第38話 泣き疲れた夜の行き先

 嵐が去ったあとの自室は、耳が痛くなるほど静まり返っていた。

 重厚な扉の向こうで起きた出来事がすべて幻だったかのように、部屋の空気は微動だにせず、淡い香の残るカーテンだけが、わずかに揺れている。


 ついさっきまで、胸の奥で燃え上がっていた激昂が嘘のように、全身の力が指先から抜け落ちていく。

 私は中身をすべて吐き出された抜け殻のように、柔らかなソファのクッションへと身体を預け、その深みに沈み込んだ。


 視界はまだ、溢れ続けた涙の薄膜でゆらゆらと滲んでいる。

 呼吸を整えようとするたび、叫び続けた喉の奥がひりつき、まるで内側から火傷をしているかのような鈍い熱を訴えてきた。


(……やっちゃった)


 胸の内に浮かんだのは、安堵でも達成感でもなく、ただひたすらな自己嫌悪だった。


(本当に、とんでもないことを。取り返しのつかないことを、しちゃった……)


 あのお父様に、「馬鹿」なんて。

 この国の軍部を掌握し、王族ですら容易に逆らえない冷酷無比なヴォルガードに向かって。

 感情のままに怒鳴り散らし、詰め寄り、泣き喚くなど――。


 原作の悪役令嬢エルゼでさえ、面と向かってあそこまでの暴挙に出る勇気はなかったはずだ。

 ましてや、断罪を避け、破滅フラグを慎重に折り続けてきた今の私が、なぜ。


 その問いに、答えは出ない。

 ただ、胸の奥がひどく重く、冷たい。


「……お嬢様。少し、熱すぎましたでしょうか」


 不意に、現実へと引き戻す穏やかな声がした。

 顔を上げると、湯気を立てる磁器のカップが、そっと目の前に差し出されている。


 マーサが淹れてくれた、蜂蜜を惜しみなく溶かし込んだホットミルク。

 そのまろやかで甘い香りが、自己嫌悪でささくれ立った私の鼻腔を包み込み、荒れ果てた心を静かに撫でていった。


「……ううん。ありがとう、マーサ」


 かすれる声でそう答え、まだ微かに震える手でカップを受け取る。

 一口、慎重に含むと、濃厚な温もりが喉を通り、胃の奥へと落ちていった。


 その熱が、波紋のように内側へ広がり、恐怖で冷え切っていた身体の芯から、確かな体温を呼び戻してくれる。


「……ねえ、マーサ」


 自分でも驚くほど弱々しい声が漏れた。


「私、明日にはお父様に勘当されているかしら。……それとも、一生日の当たらない極北の塔に幽閉とか。そうなったら、お菓子、差し入れに来てくれる?」


 冗談めかして言ったつもりだった。

 けれど、声は震え、笑いにもならない。


 するとマーサは、「ふふっ」と小さく笑った。

 それは、普段の厳格な侍女の顔からは想像もできない、どこか少女のような、柔らかく茶目っ気のある笑い声だった。


「勘当、でございますか?」


 彼女は肩をすくめるように首を振る。


「お嬢様。むしろ逆でございましょう。旦那様は今頃、ご自身の不甲斐なさと、愛娘に嫌われた衝撃で、書斎の分厚い壁でも殴りつけておいでのはずでございます」


「……え?」


「お嬢様が『お父様なんて大嫌い』と、あれほど凛々しく仰った瞬間のお顔、ご覧になりましたか?」


 マーサは、思い出すように目を細めた。


「まるで世界が目の前で崩れ落ちるのを目撃したかのような……いえ、世にも惨めで、道に迷った幼子のような表情でございましたわ」


 彼女は私の隣に、音もなく腰掛ける。

 シワ一つない純白のエプロンを整えながら、その年輪を刻んだ瞳で、私を――まるで我が子を見るように、慈しみ深く見つめた。


「お嬢様。よくぞ仰いました」


 低く、確信に満ちた声。


「旦那様も奥様も、お互いを想い合うあまり、言葉を失い、沈黙という名の檻に閉じこもっておられたのです。その堅牢な檻を、内側から粉々に打ち砕けるのは、この家では……お嬢様の、あの真っ直ぐな叫びしかございませんでした」


「……でも、私、あんなひどいことを……」


「いいえ」


 マーサはきっぱりと首を振る。


「あれこそが、岩山のような旦那様を動かすために必要な鉄槌でございました。お嬢様のお言葉があったからこそ、あのお二人は、ようやく同じ場所で立ち止まり、向き合うことができたのです」


 彼女の大きな手が、私の乱れた髪をゆっくりと撫でる。

 節くれだった指先から、この屋敷で嵐の日も雪の日も過ごしてきた長い年月と、私を今日まで見守り続けてくれた無償の愛情が、温度を伴って伝わってきた。


「お嬢様はもう、お一人で世界の終わりを待つ必要はございません」


 優しく、しかし揺るがない声。


「お嬢様が命懸けで守ろうとしていたこの家は、今夜ようやく、一つの家族として、泥濘から一歩を踏み出したのです」


「……マーサ……」


 胸の奥が熱くなり、また涙が込み上げてくる。

 けれど今度のそれは、孤独や恐怖に震える涙ではなかった。


 私は最後の一口、少し冷めたホットミルクを飲み干して心地よい重さを帯び始めた瞼を、そっと閉じる。

 マーサの手のひらが刻む、一定の優しいリズムに身を委ねながら。


 そして私は、この屋敷に来て初めて、深い眠りの底へと沈んでいった。

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