第34話 今日はちゃんと息ができる

 昨夜の狂騒が嘘のように、ヴァレンティ公爵邸の朝は、ひどく静かに、そして慈しむように訪れた。

 重厚なカーテンの隙間から差し込む柔らかな琥珀色の光が、昨日、私の命懸けの戦装束であった藍色のドレスではなく、洗いざらしの真っ白な寝巻きを清らかに照らしている。


(……生き延びた。私、本当に生還したのね)


 枕に深く顔を埋め、胸に溜まっていた澱をすべて吐き出すように、長く息をついた。


 アシュレイ殿下の、射抜くように眩しすぎる眼差し。

 ギルバート殿下の、網を絞り上げる蛇のように絡みつく執着。

 お父様の、一国を震撼させる魔王のごとき覇気。

 そして――あの月下の庭園で、不器用な騎士カイルが投げ捨てた「悪女とは思わない」という、無骨で温かな言葉。


 それらすべてが、今は心地よい疲労感となって全身の細胞に溶け込み、私の一部になっていた。

 不思議なことに、今朝は身体が驚くほど軽い。絶えず胸を締めつけていた早鐘のような鼓動も、今は嘘のように静まり、凪いだ海のように穏やかだった。


(今日は……なんだか、どこまでも行ける気がするわ)


 そんな予感を見計らったかのように、扉を叩く控えめなノックの音が響く。


「エルゼ、入ってもいいかしら?」


「お母様……!」


 扉を開けて現れたのは、最愛の母・シエラだった。

 彼女は私の顔をひと目見るなり、驚いたように瞳を見開き――そして、朝露に濡れた花がほころぶように、心から嬉しそうに目を細めた。


「あら。今朝はずいぶん顔色がいいのね。……マーサから聞いたわ。昨夜のパーティーでは、あなたがとても立派にお父様を支えていたって」


(支えたっていうか、物理的に暴走を止めて、力技で鎮圧しただけなんだけどね……!)


 喉元までせり上がった凄惨な裏事情を飲み込み、私は品行方正な令嬢の微笑みを浮かべる。


「ええ、おかげさまで。今朝は体調も心も、すこぶる安定しておりますわ。……お母様、もしよろしければ、今日は一緒にお買い物にでも連れて行ってくださいませんか?」


 私の提案に、母は一瞬だけ呆気に取られたあと、まるで恋を知った少女のように瞳をきらきらと輝かせた。


「ええ、もちろんよ! ちょうど、今のあなたに似合いそうな、優しい色の新しいリボンを見に行きたいと思っていたの」


 私たちは馬車に揺られ、王都の活気あふれる目抜き通りへと繰り出した。

 窓の外には、人々の快活な声と鮮やかな色彩に満ちた、生命力あふれる街並みが広がっている。


 原作のエルゼは、この街を「卑俗な民草の集まり」と鼻で笑い、見下していた。

 けれど今の私には、誰もが自分の人生という物語の主人公として必死に、そして誇り高く生きている、かけがえのない温かな光景に見えた。


「見て、エルゼ。あちらのテラス、素敵だと思わない?」


 母が指差したのは、色とりどりの季節の花々に囲まれた小さなカフェだった。

 公爵家という鉄格子の檻から離れ、ただの母と娘として過ごす、慈しみ深い時間。

 母の柔らかな笑顔を見つめていると、昨日まで背負っていた悪役令嬢という鋼鉄の重圧が、朝の光に溶ける霧のように薄れていくのが分かる。


(そうよ。私が本当に守りたかったのは、私自身の破滅回避だけじゃない)


 ――お母様が、こうして心の底から笑っていられる、この穏やかで愛おしい日常なのだ。


 私は、母の温かな手をそっと、けれど強く握りしめた。


「お母様、今日は何でも好きなものを買って差し上げますわ! 私の貯金……は微々たるものですけれど、お父様のツケという最強の魔法がありますから!」


「ふふ。まあ。ヴォルガードがそれを聞いたら、また眉間に深い皺を寄せてしまうわね」


 笑い合う二人の影が、石畳の上に仲良く並ぶ。


 今日だけは、断罪される悪役でもなく、物語の背景でもない。

 ただ、大好きな母と並んで歩く、一人の幸せな少女でいさせてほしい。


 そう願いながら、私は久しぶりの王都の風を、胸いっぱいに吸い込んだ。



 __________



 華やかな大通りを少し外れたところで、母が古い歴史を感じさせる小さな布店に立ち寄った。

 店先には、使い込まれた木製の台に、素朴ながらも丁寧に染められた布と、手縫いらしい温かみのあるリボンが並んでいる。


「いらっしゃいませ」


 声をかけてきたのは、深く刻まれた皺に慈愛を宿した年配の女性だった。

 豪奢な絹とは程遠い、飾り気のない服装。けれど、その眼差しは磨かれた宝石のように穏やかで、長年この街で幾多の人生を見守ってきた者特有の、揺るぎない落ち着きを湛えている。


「まあ、なんて綺麗な色……」


 母が手に取った淡い生成りの布を、女性は誇らしげに、慈しむように頷いた。


「ええ。染めは地味で目立ちませんがね、肌触りと丈夫さだけは自慢なんですよ。派手な色はすぐに流行に呑まれますが、こういうのは、長く寄り添って使えますから」


 その言葉に、なぜか胸の奥がちくりと、心地よく痛んだ。


(……長く、寄り添う)


 女性は私にも視線を向け、初夏の陽だまりのような笑みを浮かべる。


「お嬢さんにも、よくお似合いだと思いますよ。……実に、落ち着いたいいお顔をしてらっしゃる」


「え……?」


 思わず、間の抜けた声が漏れた。

「美しい」とか「高貴だ」という社交辞令は聞き飽きていたけれど、そんな言葉をかけられるのは初めてだった。


「通りを歩く人々を眺めていると、肩に力が入りすぎている人が多いんです。貴族の方も、平民も……皆、実体のない何かに追われているような顔をしている。でも――」


 女性は、私の瞳をまっすぐに見つめ、静かに続けた。


「お嬢さんは、ちゃんと地面に立っている顔をしてる。自分の足でね」


 言葉の意味を、すぐには咀嚼できなかった。

 けれど、不思議と否定したい気持ちは一ミリも湧いてこなかった。


「……そう、見えますか?」


「ええ。無理な背伸びも、怯えた縮こまりもしていない。自分の丈を受け入れている、いい顔ですよ」


 母が、少し驚いたように、けれど確信を得たような表情で私を見つめる。

 私は自分でも気づかないうちに、握りしめた布の端に、じわりと指先の力を込めていた。


「……ありがとうございます」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


 女性は手際よく会計を済ませながら、何でもない日常の会話のように言葉を紡ぐ。


「生きてりゃ、外側からはいろいろ言われますよ。見た目だの、家柄だの、役割だの。でもねぇ」


 布を包む手をふと止め、彼女はいたずらっぽく笑った。


「どんな人だって、自分の人生を、自分の足でちゃんと生きてりゃ、それで十分だと思うんですよ。たとえ派手じゃなくても、誰かに褒められなくたってね」


 その言葉は、押し付けがましい説教でも、薄っぺらな励ましでもなかった。

 ただ、荒波のような時代を生き抜いてきた一人の人間の、静かな実感だった。


 店を出たあと、私たちはしばらく、心地よい無言のまま歩いた。

 石畳に規則正しく落ちる自分の足音が、昨夜よりもずっと軽やかに響く。


「……エルゼ」


 母が、そっと私の肩に手を添える。


「私は、どんなあなたであっても愛しているけれど……今のあなたが、とても誇らしいわ」


 胸が熱くなり、一瞬返事に迷ったけれど、私は背筋を伸ばして正直に答えた。


「……はい。お母様。私も、今の私が……少しだけ、好きになれそうです」


 名もなき市井の女性がくれた言葉が、胸の奥でじんわりと、確かな温度を保ち続けていた。


 誰の物語の中心ヒロインでなくてもいい。

 誰かに称賛され、評価されなくてもいい。


(私は……ちゃんと、ここに立っている。私自身の足で)


 その小さな、けれど鋼のように強い確信が、昨日までの死の恐怖よりもずっと深く、強く、私の魂を支えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る