第7話:コーヒー
カフェは小さかった。
駅から少し離れた、住宅街の中。看板も小さくて、知らなければ通り過ぎてしまいそうな店。
中に入ると、テーブルが四つだけ。客は誰もいなかった。
「ここ、穴場なんです」
柊が言った。カウンターに座る。私もその隣に座った。
マスターが出てきた。60代くらいの、無口そうな人。
「コーヒー二つ」
柊が注文した。私に何も訊かずに。
「ブレンドで大丈夫ですか?」
「はい」
マスターが頷いて、奥に引っ込んだ。
静かだった。時計の音だけがコチッコチッと聞こえる。
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「ここ、よく来るんですか」
私が訊いた。何か話さなきゃ、と思ったからだ。
「週に一回くらい。日曜の午後に」
「いつも一人で?」
「はい」
柊が少し笑った。
「一人で本を読むのが好きなので」
「今日は、本を持ってないですね」
「そうですね」
柊が私を見た。
「今日は、読まなくていいかなと思って」
その言葉の意味が分からなくて、でも訊けなくて、私は黙った。
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コーヒーが来た。
湯気が立ってる。良い匂い。
一口飲んだ。
「……美味しい」
声が出た。本当に美味しかった。体中に染み渡る。
「ですよね」
柊が嬉しそうに笑った。
「ここのコーヒー、僕も好きなんです」
「よく分かります」
私も笑った。自然に。
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柊がカップを持ったまま、少し黙った。
「実は僕、コーヒーに砂糖を三つ入れるんです」
「え」
思わず声が出た。
「三つも?」
「はい。甘いのが好きで」
柊が照れたような顔をした。
「でも、ここでは我慢してます」
「なんでですか?」
「大人っぽく見えないので」
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笑った。
声を出して、笑った。
自分でも驚いた。
今、私、笑った?
柊も笑った。少しだけ。
「変ですよね」
「いえ」
私は首を振った。まだ笑いが止まらなかった。
「可愛いと思います」
言ってから、顔が熱くなった。何言ってるんだ、私。
でも柊は怒らなかった。ただ、少し照れたような顔をした。
「ありがとうございます」
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沈黙が降りた。
でも、怖くなかった。
怜との沈黙は、いつも何かを意味してた。怒ってるのか、考えてるのか、私を試してるのか。
柊との沈黙は——ただの沈黙だった。
心地よかった。
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コーヒーを飲み終わった。
「もう一杯、飲みます?」
柊が訊いた。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか」
柊が会計を済ませた。私が財布を出そうとしたら、「いいですよ」と言われた。
「次、私が出します」
言ってから、気づいた。
「次」って言った。
また会う前提で話してる。
柊が笑った。
「じゃあ、次回は朔さんに奢ってもらいますね」
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店を出た。
日が傾いてた。もう夕方だった。
「また、来ますか?」
柊が訊いた。
私は——
迷った。
脳内で、怜の声がした。
「また来たくなったら、来い」
あの言葉から、全てが始まった。依存が。破滅が。
でも——
柊の目を見た。
急かしてない。答えを強要してない。「嫌なら断っていい」という目。
怜とは、違う。
「……はい」
声が出た。小さかったけど、確かに出た。
「また、来ます」
柊が笑った。
「じゃあ、次も日曜に。ここで」
「はい」
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駅まで一緒に歩いた。
改札の前で、別れた。
「今日は、ありがとうございました」
柊が頭を下げた。
「こちらこそ」
私も頭を下げた。
柊が改札を通っていく。
その背中を見送りながら、私は気づいた。
今日、怖くなかった。
誰かと二人で、どこかに行って、話して、笑って。
何も壊れなかった。何も奪われなかった。
ただ、楽しかった。
それだけだった。
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