第39話 灰色の夜に、手を伸ばして
深い眠りに落ちたはずの私の意識は、冷たい霧の立ち込める、見覚えのない広場へと引きずり込まれていた。
足元を覆う石畳は濡れ、空気は凍りつくほど重い。
――そこは、処刑場だった。
灰色の空から、凍てつくような雨が降り注いでいる。
広場の中心に立つのは、今の私より少しだけ大人びた――けれど、頬はこけ、瞳から光を失った「私」。
「どうして……っ、どうして私を愛してくれなかったの……!?」
泥にまみれたドレスのまま、跪いたエルゼが、目の前に立つヴォルガードに縋りつく。
その姿は、哀れで、必死で、あまりにも痛々しかった。
「私が聖女じゃなかったから? お父様の役に立てなかったから? 魔力さえあれば、私を……『娘』として見てくれたの……!?」
だが、ヴォルガードは何も答えない。
重厚な鎧に身を包み、剣の鞘一つ揺らさず、ただ死神のような冷徹な瞳でエルゼを見下ろしている。
「お父様は、リリアーヌばかり……!」
声が、震えながらも鋭くなる。
「彼女のわがままは聞くのに、私の叫びは一度だって聞いてくれなかった! 私が……私があなたの血を引く、たった一人の娘なのに……!」
それは、絶望に焼かれた魂の悲鳴だった。
「お母様だってそうよ……! 分からない、分からないわ……。お父様もお母様も、いつも私を見なかった……!」
狂ったように笑い、そして、憎悪を剥き出しにする。
「みんな口を揃えて『リリアーヌ、リリアーヌ』って……出来損ないの私なんて、いない方がよかったんでしょう!? ……バカみたい。ほんと、滑稽だわ……」
そして――叫ぶ。
「大嫌いよ! お父様もお母様も……私からすべてを奪い去った、あの女……リリアーヌも!! 全員、地獄へ落ちればいいわ!!!」
その呪詛を、ヴォルガードは黙って聞き届ける。
一切の情を排したまま、無慈悲に剣を振り下ろした。
鈍い音が、処刑場に響き渡る。
周囲を取り囲む群衆の、吐き捨てるような囁きが耳に届いた。
『……あれほどの大罪を犯したとはいえ、あそこまで無情に娘を切り捨てるとはな』
『妻のシエラ様が亡くなった時ですら、あの男は無表情だったと聞くぞ……』
『きっと、初めから愛など存在しなかったのだ。家族ですら、道具に過ぎなかったのさ』
血の気が引くような光景。
私はそれを、高い空の上から――幽霊のように、ただ見つめていた。
(ああ……そうか)
胸の奥で、冷たい理解が広がる。
(これが、「正しい」結末。原作に記された、エルゼ・ヴァレンティという悪女の最後……)
誰からも愛されず。
誰をも愛することを諦め。
世界のすべてを呪いながら、孤独の中で死んでいく。
(……私がエルゼに転生したのは、前世で人の愛を都合よく受け取り、軽く扱ってきた報いなの? この絶望を味わうことが、私に与えられた「罰」……?)
心臓が、恐怖でぎゅっと締め付けられる。
――けれど。
その氷のように冷えた思考の隅で、微かな熱が灯った。
過去の私を受け入れ、無条件に愛してくれた母の温もり。
「悪女だとは思わない」と、不器用に告げた騎士の言葉。
そして――私の怒声に、世界が崩れたかのような顔で立ち尽くしていた、父の姿。
(……それでも)
胸の奥で、はっきりと声がした。
(今の私は、違う)
この結末が運命だというのなら。
そんなもの、私はこの手で叩き潰す。
お父様を。お母様を。リリアーヌを。
そして――まだ誰も知らない、「私自身」を。
(心から、愛せるように。そして、いつか胸を張って……愛してもらえるように)
そう願いながら、私は深く、深く意識を沈めた。けれど、瞼の裏に焼き付いた処刑場の光景は、簡単には消えてくれない。
灰色の空。
冷たい雨。
そして、振り下ろされる無慈悲な剣――。
その絶望の残滓に囚われたまま、ふと、違和感に気づく。
――髪に、触れる熱。
雨とは違う。
血の冷たさでもない。
硬くて、ゴツゴツとしていて。
けれど壊れ物を扱うように慎重で、どこか震えているような、不器用な手のひら。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、視界に入ってきたのは、月明かりを背負い、私のベッドサイドに腰掛ける大きな影だった。
「……起きたか」
低く、地響きのような――けれど今は、ひどく掠れた声。
「お父様……?」
暗がりに浮かび上がったのは、冷酷な男の顔ではない。
そこにいたのは、眉間に深い皺を刻み、今にも泣き出しそうなほど苦悶に満ちた表情をした、一人の父親だった。
「うなされていたぞ。……なにか、怖い夢でも見たのか」
その問いに、私は夢の残像を振り払うように、小さく頷く。
「……うん。すごく、怖かった。……誰にも見てもらえなくて……悲しかったの」
私の言葉に、父は鋭い痛みに打たれたように、大きな肩をわずかに震わせた。
しばしの沈黙。
風に揺れるカーテンの音だけが響く部屋で、父は意を決したように口を開いた。
「そうか。……エルゼ」
「なぁに? お父様……」
「……すまなかった。……今まで、ずっとだ」
低く、噛みしめるような声。
「お前を傷つけるのが怖くて……正しく向き合えば、拒絶されるのではないかと怯え、背を向けていた。……結局、その臆病さが、お前を一番深く傷つけてしまったな」
「……っ」
息が、止まった。
――あのお父様が、自分のことを「臆病」だと言った。
「エルゼ。私は……お前を嫌ったことなど、一度もない。ましてや、お前を誰かと……リリアーヌと比べたことなど、断じてない」
父は、私を真っ直ぐに見つめる。
「お前は私にとって、この世界にただ一人の、代えがたい大切な娘だ」
その言葉が、胸の奥にこびりついていた「原作の呪い」を、音を立てて溶かしていく。
「っ、お父様ぁ……!」
堪えていた涙が、また一気に溢れ出した。
私は布団を跳ね除け、父の広い胸に飛び込む。
父は一瞬、硬直したあと、壊れ物を抱きしめるように――けれど力強く、私をその腕の中に収めてくれた。
鎧のような筋肉の奥で、ドク、ドクと脈打つ力強い心音。
夢の中の冷酷な処刑人とは違う、生きて、私を愛そうとしている人間の鼓動。
「……菓子は、嫌いだと思っていたんだ」
私の背中を撫でながら、父がひどく決まり悪そうに呟く。
「だから、お前に何を贈ればいいのか分からず……わざわざ嫌いなものを与えて、嫌われたくないと……そう思っていた」
短く、息を吐く。
「……すまない、エルゼ」
父は私をそっと離すと、ベッドサイドに置かれていた、小さくも凝った装飾の箱を差し出してきた。
「これ……私が、一番好きなお店の……」
「ああ。シエラに教えてもらった。……もし嫌いでなければ、食べてくれ」
箱を受け取る私の指先は、まだ少し震えている。夢の中のエルゼは、この温もりを知らずに死んだ。
――けれど、今の私は違う。
「……ふふ。お父様、私、お菓子大好きよ。……お父様と一緒に食べるなら、もっと美味しいわ」
泣き笑いでそう告げると、お父様は――今度こそ、世界で一番不器用で、一番優しい微笑みを、その強面に浮かべたのだった。
悪役令嬢、生存戦略は「愛嬌」です!〜不器用な騎士団長(お父様)を陥落させたら、重すぎる愛の包囲網が完成しました〜 とばり @ouroboros_IX
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