第36話 破滅フラグの隙間に灯るもの

 静まり返った広大な玄関ホール。

 私の激昂の余韻をかき消すように、ひどく場違いで、ひどく惨めな嗚咽だけが、冷たい空気に溶けていく。


 胸が引き千切られそうなほど苦しい。

 怒り、悲しみ、そして後悔。

 それらすべてが泥沼のように絡まり合い、肺に酸素が届かない。


「……私は、ただ……」


 低く、地を這うような掠れた声。

 父――ヴォルガードが、初めて敗北を知った者のように、迷いを湛えたまま唇を開くのが分かった。けれど、その言葉は形になる前に、凍てつく空気の中で霧散していく。


 その沈黙を切り裂いたのは、誰の怒りでもなかった。


「……エルゼ」


 ふわり、と。

 私の視界に、清らかな月明かりのような白い影が差し込む。


 母――シエラが、少し困ったように。

 それでも、私のすべてを許し、包み込むような慈しみに満ちた微笑みを浮かべて、私を見下ろしていた。


「泣かないで、エルゼ」


 夫を罵倒した私を責めるでもなく、突然の豹変に戸惑うでもなく。

 ただ、幼い頃からずっと変わらない、春風のような声。


 それだけで、私の心を守っていた最後の堰が、音を立てて決壊した。


「……っ、だって……お父様が……!」


「……ごめんなさい」


 母は、私の震える言葉を遮るように、静かに、けれど芯の通った声でそう告げる。


「あなたに……そんな悲しいことを言わせてしまって。私のために、あなたが傷つくような真似をさせて……本当に、本当に、ごめんなさい」


「……なんで……っ」


 頭が、感情の奔流を理解することを拒否する。


「なんで、お母様が謝るのぉ……っ! お母様は、人を助けて、ボロボロになって……それなのに……っ」


 声が裏返り、また熱い涙が溢れ出す。

 止まらない。蛇口が壊れたみたいに、次から次へと。


「お母様は、なにも悪くないじゃない……! 悪いのは……独りで我慢させてる、この家で……悪いのは……っ」


 言葉にならず、私はただ、幼子のように首を振りながら泣きじゃくり続けた。


 そんな私を見て、母は少しだけ困ったように、そしてどこか「この子には敵わない」と言いたげに、ふっと苦笑まじりの吐息を漏らす。


「……本当に、あなたは心優しい子ね」


 そう言って、母はそっと私の乱れた髪に触れた。

 魔力消費で震えているはずの指先は、不思議と温かく、涙で濡れた私の頬を丁寧に拭ってくれる。


 それから母は、視線をわずかに横へと移し、背後で息を殺して控えていたマーサへ、凛とした、けれど穏やかな声を向けた。


「マーサ。エルゼをお願いできるかしら。……お部屋で、温かい飲み物を用意して、少し休ませてあげて」


「……かしこまりました、奥様。仰せのままに」


 マーサが深く、敬意を込めて一礼する。


「やだ……私、まだお母様と……っ」


 お母様をこの場に一人残すのが不安で、私は子供のように母の服の裾をぎゅっと掴んだ。

 指先が白くなるほどに。


 母は、そんな私の縋る手を壊れ物を扱うように包み込み、優しく、揺るぎない微笑みを返す。


「大丈夫よ。……すぐ、戻るわ」


 その声は、一国の聖女として、そして一人の妻としての、毅然とした響きを帯びていた。


 そして――

 母は、ゆっくりと、彫像のように立ち尽くす父の方へと振り返る。


 張り詰めた空気、刃のような静寂の中で。

 彼女は変わらず柔らかく、それでいて拒めない強さを宿した微笑みを浮かべた。


「……ヴォルガード。まだ、足元が少し不安定ですの。ベッドまで……付き添ってくださるかしら」


 一瞬。


 父の鋼のような瞳が、わずかに見開かれる。


 それは、滅多に弱音を吐かない妻が差し出した精一杯の甘えであり、同時に「夫としての役目を果たせ」という、静かで苛烈な命令でもあった。


 父はしばらく喉を鳴らし、やがて短く、低く、押し出すように答える。


「……ああ」


 それだけだった。


 二人は、並んで歩き出す。

 寄り添うほど近くもなく、けれど他人と思うには離れすぎていない距離で。


 それでも――

 母の肩がわずかにふらついた瞬間、父の大きく逞しい手が、迷いも躊躇もなく差し出されたのを、私は見逃さなかった。


(……あ)


 謝罪の言葉もない。

 愛の囁きもない。


 それでも、そこには確かに、幾多の年月を重ねてきた夫と妻にしか通じない、血の通った時間があった。


 マーサに促され、私はゆっくりと、重い足取りでその場を離れる。

 振り返ると、二人の背中が薄暗い廊下の奥へと溶け込むように消えていくところだった。


 不器用で、歪で、決定的に言葉が足りなくて。それでも、この二人の糸は、まだ決して壊れてなどいなかった。


(……よかった。本当に、よかった……)


 胸の奥の氷が解け、じんわりと熱を帯びていく。


 泣き疲れて鉛のように重くなった瞼を閉じながら、私は思う。


 完璧な家族じゃなくていい。

 明日すぐに分かり合えなくても、憎まれ口を叩き合ってもいい。


 それでも――

 互いの欠落を埋めようと、不器用に手を伸ばし合っているなら。


 今日は、それが分かっただけで、私には十分すぎる収穫だった。


 マーサの柔らかな肩に支えられながら、私は自分の部屋へと向かう。

 涙でぐしゃぐしゃになった無様な顔のまま、それでも心の中には、昨夜の庭園よりもずっと澄み渡った静寂が広がっていた。


(……大丈夫)


 この家は。

 この物語は、まだ、修復が間に合う。


 滅びへと向かう破滅フラグの隙間に、一筋の光を見た。

 そう、確信をもって思えた夜だった。

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