を起こしている。目を醒ましていた。
僕はそこに座っているぺぺと写真のぺぺを交互に見た。のろのろと間延びした動作だ。自分が嫌になる。骨壺の中には確かにぺぺがいる。でもそこにいるぺぺは、間違いなくぺぺだ。
でも彼女はなぜか人の姿をしている。…僕は頭がおかしくなった。
「ア……ラ? ……ロ? ……ロン? ……ロ、ロ、ロン! ロン! ……ロン!!」
目が合うとぺぺは僕の名を何度も呼んだ。猫語ではない。人の言葉だった。僕はぺぺにロンと呼ばれたのを当たり前に感じていたがそれは勘違いだ。猫のぺぺにロンと呼ばれたことなんて一度もない。
「……ぺぺ、話せるのか?」
「……ロン」
「人の言葉、わかるのか?」
「……ウ……口、かららむ、へんなの…」
難しい顔をして、むぐむぐと口を動かしているぺぺ。舌が見えている。その仕草に猫のぺぺが透けて見える。勝手に涙が出てくる。本当にぺぺだ。
「……戻って来たんだ」
ぺぺは何も答えず、薄闇で光る青い瞳を見開いてじっとこちらを見ていた。その懐かしい瞳に僕は見とれた。細長くデフォルメされたような身体に、人と同じ骨が入っているとは思えない。しかし、ささやかな胸のふくらみと、淡いコーラルピンクの乳首、少し大きい骨盤は人間の女性そのものだ。
僕は現実に戻った。五十過ぎの男が若い女の子を素っ裸でリビングに座らせている。大変だ。ぺぺは裸じゃないか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます