第6話:誘い
日曜の午後、また本屋に来ていた。
嘘だ。「また」じゃない。毎日来ている。
仕事帰り、週末、休みの日。理由をつけて、この本屋に足が向かう。
何を探してるわけでもない。誰を待ってるわけでもない——そう自分に言い聞かせてた。
でも、嘘だ。
会いたかった。
あの人にもう一度。名前も知らない、顔もよく思い出せない、でも「痛い」と言ったあの人に。
---
文芸コーナーに彼はいた。
先週と同じ場所。本を手に取っている。
私は少し離れた場所で立ち止まった。
声をかけるべきか。かけないべきか。
何を言えばいい?「また来ました」?「覚えてますか」?おかしい。変だ。怖い。つーか不気味がるだろ。
でも、話したい。
足が動いた。
「あの——」
声が出た。自分でも驚いた。
彼が振り返った。一瞬、誰か分からない顔をして、それからすぐに——
「ああ」
彼が少し笑った。覚えててくれた。
「こないだは、ありがとうございました」
何に対して礼を言ってるのか、自分でも分からなかった。でもとにかく、言葉が出た。
「いえ」
彼は首を振った。
「あの本、買いました?」
「……はい」
小さく答えた。彼は頷いた。
「読みました?」
その質問が来ると分かってた。でも、答えるのは怖かった。
買ったのに読んでない。数日も経ってるのに、1ページも開けてない。
ダメな人間だ。弱い人間だ。ちゃんとできない人間だ。
「読めませんでした」
声が震えた。正直に言った。嘘をつけなかった。
彼は少し黙った。
私は言い訳を探した。忙しかったとか、時間がなかったとか、そういう——
「そうですか」
彼はそれだけ言った。
追及しない。なぜ読めないのか、訊かない。
沈黙が降りた。
怖かった。彼が何か言うのを待った。「読むべきですよ」とか「良い本なのに」とか。
でも、彼は何も言わなかった。
そして——
「無理して読まなくていいと思いますよ」
え。
「痛いものを無理に見ると、余計痛くなる」
彼が本棚に視線を戻した。怜の本がそこにあった。
「準備ができたら、読めばいい。ただそれだけ」
涙が出そうになった。
我慢した。本屋で泣くわけにいかない。でも、目の奥が熱かった。
「……ありがとうございます」
やっと言えた。声が震えてた。
彼が私を見た。少し笑った。
「いえ」
---
また沈黙が降りた。
でも今度は、怖くなかった。
彼は本を棚に戻した。私も、何となく、隣の棚を見た。
活字が並んでる。意味は入ってこない。でも、彼の隣にいることが——
怖くなかった。
「コーヒー、飲みます?」
彼の声がした。
時間が止まった。
コーヒー。二人で。この人と。
頭の中で、怜の声がした。
「終電、逃しただろ」
あの夜。怜のマンションの前。
「うち来る?」
行ったら、終わる。何かが終わる。そう思った。
でも行った。
怜の部屋。怜の手。怜の——
やめて。
息を吸った。深く。
目の前の人を見た。
怜じゃない。
この人は、待ってる。
私が答えるのを。焦らせない。急かさない。
目が言ってる。「嫌なら断っていい」と。
怜は待たなかった。怜は私を引きずり込んだ。私の答えを待たずに、暴いた。
この人は、違う。
この人は、待ってる。
「……はい」
声が出た。
小さかったかもしれない。でも、確かに出た。
彼が少し笑った。
「よかったら、この近くに静かな店があるんです。一緒にどうです?」
「はい」
もう一度言った。今度は少しだけ、大きく。
---
本屋を出た。
日曜の午後。人通りが多い。冬の日差しが眩しい。
彼の横を歩いてる。
知らない人の横を。名前も知らない人の。
でも——
怖くない。
「名前、訊いてもいいですか」
歩きながら言った。
彼が立ち止まった。私も立ち止まった。
「そうですね。まだ言ってなかったですね」
彼が手を差し出した。
「柊です。柊悠(ひいらぎ ゆう)」
柊。
冬の木。棘のある葉っぱ。でも、花が咲く。
私は彼の手を見た。
握手。普通の、挨拶。
怜は握手なんてしなかった。いきなり触れた。境界を無視した。
この人は、手を差し出して待ってる。
私は自分の手を伸ばした。
手が、触れた。
「朔です。佐伯朔」
「朔さん」
柊が私の名前を呼んだ。
初めて聞く声だった。
怜の声とも、第一の男の声とも、違った。
穏やかで、静かで、急がない声。
柊が言った。
「よろしくお願いします」
「……はい」
手を離した。
二人で歩き始めた。
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