第35話 その優しさを、誰が守るの?

 石畳を叩く軽やかな足音。

 私は母と並んで歩きながら、リリアーヌに贈るお土産を選んでいた。


「リリアーヌには、この淡いブルーのリボンが似合いそうね」


「ええ。きっと、彼女の瞳の色にぴったりですわ」


 そんな、取るに足らないはずの会話が、どうしてこんなにも胸を満たすのだろう。

 母と笑い合いながら歩く、この穏やかな時間が、たまらなく愛おしい。


 ――けれど。


 その幸福は、一人の男の悲痛な叫びによって、あまりにも唐突に切り裂かれた。


「ああ、聖女様……! 聖女様、どうか……! 助けてください……!」


 身なりの整わないやつれた様子の男が、人混みをかき分け、母の足元に縋りついた。

 ざわり、と周囲の空気が変わる。通りを行き交っていた人々の視線が、一斉にこちらへ集まった。


「妻が……妻の病が、どうしても治らないんです! 医者に診せても、よくなるどころか、床に伏す時間ばかり増えていく……! どうか……どうか、お助けください……!」


 男の瞳に宿るのは、底の見えない絶望と、縋るような狂気を帯びた希望。

 母――シエラ・ヴァレンティ。

 かつてこの国を支えた、先代の聖女。その力は、衰えたとはいえ、今も失われてはいない。


「……そう。お困りなのですね」


 母は、ためらいなく男に手を伸ばした。


「分かりました。今すぐ、奥様のところへ案内してください」


 どこまでも慈愛に満ちた声。

 けれど、その横顔を見た瞬間、私の胸が嫌な音を立ててざわめいた。お母様の体調は、決して万全じゃない。それを私は知っている。


 案内されたのは、路地裏の小さな家だった。

 薄暗い室内で、ベッドに横たわる女性は、呼吸すら苦しげで、今にも消え入りそうだった。


 母は静かに跪き、白く細い手を、そっと女性の胸元へかざす。


 ――柔らかな、真珠色の光が溢れ出す。


 それが、母の癒やしの力。

 次第に女性の荒かった呼吸が落ち着き、土気色だった頬に、ゆっくりと血の色が戻っていく。


「あ……ああ……! ありがとうございます……! 聖女様……!」


 男は涙を流して拝み、集まってきた近隣の人々も口々に感嘆の声を上げた。


「さすがだ……」

「ヴァレンティ公爵夫人は、今も我々の救い主だ……」


 称賛。感謝。崇拝。

 けれど――私は、見てしまった。


(お母様……っ)


 歓声の中心で、母の顔色が、みるみるうちに蒼白になっていくのを。

 女性の身体から手を離した、その瞬間。

 母の指先が、隠しようもなく小刻みに震えているのを。


 癒やしは、無償の奇跡なんかじゃない。

 それは自分自身の生命力をすり減らして分け与える、身を削る行為だ。


「……さあ、エルゼ。お待たせしてしまったわね」


 母は、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべて、私を振り返った。


「次は、どこへ行きたい?」


 その笑顔が、無理をして作られたものだと、今の私には痛いほど分かってしまう。

 聖女として弱音を吐かず、母として娘を気遣う――その強さが、ただただ苦しかった。


(どうして……どうして、そこまで自分を後回しにするの……)


 視界が熱くなり、涙がこぼれそうになる。

 原作のエルゼなら、きっとこう言っただろう。「聖女なら当然よ」と。あるいは、自分を置いて行かれたことに、腹を立てたかもしれない。


 ――でも、今の私は。


「……ううん。お母様」


 私は、震える母の手に、そっと自分の手を重ねた。

 冷たい。驚くほど、冷え切っていた。


「私、なんだか急に疲れちゃったみたい。お買い物は、また今度でいいわ」


 ぎゅっと、指先に力を込める。


「……一緒におうちに帰って、ゆっくり休みましょう?」


 母は一瞬きょとんとしたけれど、やがて、すべてを察したように目を細めた。


「……そうね」


 本当に、愛おしそうな笑み。


「私も、あなたの淹れてくれたお茶が飲みたくなったわ」


 私たちは称賛の渦を抜け、早々に馬車へと戻った。

 揺れる車内で、母はそっと私の肩に頭を預ける。


 ――守りたい。

 この人を。この、ささやかで穏やかな日常を。


 その想いの奥で、小さな怒りと悲しみが、静かに燃え始めていた。



 __________



 公爵邸に戻った瞬間、空気は氷点下へと落ちた。


 青ざめ、今にも倒れそうな母を支えて玄関ホールへ入ると、険しい表情で仁王立ちする父・ヴォルガードがいた。


「……遅かったな。何があった」


 低く、重い声。

 母は弱々しく微笑み、言葉を絞り出す。


「街で……少し、困っている方をお助けしていたのです」


 その言葉を遮るように、父の声が鋭く響いた。


「救った? 自分の体調管理すら満足にできず、他者の心配とはな。公爵夫人としての自覚が足りないのではないか」


 焦燥の色を帯びた瞳。

 けれど、口から出る言葉は鋭い刃となって母を切り裂く。


「……申し訳ありません、ヴォルガード」


 母は伏目がちに、消え入りそうな笑みを浮かべる。


「おっしゃる通りですわ……」


 ――違う。

 謝らなくていい。

 お母様は、何も悪くない。


 その瞬間、私の胸の奥で、何かがはっきりと音を立てて千切れた。


「お父様の――馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 邸内が凍りつく。

 使用人たちが息を呑み、父は信じられないものを見るように私を見下ろした。


「なんで……! なんでそんな酷いことばかり言うの!? なんでもっと、寄り添ってあげないのよ!!」


 視界が涙で滲み、ボロボロと大粒の雫が頬を伝う。


「お父様は、お母様の夫でしょう!? 一番辛いときに、『お疲れ様』って言って、冷たい手を温めてあげるのは、お父様の役目じゃないの!?」


「エルゼ……」


「分かってるわよ! 管理が足りないことくらい、お母様が1番分かってるに決まってるわ! でも……でも、お母様は放っておけなかったの!」


 声が震える。


「それがお母様の優しさでしょう!? なんで、その優しさを、夫であるお父様が守らないのよ!!」


 私は泣きじゃくりながら、父の胸を何度も叩いた。鋼のような体に、私の小さな拳はちっとも堪えないだろう。

 それでも、言わずにはいられなかった。


「お母様が、どんな顔で笑ってたか……見てなかったの!? 酷いよ……酷すぎるよ……」


「お父様なんて……大っ嫌い!!」


 声を枯らして叫び、私はその場に崩れ落ちた。

 母の息を呑む気配。

 そして、父が石像のように固まり、衝撃に打たれた顔で私を見つめているのを、ぼんやりと感じる。


 沈黙。

 響くのは、私の嗚咽だけ。


 原作のエルゼなら、父に逆らうなど考えもしなかった。

 けれど、今の私は――この家の歪んだ愛情を、もう黙って見過ごすことはできなかった。

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