第8話:海


日曜日が、何度か過ぎた。


毎週、同じカフェで会った。同じ席に座って、コーヒーを飲んで、何でもない話をした。


柊は砂糖を三つ入れないまま、コーヒーを飲んだ。私はそれを見て、少しだけ笑った。「我慢してるんですか」と訊いたら、「ここでは」と答えた。その答えが可笑しくて、また笑った。


笑うことに、慣れてきた。


4回目の日曜日、柊が言った。


「朔さん、海に行きませんか」


---


海。


コーヒーカップを持ったまま、固まった。


「海、ですか」


「はい。天気も良さそうなので」


柊が窓の外を見た。確かに晴れてた。でも、海——


「電車で1時間くらいです。嫌じゃなければ」


迷った。


カフェから出る。この安全な場所から。


でも、柊の目を見た。


急かしてない。いつもみたいに。


「……はい」


---


電車の中。


窓の外を見ていた。街が流れていく。ビルが減って、住宅が増えて、畑が見えて。


「朔さん」


柊が声をかけた。振り返る。


「寒くないですか」


「大丈夫です」


柊が頷いた。それだけだった。また窓の外を見る。


隣に柊がいる。それだけで、不思議と落ち着いた。


---


海に着いた。


駅を降りた瞬間、潮の匂いがした。


「こっちです」


柊が歩き始めた。ついていく。


5分ほど歩いて、海が見えた。


広かった。


どこまでも続く水平線。灰色の空。波の音。


人がいなかった。冬の海だから。寒かった。


「……すごい」


声が出た。


「ですよね」


柊が笑った。


「ここも、好きなんです。誰もいないから」


二人で砂浜を歩いた。波が寄せては返す。足跡が残る。


---


防波堤に座った。


コンクリートが冷たかった。でも、座った。


柊も隣に座った。


二人で海を見た。


「朔さん」


柊が口を開いた。


「僕、実は——」


少し黙った。


「僕も、壊れたことがあるんです」


え。


柊を見た。柊は海を見たまま。


「いつ、とか、どうして、とか、そういうのは言わないですけど」


波の音。


「ただ、壊れたことがある。完全に」


柊が少し笑った。自嘲みたいな笑い方。


「だから、分かるんです。朔さんが——」


言いかけて、止まった。


「すみません。勝手なこと言って」


「いえ」


私は首を振った。


「ありがとうございます」


柊が私を見た。


「教えてくれて」


柊が頷いた。また海を見た。


---


沈黙が降りた。


でも、怖くなかった。


私も口を開いた。


「私も——」


声が震えた。深く息を吸った。


「私、誰かを待ってたんです」


柊が黙って聞いてる。


「でも、その人は消えました。何も言わずに」


波の音。カモメの声。


「それから、壊れました。完全に」


柊の方を見られなかった。海だけ見てた。


「今も、まだ——」


言葉が出ない。何を言えばいいか分からない。


「今も、痛いです」


それだけ言えた。


「そうですか」


柊の声が降ってきた。優しかった。


「痛いまま、でいいと思いますよ」


え。


「無理に治さなくていい。痛いものは痛いから」


柊が立ち上がった。手を差し出した。


「帰りましょう。寒いので」


私は柊の手を取って、立ち上がった。


---


帰りの電車。


疲れてた。心地いい疲れ。


窓に頭をもたせかけた。目を閉じた。


柊の気配が隣にある。それだけで、安心した。


眠りかけた。


でも、柊の肩にもたれるのは我慢した。まだ、そこまでは——


「朔さん」


柊の声で目を開けた。


「もうすぐ着きますよ」


「……はい」


---


駅で別れた。


「今日は、ありがとうございました」


柊が頭を下げた。


「こちらこそ」


私も頭を下げた。


「また、来週」


迷わなかった。もう。


「はい。また」


柊が笑って、改札を通っていった。


---


家に帰った。


鍵を開けて、部屋に入って、コートを脱いで——


ふと、気づいた。


今日、怜のことを思い出さなかった。


一日中、柊といて。


海を見て、話して、電車に乗って。


その間ずっと、怜のことを考えなかった。


「……っ」


胸が痛くなった。


罪悪感だった。


忘れていいのか?


あんなに狂ったほど求めた人を。あんなに壊れるまで愛した人を。


忘れて、いいのか?


涙が出そうになった。


でも——


痛くなかった。


怜を思い出さなかったことが、痛くなかった。


むしろ、楽だった。


怜のいない一日。怜を考えなくていい一日。


それが、楽だった。


ベッドに横たわった。


天井を見た。


怜、ごめん。


でも、私——


あなたを、忘れ始めてる。


涙が一筋、流れた。


でもそれは、悲しみじゃなかった。


承認だった。


自分に承認を出してる。


忘れていい、と。次に進んでいい、と。


目を閉じた。


今日の海を思い出した。柊の横顔を思い出した。


また、来週。


その約束が、心の中で温かかった。

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